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「響、疲れてる?居眠りするの、珍しかったから」  壱弥の手が伸びてきて、頬を撫でられた。ふわりとジャスミンが香る。響が壱弥にプレゼントしたハンドクリームの匂いだ。 「……ああ、うん……少しね。それに、ドライバーが優秀で、運転が快適過ぎたってのもあるかも」  優秀だと言われ、壱弥が嬉しそうに笑う。その屈託のない笑顔に、響も自然と口元が緩む。  目的の階に到着すると、頬を撫でていた壱弥の指は響の耳を掠め、名残惜しそうにしながらも離れていった。  壱弥の温度が消えると、自分のまわりの空気が、二、三度ほど冷えたように思える。  そんな自分には、気づかない振りをする。 「……よし。行こう」  顔を上げ、背筋を伸ばしてエレベーターを出た。   「……それにしても、あの地下鉄に一条さんもいらしてたなんて。本当に大変でしたね」  ソファの向かい、小森という管理職の男がハンカチを額に当てる。  今日、この話題を彼に振られるのは二回目だ。  響はにこりと笑い、温くなったコーヒーを飲んだ。  響達が訪れているこの『バイオセキュアテック』は、生体認証技術と位置情報機能を研究・開発している会社で、コンペ用カラーのセキュリティ部分の開発を依頼をしている。  先日の地下鉄事件のおかげで、それら機能が十分に実用的であることが証明されたわけだが、地下鉄内の位置データがうまく確認出来なかったというフィードバックが英司からあった。  響達が提案するカラーの魅力は、優れたデザインと共感性の高いコンセプト、そして堅実なセキュリティによる安全性だ。  通勤や通学などの移動手段として、多くの人が利用する地下鉄内で機能がうまく働かないのでは、自信を持って安全性を(うた)えない。  今日はその位置情報管理システムの改良についての相談を、という話だったのだが。 「宮下さん、どうされたんでしょうね」  響がさも心配そうに担当者の名前を口にすると、小森の口元がひきつる。 「先ほど、もう少しで到着すると連絡がありましたので……お待たせして申し訳ありません」  十五分前も、今と同じ台詞を聞いた。  曇りガラスで仕切られたミーティングルームには、予定時刻から既に二十分が経過しているにもかかわらず、担当者である宮下悠人(みやしたゆうと)はまだ姿を見せていない。  宮下は前回の打ち合わせにも遅刻したし、その前は資料に不備が目立った。  それでも彼が担当を外れることはないはずだ。社内の人事評価にも影響は及んでいないだろう。なぜなら、宮下はこの会社の社長令息だから。  毎回のように業務に十分な準備をしていない宮下に対して、響はもちろん腹立たしさを感じているけれど、バイオセキュアテックの技術力は認めている。

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