5 / 14

第5話

 「そのとき」しか使わない筋肉が悲鳴をあげ、浅い眠りから目が覚めた。  熱っぽい身体は気怠く、起きあがることも億劫だった。それでも気合いで上半身を起こすと、あり得ない箇所の痛みに呻き声が漏れる。  「いってー……」  顔をしかめどうにか痛みの波が静まるのを待つ。じんじんとした痛みが徐々に引いていき、開かされた箇所に空洞ができてしまったような違和感が残る。  ここはもう男の形を知ってしまった。女しか抱いてこなかった俺が、男に掘られるなんて想像もしておらず、その現実が滑稽で可笑しかった。  隣で寝ている橋倉が寝返りを打った。起こしたかと思って顔を覗いてみると、鋭い眼光は閉じられ規則的な寝息を繰り返している。  寝顔は年相応に幼くさせた。  昨晩いや、さっきまでの出来事が頭を過ぎり、頬は独りでに熱を帯びた。  橋倉の手管は、すごく良かった。  最初は違和感で快楽に浸るどころではなかったが、後半は意識を飛ばせるくらい気持ちよくて俺から腰を振っていた。  ぎこちない腰の動きを笑うどころか橋倉は俺と律動を合わせてくれて、より深い所まで穿った。  こんなに意識を飛ばすまで誰かと交わったのは初めてだ。その代償が節々の痛みだけれど、その対価を払う分はあったと思う。  腰に残る甘い痺れが疼き出す。またこいつとシてみたい、と思い驚いた。  誰かともう一度交わりたい、と思ったことは一度もない。お互いその場凌ぎでしかなく、セフレのように何度か会うなどあり得ない。  けれど今までこんなに甘美なセックスがあっただろうか。  橋倉と身体の相性がいいのかもしれない。  はたと我に返り、甘い考えを振り払った。誰かともう深く関わりたくない。傷つけられるのは一度だけで十分だ。  かさぶたにもならず血が溢れている箇所を押さえ痛みに顔を顰めた。  目に見えない傷は淋しさを永遠に生み出し、俺を蝕んでいく。  後ろ髪を引っ張られる思いだったが、今までと同じように書き置きも残さずスーツを着て部屋を出た。  「次号はこれでいくわよ」  綾が手に持った書類を俺の前で広げたかと思うと、ぐんと距離を縮ませた。書類との差は殆どなく、文字がぼやけ何が書いてあるのかわからない。  「読めねえ」  「ごめんごめん。これ!」  数センチ距離が空けられ、ようやく文字がはっきりと読めた。つらつらと細かい羅列を斜め読みしていくと、「山」「登山」という単語が何個もあった。  鼻息荒い様子から、綾の企画が通ったのだろうと思っていたがこれは公私混同すぎやしないか。  「次号は登山特集よ」  「はい、キャプテン。その特集は私情が混じってませんか」  俺が律儀に挙手をすると、綾はふふん、と鼻を鳴らした。  「編集長には許可貰ってるもんね」  「だってお前の旦那……」  直属の上司は先日結婚式を挙げたばかりの綾の旦那だ。無口で人当たりが良いとは言えないが、仕事を真面目にこなし周りの評価は高い。  夫婦揃って登山が趣味だから、特集を組むんじゃないだろうなと疑問が湧く。  俺の疑念を感知した綾は先手を打つ。 「富士山が世界遺産に登録されたでしょ? そのお陰で富士山を登る人が増えて、登山に興味を持った人が多いのよ。だから私情だけでなく、世間のニーズに応えているだけなの」  最もらしいことを並べ立てるのが上手い女だ。よくもまあ、こうつらつらと言葉が出てくるものだ。  「そうですね」  「なにその感情が籠もってない言い方」  むっとしたように口をへの字に曲げたが、よほど自分の好きな分野を記事にできることが嬉しいのだろう。すぐににっと口角をあげ、俺の嫌味などどこ吹く風だ。  「それで明後日とある登山家とのインタビューがあるから、碓氷行ってきて」  「……めんどくせえ」  「上司命令」  上から物を言われたら従わなければならない社会の格式を呪った。  やはり女は昇級しない方がいい。  痛み始めたこめかみを押さえ、苦虫を噛み潰しそれを吐き出すように続けた。  「そんないきなりでよく向こうの許可が下りたな」  「その人は登山用品のアドバイザーとして勤務してるのね。だから肩書きは登山家ではないんだけど……でも、その会社の商品を大々的に宣伝するって言ったら向こうも乗り気だったわ」  さすがその辺は抜かりない。  綾は言いたいことだけ言うと満足したらしく、さっさと自分のデスクに戻って今号のチェックに入った。  「登山家」という単語に橋倉の顔が浮かんだ。確かあいつもアドバイザーだったよな、と思い出し、まさかと嫌な予感を振り払う。  明後日の予定を頭に刻み、俺はパソコンの画面に向き直った。

ともだちにシェアしよう!