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第11話 炎天の月
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どこかで蝉がやかましく鳴いている。
照りつける陽射しは眩しく七輪であぶられているのかと錯覚するほどに熱い。風はなく、蒸し蒸しとした空気が重くのしかかり、水でも被ったように汗が流れてくる。
炎天(えんてん)の月、中旬。
炎天の月とは一年の八番目にあたる月のことである。昔は一月とか二月とか、数字だったんだけどねぇ、と一体どれほど昔のことなのか見当もつかない恐ろしいことを、翁が呟いていた。
「むんっ」
じゃぶじゃぶと踏み洗いした衣を絞り、千切らないようにパンッと広げる。
くすりばこの裏庭。といっても洗濯物をなんとか干せる程度の広さしかなく、ニケとフリーの洗濯物まで干すと、衣同士が引っ付いてしまいそうになる。風が強い日などは洗濯物同士が絡まっていたりして、シワになるので困った話だ。
ちらりと裏庭に生えている木に視線をやる。
幹は太く、悠々と枝を伸ばしている。それはいい。いや、良くはない。ただでさえ広くない裏庭の半分をこいつが占拠しているし、たまに毛虫なんかがぶら下がっていたりする。何度引っこ抜いてやろうかと考えたことか。
しかし木陰に入ると心地よい風が吹くので、なんとも複雑な感情になる。
物干し竿に引っ掛けてシワにならないよう、小さな手で叩く。冬場と違い、一時間もあればすかっと乾く。
(これが終わったらフリーの様子を見に行ってやるか。世話のかかるやつだ)
そわそわした様子で最後の一枚を干し終え、洗濯に使った桶の水を木の根元に捨てる。日よけ代わりに桶を頭に乗せて戻ろうとすると、裏口から背の高い青年が歩いてきた。
気づいたニケが、小走りで駆け寄る。
「ホクトさん。洗濯物終わりましたよ」
「ご苦労さんっす。お茶淹れたので休憩にするっす」
片手を挙げて朗らかに笑うのは、護衛になった丹狼族のホクトだった。
ピンと立った三角の耳に、丹念に櫛でとかれた尻尾。どちらも触ってみると案外ふわふわで、尻尾などはむはむと齧ってみたくなるほど魅力的だった。三日前、ついに好奇心に負けて噛みつこうと捕まえたら、悲鳴を上げて跳びはねたので、それからは自重している。ニケは尻尾を触られても平気なのであっけに取られた――ミナミは笑い転げていた――が、まあ個人差というものだろう。くすぐられて平然としている者もいれば、相手を殴り飛ばすほど嫌がる者もいるのだ。
すぐに謝ったが、ホクトはニケに「は」怒らなかった。
そんなわけで、ちょっと気まずい。
「いやー。あちいっすねー。ニケさん、無理しないでくださいっす。洗濯物ならあっしが」
家の中に長くいたためか、ホクトは目を手で庇いながら空を仰いでいる。黒い羽織は脱いでおり、着流し一枚だけという涼しそうな姿だ。
そんな彼の気遣い溢れる言葉を、ニケは首を振ってぶつ切る。
「護衛を引き受けてくれた方に、そんな雑用などさせられません。ホクトさんは何もせず、踏ん反りがえっていていいのですよ?」
彼は何かと家事を手伝ってくれる。慣れているが故の雑さ、というものが時折垣間見えるも、不快なほどではなく。むしろなんでもきちんとやらなければ落ち着かないニケの、いい「手抜き」の見本となっているほどだ。
ニケの一桁児とは思えないしっかりした言葉に、まだ慣れていないホクトは目を丸くする。
「そ……っすか? いやまあ、そうなんすけど。あっし、動いていないと落ち着かない質っすから。お邪魔でないのなら、手伝わせてほしいっす」
