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第10話
一人っ子で育った幼少期は、何をするのも母親と一緒だった。ご飯を食べるのも、風呂に入るのも、寝るときも傍を離れなかった。
けれど俺が七歳のとき、母親は出て行った。
理由はわからない。
夫婦仲は良かったとは言えるほど円満でもなく、悪かったと言えるほど険悪でもなく、ごくありふれた家庭だったと思う。
いつもより早く起きた日曜日。
物音がして玄関へ向かうと、大きなボストンバックを持った母親が立っていた。薄く化粧をして小旅行に行きそうな格好だったが、切羽詰まった表情からはただならぬ空気を敏感に感じ取った。
「どこへ行くの?」
母親は鞄を置き、小さかった俺をぎゅっと抱きしめた。鼻孔いっぱいに広がる母親の化粧と洗剤の甘い香り。同じ物を使っているはずなのに、このやさしい香りは母親からしか感じられない特別なもの。
細い首に顔を預け、いつもみたいに甘えた。時間にしてみれば数秒だっただろう。母親は俺を離し再び鞄を手に取った。
そのまま背を向け、ドアを開けた。朝の斜光が視界いっぱいに広がり、その後ろ姿が光に吸い込まれて消えてしまいそうにみえた。
「絶対に迎えに来るから」
「どういう意味? お母さんはどこに行くの?」
俺の質問に答えることなく、母親は外の世界へと行ってしまった。
その背中に縋ることもできず、呆然と立ち尽くしていた。
時間が経つにつれて、最愛の人に捨てられたショックが俺を襲った。
胸を抉られ心臓だけを抜き取られてしまったような空虚感。泣いても、泣いてもその穴が埋まることはない。
学校にも行かず部屋に閉じこもったまま何日も過ごした。父親はそんな俺をどう慰めていいのか分からず、困惑しているようだった。
まだ子どもだった俺を置いていかなければならないほどだったのか、真相はわからない。
ただ、俺はそのせいでトラウマを植え付けられた。心から愛し、愛されていると感じ取っていた人物に裏切られた。それは胸を抉るような痛みをもたらし、癒えることはない。小さな身体で耐えることなど、できそうになかった。
だから気を紛らわせようと女を抱いた。
手当たり次第に相手を取っ替え引っ替えして、官能の世界に居続けた。相手に飽きられる前に自分から捨てるようにし、新たな傷を生み出さないように努めた。
そうすると不思議と胸の穴は埋まる。
元々容姿が整っていることもあって、女が途切れることはなかった。
それに慎重に相手を選んでいたから、後腐れもなく関係を終えることができ、これを繰り返していたらいつか傷が癒えると思っていた。
けれど橋倉と出会ってしまった。
俺の身体中に存在を残し、心にまで居座った。いや、居座らせてしまったという方が正しいのかもしれない。
淋しさから生んだ穴に、橋倉の存在はピタリとはまったのだ。
初めて会ったときに向けられた射抜くような視線に、俺はすべてをもっていかれた。何もかも見透かす、その強い眼差しに惹かれてしまった。
それがすべての過ちだったんだ。橋倉は海の向こうへと渡り、もう二度と会えない。口約束だけして二度と帰ってこなかった母親のように、橋倉も俺を捨てた。
再び傷は抉られる。前よりも、もっと強く深く。だらだらと血は流れ続け、治ることはない。
涙は枯れたと思ったのに、頬にまた一筋落ちた。
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