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第9話
固い腕枕に頭を乗せる。筋肉と骨がごつごつとこめかみに当たり、寝にくいったらありゃしない。それでも不思議と心は落ち着いてくる。
「山頂からみた景色ってどんなの?」
「は?」
俺の髪を梳いていた橋倉の手の動きが止まり、驚いたようにこちらを見た。
「どうなんだよ」
「すみません、ちょっと驚いちゃって」
「何で?」
「碓氷さんって俺の身体にしか興味ないと思っていたので」
「……別に、この前インタビューしたろ」
ああ、と漸く納得したのか橋倉は手の動きを再開させた。
「前に綺麗なものが好きだと言いましたよね。言葉にするのは難しいんですけど、山頂からの景色はどんなものより一番美しいんです」
「抽象的過ぎてわからん。つまりテッペンまで登った者にしかわからないってやつ?」
「そうですね。言葉にすることも難しいです。これは一度直接見て、肌で感じないと共感して貰えないと思います」
「ふーん」
「……一緒に登ってみますか?」
思ってもみない誘いに、俺はまじまじと橋倉を見た。
射抜くような視線が真っ直ぐ俺に突き刺さる。そうだ、こいつは山に関することになると性格が変わるのだ。
数秒間見つめ合っていたが、視線を反らしたのは俺が先だった。
身体だけの関係のやつとセックスの目的以外で会うことは面倒だ。誘われただけですべてが冷めてしまい、もう二度と連絡をしないと去ってきたのに胸に芽生えたのは僅かな期待だった。
今日だって、セックスの後の甘い時間を過ごしている。いつもならこの時間は家の風呂に入っているのに、終電はとっくの昔に行ってしまった。
身体が辛いからとか、もう一度交わりたいからと言い訳をして橋倉の腕枕に頭を預けてしまっている。
俺はセックスの余韻に浸ることなく、終わればさっさと帰るのが常になっていた。ピロートークなんて甘ったるいだけの時間は、恋人同士でやるべきものだ。
ただ寝るだけの相手にそこまでするほどの時間と体力をつかいたくない。
俺が帰らないことに首を傾げながらも、橋倉はそれについて何も問いつめてこなかった。その曖昧な優しさが心地よくて手放せないでいる。
「考えておくよ」
「……ありがとうございます」
「何でお礼?」
「いえ、ちょっと舞い上がっているだけです」
莫迦じゃないか、と言い返したがその言葉に俺の耳も熱を持ち始めた。
そんな甘ったるいやり取り、まるで恋人同士みたいじゃないか。
気恥ずかしいような睦言も、セックスの後なら言ってしまえる力がある。お互いの隅々までさらけ出した後だからこそ、心の奥深くまで覗こうとしてしまうのだろう。
男より女の方がセックス後の会話を大事にする理由が、わかってしまった。
俺はこいつのことをもっとわかりたいと思っている。こんなにも身体は繋がっていたのに、心には触れて欲しくなくて壁を作っていた。
それが碓氷烈という男だった。
数え切れないくらい人と関係を持っても、いつもどこか満たされない。
酒に酔ってしまわないと官能の入り口にも立てないくせに、興が冷めたら背を向けてしまう。
誰かと向き合おうなど考えたこともなかった。
橋倉の方へ身体を寄せると、頬に固い髪が刺さった。まるでたわしのような剛毛で、一度寝癖がつくとなかなか直らないらしい。風呂から出たらそのまま行為に及んでしまったので、髪は四方八方に散らかっている。
「髪すごいな」
「乾かさないと、いつもこうなるんです」
恥ずかしそうにはにかむと、右頬にえくぼが出来る。その幼い表情を、久しぶりに見たような気がした。
最中と直後は大人びているのに、それ以外は内気で少し子どもっぽい。そんな橋倉を久方ぶりに思い出した。
胸に広がる確かな甘み。それは指先からつま先まで伝染し、身体全体が浮遊しているように気持ちが良かった。このまま寝てしまいたい衝動と、もう少し堪能していたい気持ちがせめぎ合っている。
夢と現実を行き来していると、橋倉が大きく息を吸いこんだ。
「……俺、来週からネパールに行きます」
「は?」
宙を漂っていた空間に亀裂が走る。隙間から冷気が刺し、感じていた甘さも温かさも一気に消え失せた。
「仕事の関係で、しばらくあっちにいます」
「聞いてない」
「初めて言いましたから」
淡々と語る橋倉からは感情が読みとれない。ただ真っ直ぐ天井を睨み上げたままだ。
これは俺との関係を止めたいと言ってるんだよな。暗に言葉にしないだけで、橋倉の態度からはそうとしか読みとれなかった。
いつ終わるともしれない関係は、友人や恋人よりも脆い。お互いの利害が一致し行為に耽り、飽きたら違う相手を捜す。そうやって後腐れのない関係を築かなければいけないんだ。
俺だってそうしてきたじゃないか。
ただ今回は相手から切り出されただけであって、今までと何ら変わらない。
そっか残念だな、お前とは相性が良かったんだけど、と言って帰ればいい。なのに、その一言がどうしても言えなかった。
空気を求めるようにぱくぱくと呼吸しているだけで、何を言えばいいのかわからない。
ただ目の前が真っ暗な闇に落ちていくようだった。さっきまでの甘い時間を幸福と名付けるなら、今は不幸の沼にはまった気分だ。
「だから……」
「もういい、わかった」
ベッドから降りて服を着た。背中に痛いくらいの視線を感じたが、無視するように努めた。
「聞いてください。俺は」
「帰る」
「碓氷さん!」
橋倉の腕が伸びてきたが、寸前のところでかわし部屋を飛び出した。
エレベーターを待っているのも億劫で、階段を駆け下りて外へ向かった。
「どうして……」
長く関係を持ってしまったのだろう。今までのように一回で済んでいれば胸が引き裂かれるような思いにならずに済んだのに。
橋倉との情事が頭を過ぎる。やさしく、でもどこか切羽詰まった表情で求められると嬉しかった。内気なくせに、セックスのときは大胆になるギャップもいい。
いつの間にか、橋倉との記憶が身体に刻まれてしまっている。
視界は歪み始め、目を擦ると生ぬるいものが手のひらに残った。泣くのなんていつ以来だろう。
大きなボストンバックを持って去っていく後ろ姿が蘇った。
「置いていかないで」と言っても、その背中は振り返らない。
「絶対に迎えに来るからね」と口にしていたのに、その約束が成し遂げられることはなかった。
失う淋しさが身体を蝕んでいく。走っているのも疲れ果て、その場に座り込んだ。
『だからもう終わりにしたい』
そう言われるのが怖かった。橋倉にだけは言われたくなかった。
小刻みに震えだした肩を抱いても、涙は止まりそうもない。
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