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第8話
殺伐とした空気は悪循環の連鎖を繰り返すと思う。
校了間近なせいで、社内の環境が最低レベルに達している。
デスクの上は物で溢れかえっているし、そこここにある書類の山が雪崩を起こしている。人はひっきりなしに出たり入ったりと繰り返し、慌ただしいったらありゃしない。こういうときこそ、冷静に物事を分別する力を身につけるべきだ。
それらを横目でみながら、俺は細々とした字の羅列を目で流す。
デジタル化が進んでいるご時世でも、誤字・脱字の最終チェックは人の目に託される。こういう仕事はもっと下っ端がやるのだが、度重なる激務で体調を崩して急に休まれてしまい、回り回って俺のところにきた。
「またそんな座り方して!」
デスクに上げていた足を筒状にした書類で叩かれ、俺の意識は一気に引き戻される。
顎を上げて睨みつけると、綾が腰に手をあてて俺を見下ろしていた。
その表情は鬼も逃げ出すほどの形相で、新人なら一発で泣いてしまうだろう。けれど、そんな顔は見飽きてきたので、何の威力もない。
キャプテンという立場なだけあって、俺より仕事の量は多い綾の顔は疲れ切っていた。目の下には濃い隈が浮かび、髪も化粧も突貫工事なのがすぐにわかる。
ただ薬指のプラチナリングだけが、輝かしい存在を示していた。
「お前は母親か」
「あんたみたいな愚息はいりません」
「こっちだって願い下げだ」
綾の小言に付き合っている暇などない。無視してゲラを読み進めようとすると、また足を叩かれ渋々下ろした。
「これ次号の記事上がったから確認して」
「はいはい」
クリアファイルに入った書類に視線を落とすと、そこには雪山を背にはにかんでいる橋倉の姿があった。暖かそうなダウンを頭まですっぽりと被り、手にはスティックが握られている。
次をめくると、以前スタジオで撮った写真もあった。自然光で明るくなった室内に橋倉の存在が綺麗に収まる。橋倉の表情も柔らかく、あのカメラマンも中々悪いものではなかったのかもしれない、と改めるほどだ。
「橋倉さん、かっこいいでしょ」
「俺には劣るけどね」
「はいはい」
綾は呆れ顔で肩を落とした。締め切り間近のせいで体力が限界まで削らされているため、綾の言葉に覇気がない。
真剣な面持ちで山を登る橋倉の横顔の写真に視線を落とす。口角を少し上げ、まるで子どものように無邪気な表情から、山が好きで仕方がないのが紙面からでも感じられた。
何枚かある写真を一枚ずつ眺めていく。
雪山のせいか重装備で顔の殆どが隠れてしまっている。けれど周りから醸し出す雰囲気が、橋倉の穏和な空気を漂わせていた。
山小屋で鍋を囲っている姿が楽しそうに映っている。スタッフ何人かと登山についての談義をしている場面なのだろう。その表情はスタジオでみた顔よりも、何倍も心を許しているようだ。
こんな顔、俺は知らない。
色々な表情が今までみてきたものと違い、胸に風が吹いたようなさざ波が起きた。
「何回見ても素敵。山男って感じだけど真面目だし優しいし。ちょっと無口なところもあるけど」
「もう浮気ですか」
「ばっかね。あなたって鈍い」
だから駄目なのよ、と残し綾は颯爽と離れていった。その後ろ姿が、上から糸を引っ張ったみたいに背筋が伸びている。
もう一度書類に目を落とす。
「観客のいないスポーツの醍醐味とは」という質問に対し、橋倉は丁寧に答えていた。
「僕は昔から勉強ができていたわけではないし、スポーツも得意じゃなかったんです。でも何か頂点になれるものはないかと探した結果、登山にいきつきました。確かに見てくれる人は誰もいないし、自己満足な部分もあるかもしれません。けれど、山頂からの光景を一度見てしまえばテストで良い点とろうが、スポーツで優勝しようが、関係ないと思えたんです。そこには登り切った人にしかわらない風景があるんです。一度見てしまえば、病みつきになってしまいますね」
その横に山頂から撮った写真が載せられていた。ぎこちない笑みが橋倉らしい。
橋倉は不器用な男なのだ。
身体が大きいくせに反比例するように気が小さい。けれど一度決めたら怪我をしても真っ直ぐに突き進み、頑なだった俺の信念をへし折った。
『今夜はどうでしたか?』
あの言葉に、俺は何も返せなかった。
淋しさは埋まったかもしれない。けれどまた新たな感情が俺を蝕み始めたのも、感じとっていた。
その感情に名前をつけてしまったら、俺はもう二度と昔のように戻れない予感があった。それを受け入れてしまうことが今はまだできそうにない。
橋倉の写真を指でなぞると、胸に込み上げるのは確かな苦さだった。
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