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 壱弥は諦めて、覚悟を決めた。息を吸って、吐く。理性を入れて、熱を出す。  ベッドに片膝を乗せ、響に被さるように身体を寄せた。首筋辺りに鼻を近づける。香水とアルコール。ヒートの気配はない。身体を起こし、もう一度深く呼吸をした。 「……分かった。……ベッド、入っていい?」 「うん」  響が嬉しそうに微笑むから、肋骨の奥がぐうと押されたみたいに息苦しくなる。  ギクシャクとした動きでベッドに入った。響の身体に触れないよう気を付けながら、仰向けの体勢になる。 「ありがとう」  不意に、隣から声がした。 「……なに?」  顔を向けると、さっきの微笑みを浮かべたままの響と目が合う。 「……壱弥が一緒だから、悲しくない」  響の柔らかな声が、空気を伝って、壱弥の耳から胸の奥に染み込む。  悲しくないという言葉に引っ張られ、昔の記憶の入ったファイルが、頭の中で勝手に開く。  残飯を探す公園で見た、楽しそうに遊ぶ親子。色とりどりのお弁当を広げる同級生達の横で、半額シールの貼られた菓子パンを一人で食べた遠足。居酒屋のバイトで、売り上げの集計が合わなかった時、レジなんて一度も触らせてもらえなかったのに「金を盗っただろ」と責められた日。  ドミノ倒しのようにパタパタと連続して開く記憶は、最後はいつも同じ夜の景色になる。  布団の中で、眠りに落ちるまでバルドルのページを開いて、響を思った。美味しいサンドイッチと、温かなマフラー。俺の神様。響のことを考えている時間は、寂しくない。悲しくない。 「……俺も。響がいれば、悲しくないよ」  目の奥が熱い。無意識に響へと伸ばしていた手を、響が包むように引き寄せる。握られた手を、離さないといけないとはもう思えなかった。  夜の色と、響の香りと、互いの呼吸と心臓の音。それしかないこの部屋の中なら、許されるような気がした。 「……手、よくなったね」  響が壱弥の指に触れながら言う。  あかぎれやひび割れで、使い古した雑巾みたいにボロボロだった壱弥の手は、響がくれた高そうなハンドクリームを塗るうち、だんだん綺麗に治っていった。 「響からもらったクリーム、いつも塗ってるよ」 「そっか。……いっぱい傷ついてて、痛そうだったから」  響が指から視線を上げ、壱弥を見る。 「壱弥の傷も、悲しいことも、俺がなくしてあげるよ」  どこまでも真摯に聞こえた声に、壱弥は呼吸を忘れた。 「……俺の真似じゃん」  やっと思い出せたように息を吸って、不恰好に笑って言い返した。響も笑って、目を閉じる。 「……壱弥、おやすみ」 「うん。……おやすみ」  夜の色と、響の香りと、心臓の音。呼吸の一つが寝息に変わる。壱弥はじっと響の寝顔を見つめていた。  響を思うと、灯がともるみたいに、心が温かく照らされる。これが単純な本能の反応だとしたら、本能はなにもシンプルじゃない。甘くて苦い。幸せなのに苦しい。対極の思いが同居する。  この気持ちを、なんて呼ぶのだろう。  壱弥のファイルに、答えは存在しない。  その夜はただ、響の寝顔を、まつ毛が作る薄い影まで刻み込むように記憶していた。

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