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壱弥の気分が沈んでいたことに気づいたらしい響と木之原の様子に、壱弥は笑顔を作った。
「ありがとう。響はイチゴのやつが好きでしょ。先生はチョコが好きだし、俺はこの、果物がいっぱい乗ってるやつにする」
そう言って、箱からタルトを取り出す。他の二つも皿に置き、ささやかにクリスマスを祝った。
「すげぇうまい」
フルーツがツヤツヤとして、見た目も綺麗なタルトは味も絶品だった。壱弥は大きな口でそれを頬張る。
「口に合って良かったよ。僕のおすすめのケーキ屋でね……っと、失礼」
デスクの電話が鳴り、木之原は一言二言話した後、「すぐ戻るから二人で食べていて」と部屋を出て行った。
「こっちも美味しいよ。壱弥、食べる?」
ほら、と響がショートケーキの苺の部分を壱弥の口元に運ぶ。あーと口を開き顔を寄せそうになって、慌てて引き返した。
「あ、いや、……大丈夫。響食べて」
何か言いたげな響の視線には気づかないふりをして、またタルトを食べる。きっと響は、急に距離を取り出した壱弥を不思議に思っているだろう。
「……ん?これ……」
口に入れた果物の香りが、記憶の中のある匂いと一致する。地下鉄と、宮下、脅迫状。それらに共通する匂い。
「どうした?」
「……この果物、何?」
「ああ、これはドライフィグだよ。無花果 。……無花果がどうかした?」
「……これ、無花果って、TX+の匂いに似てる」
「え、そうなの?」
響が壱弥の皿を持つ手に自分の手を重ね、ケーキを引き寄せる。タルトに乗った無花果に鼻をくんくんとさせ、「こんな匂いがするんだ」と言う。
近づいた距離に心臓が途端に騒がしくなった。壱弥は必死に、自分の腰と腹に貼られた抑制剤に意識を向ける。
大丈夫。響からはヒートの気配はない。大丈夫だ。
「無花果の香りなんて情報、どこにも出てないのに。壱弥の鼻、本当にすごいな」
響の口元が柔らかく緩み、馴染みのある香水が香った。大好きな香りに、胸が締め付けられる。離れていく響の手を、思わず掴んだ。
「……響……」
口が勝手に名前をこぼす。続く言葉は見つからないのに。
「……壱弥――」
響が何か言いかけた時、診察室の扉が開いた。
「ごめんね。ちょっと機器トラブルがあったみたいで」
木之原が戻ってきて、慌てて響の手を解放した。
「どうかした?」
微妙な空気感を感じ取ったのか、木之原が尋ねる。
「あ、いえ。あの、壱弥は本当に鼻がいいなって話をしていて……今も、タルトの果物の香りが、TX+に似てるって」
響が壱弥の手元へ視線をやった。
木之原もそれにつられ、タルトをじっと見つめる。
なるほどと呟いて、響と壱弥の向かいのソファに腰をおろした。
「TX+か……面白いね。聖書では、神の言いつけを破ったアダムとイヴが、自らの裸を隠すのに無花果の葉を使ったとされているんだ」
チョコケーキを一口食べ、木之原が満足そうに頷く。
「聖書の、創世記の部分ですね」
「そう。無花果の葉は、アダムとイヴが神の命令に逆らったことで生まれた、恥や罪の象徴と解釈され、人間の不完全性を表している。その意味では、TX+に合った香りかもしれないな」
「人間の不完全性か……本当に、違法薬物 にはピッタリですね」
木之原と響の話を聞きながら、壱弥は自身の不完全性を考えた。神の命令に背いた罪の象徴。罪を犯した者には罰が下る。
俺はどんな罰だって受けるから。
どうかあと少しだけ、響と一緒にいさせてください。
切実な祈りを胸に、罪を隠すようにタルトに乗った無花果を食べた。
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