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第34話 雪と魔物の山

♦  それから数日後。炎天(えんてん)の月の十五日。  ニケたちはいま、凍光山(とうこうざん)のふもとに来ていた。  国と国の境目に横たわるようにそびえる山脈。雲を貫き標高三千を超え、恐ろしい魔獣、果ては魔九来来(まくらら)を使う魔物まで跋扈する危険地帯。二百メートルあたりから木々の色が灰色に変わり、上にいくにつれ黒に近い墨色となるのが、ニケたちの位置から見てわかる。 「本当に凍光山に住んでいるんですねー……」  常に冬に閉ざされているとはいえ、ふもとにはそこまで冷気は下りてこない。だがミナミは冷気とは違う、おぞましいなにかの気配を感じ取ったのかしきりに両腕を摩っている。  危険地帯に行くということで、ホクトもミナミもフル装備だ。ホクトは釣り竿のように長い、何かの包みを背負って。ミナミはぐるぐる巻きにされたひも状のものを、左右の腰に下げている。  紅葉街から馬でたった半日の距離に、この山はあるのだ。アキチカの結界がなければ紅葉街はいまのように発展し、活気で満ちることはなかっただろう。  凍光山入り口付近にある小屋。軽くノックをしてから扉を開ける。  ホクトが扉を開けて中に入ると、無人だった。簡素な椅子と机、埃の被った棚と囲炉裏があるくらいだ。薄暗い室内に埃が舞い、ミナミは露骨に顔をしかめた。 「うえぇ……。くしゃみでそう」 「誰もいないんすね」  山に登る際には人数、名前、帰還予定時刻などを記さなければいけないという決まりが、最近出来た。絶対というわけではないが、遭難者が後を絶たないからだ。とはいえ救助隊などないので、この名前を記しておくという行為は一種の願掛けに近い。無事に帰ってこられるようにと願いを込める。  それに一応名前を記しておいたおかげで、探索中の狩人が見つけてくれたというケースもあった。もちろん多めの救出料は取られたが。  ニケは慣れた様子で名前を書く台帳を開き、片眉を跳ね上げる。 「……あの野郎」  怒りの声を漏らしたニケに目を向けると、なんと台帳に「ヒスイ」の名があった。怒りの炎が一気に燃え上がる。 「なに律儀に名前を書いとんだ、あの腐れ虚無僧コスプレ野郎が! 殺人鬼の分際が。願掛けなどすな! 死ねっ」 「に、ニケ。落ち着いて」  台帳を真っ二つにしそうなニケを慌てて抱き上げる。フリーに抱きしめられると即座に台帳を放り投げ、白い胸に顔を埋めた。  よしよしと、少し伸びた黒髪を撫でる。おかっぱ程度だった髪は肩に触れる長さになっている。そろそろ括れそうだ。  ホクトは台帳を払うと、手の甲で汚れをぱんぱんと落とす。 「癇に障る奴みたいっすね。そのヒスイとやらは」 「くすりばこに居るときに襲撃してくれば、ボスの身内に手を出したってことになって、ボス直々に瞬殺してくれるから楽なんですけどね~」  希望を口にするがおそらく、くすりばこやキミカゲの側にいる間はヒスイ……魔研の者は手を出してこないだろう。  ニケはぷくぅと頬を膨らます。 「僕は絶対、絶対にそやつの隣に名前は書きませんからね! というか、僕の名前を書く必要はないです。ここ僕の住処だし。ヒスイの隣に名前書いたら呪われる」 「あ、はい」 「じゃあ、あっしとミナミの名前だけにしとくっす」  よほど嫌なんだなと思いながら筆を走らせる。ついでにミナミの名前も書く。  ミナミはその間、棚の中などを物色していた。 「空っぽじゃん。蝋燭一本もないし。普通、怪我したとき用の包帯や薬、非常食など入っているもんじゃないんです?」  答えたのはニケだった。 「昔は祖父や父がボランティアでこの小屋の掃除などしていましたけど……。その……」  祖父も父も、もうこの世には。 「ああ、すいません! ささっ、外で待っておきましょう」  努めて明るい声を出し、ミナミはフリーの背を押して小屋の外に出る。  ひゅうぅ。  炎天の月とは思えない涼やかな風が山を下り、フリーたちの髪をなびかせる。  ぎゅっと強く抱いてからニケを一旦下ろし、フリーは鞄から鈴蘭柄の半纏(はんてん)を取り出すとさっそく着込む。前で紐を結んでいると、ニケが脚をよじ登ってきた。 「あれ? ニケは寒くないんじゃないの?」  というか、ニケが先導してくれなければ、宿へたどり着けない。  当然のように抱っこしてもらう気満々だったニケはその事実に気づき、ハッとした表情でするすると地面に戻る。  その顔は真っ赤に染まっていた。 「わ、わかっとるわ! ちょっと木登りがしたくなっただけだ」 「フリーさんのこと樹木に見えているんですか?」  ほっこりした気分で笑っていると、山の方から泣き声に似た叫び声が聞こえた。かすかに。  ――おおおぉぉ……ん!  びくっと反射的に振り返るミナミだが、慣れているニケは気にも留めない。 「な、なななんですか! 今のは」 「ああ、魔獣の声でしょう。そろそろ出産ラッシュなので」  魔獣たちが比較的おとなしい時期でもある。比較的。  氷の力を宿すこの山の魔獣たちは、冬という最高の季節に子を産み落とすために発情期が来る。  龍虎や蚕精霊(かいこせいれい)といった魔獣は、子を産む雌を守るために巣の周囲から動かない。愛妻家や雌の尻に敷かれている魔獣のみ大人しい、と言い換えても良いかもしれない。出産後は「餌とってこい」となるので、魔獣(雄)が活発になる。 「へ、へえ~」  幼子の口から出る強力な魔獣共の名に、ミナミはちょっと引いた。  そうこうしていると、やっとホクトが小屋から出てきた。ミナミはすかさず文句を垂れる。 「遅くないですか? 名前書くのにどんだけ時間かかってんだ。遅いのは喋る速度だけにしてほしいですねー」 「はいはい。悪かったっすね」  ミナミの顔を押しのけ、フリーたちに笑顔を向ける。 「じゃあ、行きましょうっす。あ、その半纏(はんてん)似合ってるっすね」 「えへへ。キミカゲさんが貸してくれました。あったかいです」  自慢げに半纏の裾を掴んで両腕を広げる。  いつの間に用意したのか、ニケは小さな旗を取り出すとぱたぱたと振ってみせた。 「では、僕の後についてきてください」 「「「はーい(っす)」」」  青年三人の声が重なる。  案内人になった気分のニケはふんすと意気込むと、恐れることなく山へ踏み込んでいく。  誰もいなくなった小屋の台帳。ヒスイと書かれていた部分だけ、戦時中の教科書のように黒く塗りつぶされていた。

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