太陽のような笑顔を見せる彼に、このヒトいつでも嫁に行けるなぁと、ニケは呆れ半分感心半分といった眼差しを返す。
ニケはすたすたと家の中に入り、ホクトもそれに続く。外で会話を続けるには暑すぎる。
がらりと変わって暗い室内。
「じゃあ、その分きちんと給金をお支払いしますので、なにをやったのかメモっておいてくださいね」
目をつむったまま桶を仕舞う。
ニケの言葉に、ウルフカットから突き出す耳をピンと立てて驚く。
「ええっ? いやいや。いらないっすよ。あっしが好きで勝手にやっていることなんすから」
「駄目です。ただでさえ護衛の貴方たちに給金を支払っていないのに、そのうえ家事までやらせるなんて。僕は魔王ですか?」
「……可愛い魔王様っすねぇ。あの、聞いてないんすか? 給金、もらっているっすよ?」
ニケは目を見開いて振り向いた。
初耳である。ちょっとずつ返していた治療費(借金)のお金を、もしやそちらに回されていたのだろうか。由々しき事態である。
「はっ? え? な、はっ? なん、なんっ?」
「落ち着いてくださいっす。あれ? 本当にキミカゲ様から聞いてないんすか?」
言葉を無くしたままこくこくと頷くニケに、呆れ気味のホクトは当時のことを振り返る。
紅葉街東区にある、オキン邸――。
異国の者もいるため洋室もあるが、ほとんどが和室。百人は余裕で住めそうなでかい母屋に、離れまであり、屋根は磨かれた本瓦で火事を防ぐという小さな亀の石像が飾られている。
庭は迷子になれるほど広く、領主の屋敷より大きい。
子分の中に花霊族がいるのか、いつ来ても手入れされた花が咲き誇っているし、ちょっとしたお花見スペースまである。
そんな庭をぐるりと囲うのは、オキンが一時間で作ったような簡素な木の柵。門はなく、かといって見張りが立っているわけでもない。一部だけ柵のない場所がありいつでもだれでもどうぞ、といった構えだ。
井戸があるので汲みに来た住人がいちいち門を開け閉めするの面倒臭いだろうという、オキンの配慮である。
それなら門を開けっぱなしにしておけば良いだけではないかと思うが、まあ、家主の自由か。
そんなことを思いながら、足取り軽く庭を横切っていく。井戸を通り過ぎ、花畑を通り過ぎる。そうして散歩気分で母屋の前まで行くと、さすがに人が立っていた。
箒で、軒下に出来た蜘蛛の巣を取っていたらしい女性が振り返る。
キミカゲはぺこりと頭を下げ、挨拶をした。
「こんにちはー。オキン居るかい?」
「うわっ! キミカゲ様。無音で近づくのやめて。熊除けの鈴でもつけてよ! じゃなくて、……相も変わらずアポなし訪問しますねぇー」
黒い羽織に長い赤毛がとても映えており、口元のほくろがなんともセクシーである。オキンに古くから仕えている者で、キミカゲとも長い付き合いだ。
おじいちゃんは大げさに驚いてみせる。
「おや。駄目だったかい?」
「……」
このやり取りも何百回目である。女性は飽きたように顔を歪める。
「ボスなら部屋におられますよ。あのー。言いにくいんですけど」
「なんだい?」
髪が乱れるのも構わず、女性は雑に頭を掻く。
「あんま、ボスのこといじめないでやってください。ああ見えてメンタル雑兵なんですよ」
言いにくいと言っていた割にすぱっと言われ、キミカゲは慈愛を込めてほほ笑む。
にこっ。
「いや。笑顔で誤魔化そうとしてもだめですよ!」
「ふふっ。ばれちゃった」
「狸ジジイが」
悪態をつきながらも玄関の扉を開けてくれる。
「十分以内に出て行ってよ。でないと強制退出させるから」
「せいぜい気をつけるさ~」
上機嫌で上がり込むキミカゲの背を見送り、箒を持ったまま女性は長いため息を吐いた。
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