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第2話

「カサイスウトさん」 看護士が名を呼ぶと、僕の下心をたしなめるように、またふいに男が立ち上がった。 スウト。変わった名前だと思った瞬間、その左腕から橙色の枕がドサリと落ちた。 「あっ」 声を上げた彼よりも素早くそれを拾い、少し笑んで差し出して見せる。 「あ、っと、すみませ……、ありがとうございます」 おずおずと受け取る細い手指。白い手首に浮き出る血管の筋。 彼は恥ずかしそうに目を伏せると、早足で『心電図』と表示された検査室に消えていった。 10:48。 長い検診を終えた僕は、彼が先に帰っていないことを祈りつつ一階の自販機で缶コーヒーを買い、ロビーで飲み始めた。 すると神様は、僕の下心を応援しているらしかった。10分も待たぬうちに、彼──カサイスウトは、ゆったりとした足取りで階下に現れた。 僕の目の前を通り抜けようとする背中に、自然らしく声をかける。 「あの、」 「えっ?」 「さっきは、どうも。検診、今終わりですか?」 なんて聞くまでもないことだが。 「え、……あっ! いえっ、こちらこそどうも、先ほどはお恥ずかしいところをお見せして……ええ。今終わったところです」 「お疲れ様です」 「は、はい、お疲れ様、です、……」 知らない人間にいきなり声を掛けられたんだ、こんな反応になるのも無理はない。カサイスウトは決まり悪そうに俯くと、その場からすぐ立ち去りたそうに目を逸らし、頬をかいた。 けれど僕は、 「あれ、何だったんです?」 「えっ?」 僕はまだ、帰したくない。 「あれって……?」 「あれですよ。あなたが落とした、あの橙色の」 「……ああ、アレですか! いやぁ参りました、あれは採血の時に渡された物で。おれ採血するための血管がよく見えないらしくて、しばらくあれを腕に載せて、血管を温めておけって。そうすると血管が浮き出てくるから、その後でまた採血しましょうって。えっと、だからつまり、湯たんぽだったんです、アレ」 緊張しているのか文法が前後していて、何となく舌ったらずな喋り方がかわいい。 それだけ血管が浮き出ているのに、肝心な箇所だけ目立たず湯たんぽを載せていたという事情もかわいかった。 「へえ! 温めると血管が出るんですか。それは知らなかったな」 「科学的根拠はないらしいんですけどね」 「それで? リベンジで採血はできたんですか?」 「はい、お陰様でなんとか。ですけど、最初の時に何回も刺された所がこんなになってしまいました」 ひとたび話し始めると、スウトは砕けた雰囲気になって、蜂の巣にされた両ひじの裏を見せてきた。 透明感のある象牙色の肌の窪みに、生々しい赤紫の斑点が悲鳴をあげている。酷い内出血。酷い有様だ。

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