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第11話

 例えどんな災難が降りかかろうと、世界は何食わぬ顔で回っている。  橋倉がネパールに行っても俺は会社に行き、仕事をして、飯を食って、寝る。金曜の予定がなくなっただけで、俺の日常は今までと変わらない。  けれど胸に穴が開き冷たい風が吹き抜けるたびにこみ上げるものがあった。  橋倉からは一通だけメールがきた。「いってきます」と彼らしく素っ気ない一言だったが、メールが来ただけで気分が上がり、橋倉のいない日々を目の当たりにしてすぐに急降下した。  そこに別れの言葉もなかったのは、橋倉なりのやさしさなのかもしれない。  付き合っていた訳ではないけれど、けじめとして関係を終わらせる有無を伝えるべきだ。自分から終わらせられる絶好のチャンスだ。そう頭ではわかっているのに、どうしても指は動かなかった。  ぐずぐずしていると時間が流れ、橋倉が出発してからあっという間に二ヶ月が経った。  本格的な冬に入り、身を刺すような毎日が過ぎていく。  街は彩りイルミネーションで電気を無駄にしていても誰も咎めないのと同じで、俺がぼうとして仕事に取り組んでも誰も気にした様子はなかった。いや、一人だけお節介な奴はいた。  「あなた、さっきから全然進んでないわよ」  頭を紙の束で叩かれ、反動でパソコンのディスプレイに額をぶつけた。  「うるせえな」  「あら、反抗期?碓氷が怒ってるところなんて、初めて見た」  綾は猫のような目をさらに丸くさせて驚いていた。俺が誰かに感情をぶつけたことがない。それを良く知っているだけに、綾は宇宙人でも発見したかのように顔を輝かせる。  綾とは一度だけ関係を持った。お互いまだ若かったし、仕事のストレスで気が滅入っていたところに近くにいた綾を誘った。関係を持った女の中で、今も普通に声をかけてくれるのは綾だけだ。人とは違った感性を持っていて変わった奴だったが、根は良いのだ。  だから俺みたいなぼんくらを放っておけない性分なのだろう。  「またそれ見てるの?」  手に持っていた雑誌を覗き込まれる。それは先月発売されたもので、橋倉の特集をしている号だった。俺は暇さえあればこの雑誌を読み、すでに暗唱できるくらいだ。  「別にいいだろ」  「今度は開き直った。随分惚れてるのね」  「誰が、誰に」  「碓氷が、橋倉さんに」  違うの?と小首を傾げられ、俺も釣られて首を傾げた。  「惚れる」という単語があまりにも自分とかけ離れている存在で、ピンとこなかった。でもなぜか空いた胸にしっくりと馴染むのだ。まるでそれを待ち望んでいたかのように、すっと俺の一部になる。  綾は肩まで伸びた髪を払って続けた。  「私たちの結婚式のとき、二人して途中で抜けたでしょ?どうしたのって橋倉さんに訊いたら、「一目惚れしました」と答えてたわよ」  綾に問いつめられて白状してしまう橋倉が容易に浮かんだ。ベッドの上では人が変わるように追いつめられるが、素面では草食動物のように気の小さい男なのだ。  けれどいくら訊かれても普通言わないだろ。男同士だぞ?世間の偏見とかそういうことを何も考えてなかったんじゃないか。いや、元々ゲイなのだから気にしないのか。  訳が分からない。頭が痛くなってきて、眉間の皺を指で解した。  弱みをみつけましたとばかりに、綾の表情は晴れやかになった。  「今まで他人なんて……むしろ女は性欲の捌け口くらいにしか思ってなかったのにね。そんなに悩んじゃって、いい気味」  「うるさい。旦那に愛想尽かされるぞ」  「心配無用。まあその辺は察してよ。と言っても、碓氷じゃ無理か」  じゃあね、と肩を叩かれて綾は踵を返した。 アイロンがきちんとかけられたシャツがやけに眩しく映り、俺は狐に摘まれたように呆然としてしまった。  金曜の夜、午後八時。  予定以上に仕事が早く上がり、風呂も済ませベッドの上に寝ころんだ。寝るには早い時間だが、これといった趣味もないのですることもない。  目を瞑ると橋倉の顔が浮かび上がる。彼の息遣いも、身体の熱さも鮮明に思い出せた。シーツの上に手を伸ばすと、ホテルの固いシーツとは違い、柔らかく身体に馴染み余計に一人だと身に沁みた。  橋倉の匂いを探ろうと鼻を嗅いでも、何も匂わない。けれど真っ暗な世界では橋倉の匂いも再現できた。  下腹部に血が溜まるのを感じ、そっとスウェットの上からなぞる。  はっきりと主張はしてないものの、僅かに形を表していた。  かさついた指が確認するように、俺の身体を撫でる。胸の突起を摘み、強く擦ると赤く色づき芯を持った。  そのまま下へ降りていき、足の付け根を一回りし屹立に触れる。  橋倉は激しく上下に扱くのが巧かった。男同士ということもあり、お互いの弱い部分をよく熟知している。大きな手のひらに覆われ、痛いくらい強く擦るとあっという間に鈴口から体液が溢れてきた。  「あ……はしっ、くら」  切羽詰まった表情が俺を見下ろしている。こめかみから汗が伝い、俺の顔に落ちてそれを舌で舐めると、「煽ってるんですか」と語気を強めた。  「そうだよ」と返すと、屹立が橋倉の口含まれ、舌と手の動きであっという間に達してしまった。  手の中に出した精液をティッシュで拭い、ゴミ箱に捨てた。オナニーなんて久しぶりだ。しかもおかずが橋倉ってどういうことだよ。  欲を吐き出すと、頭がクリアになり虚無感が足下から忍び寄ってくる。ぞくりと背筋が冷たくなり、布団をかき集めて丸くなった。  目蓋を閉じれば橋倉がいる。けれど、それは俺が生み出した幻想だ。  もう二度と触れて貰えない存在を、未練たらしく思い描いている。  胸にちくりとした痛みがし、ここが心の場所なのだと示されていた。  感情は脳でコントロールしているはずなのに、どうして胸がこんなにも切ないんだろう。  その答えを導き出す前に、俺は目を瞑り再び橋倉の姿を求めた。

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