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「オメガだって、道具の所有者を選ぶ権利くらいはあると思いません?親の力に甘えて、薬物に手を出して、自分の犯した罪さえ、まともに償えないようなアルファは……さすがにクズすぎて、金払っても遠慮したいな」
響が心底哀れむように笑う。わざと挑発していると思った。まんまと宮下が、「ふざけんな!」と声を荒げる。
「誰に口聞いてんだ!あ?!オメガの分際で、調子乗ってんなよ!」
どこまでも安い台詞を吐いて、宮下が殴りかかってきた。壱弥からはまるで、喧嘩を知らない子供が、ただ腕を振り回して突進しているようにしか見えない。カウンターを打つため構える壱弥に、響が「俺がいく」と小さく呟いた。
響は余裕のある動きで宮下の腕を躱 す。素早く懐に入りこみ、技の見本映像みたいに美しい巴投げを決めてみせた。
コンクリートに背中を打ち付け、苦しそうに呻く宮下に、「自分より弱い奴も、論外」とどめの一言を落とす。
「響、大丈夫?」
「うん。余裕。防犯カメラで、ちゃんと正当防衛も証明されるし」
だからわざと、宮下を怒らせるようなこと言ったのかと理解する。もうじき英司が呼んだ警察も来るだろうし、壱弥の出番はないまま、始末がつきそうだった。
「――ふ、ふざ、ふざけんなよ……みんな、馬鹿にしやがって!殺してやる……殺してやる……!」
カチャリと無機質な音を立て、折り畳み式のナイフが宮下の手の中で開かれた。
長い刃が放つ鈍い光に、こめかみの血管がピンと張りつめる。沸き起こる激しい怒りの感情に、スウと血の気が引いていくように頭が冷えた。
「……殺すって、響に言ってるの?」
ナイフを構え、フラフラとした身体でなんとか立っている宮下を見下ろした。
「響を殺すって言った?」
「……な、なん……っ、ひ、ぃ、」
地を這うような壱弥の声に、武器を持っている宮下の方が後ずさる。
宮下が動く前に、その手首を容赦なく蹴り上げた。ナイフは駐車場の床を滑り、数メートル先の壁にぶつかる。
腰を抜かす宮下に、壱弥もしゃがんで目線を合わせた。
人を好き勝手に痛めつけてばかりで、きっとされる側になったことのない男は、過呼吸を起こしたみたいにガタガタと震えている。
「今度響に近づいたら、俺がお前を殺すよ」
目をしっかり見つめながら、淡々と告げる。冗談でもなんでもない。本当に自分は、なんの躊躇いもなくそうするだろうと思った。
「……壱弥、もう大丈夫だよ。ありがとう」
立ち上がると、響に軽く引き寄せられ、背を優しく撫でられた。青い炎みたいな静かな激情がおさまっていく。
「警察がくるまで待とう」
頷き、宮下を監視しながら警察と英司の到着を待った。
その間、宮下は膝を抱え爪を噛み、ずっとうわごとのようにぶつぶつと一人呟いていた。
――どうして、どうして。一条さんのことが、好きなだけなのに。ほんとに、最初はただ好きで……恋人になりたかっただけなのに――
小声で掠れ、ほとんど言葉になっていないそれは、きっと響には届いていない。どこまでも身勝手な宮下の心の叫びを聞きながら、壱弥は目を伏せた。
好きなのに。恋人になりたかっただけなのに。なんの免罪符にもならないけれど、宮下も響に、対極が同居する気持ちを抱えていた。
壱弥は、響のことが好きだ。大好きで、世界の何よりも大切にしたいと思う。なのに時々、すごく凶暴な気持ちにもなる。自分だけのものにしたいとか、支配して閉じ込めてしまいたいとか。甘くて苦い。幸せなのに苦しい。
この矛盾だらけの感情が恋というなら、壱弥はずっと昔から、響に死ぬほど恋をしている。
「響!壱弥!」
駐車場に英司の声が響いた。同時に数人の警察官やパトカーも駆けつけ、あたりは途端に騒がしくなる。
「二人とも大丈夫か?怪我は?」
「俺も壱弥も大丈夫。なんともないよ」
響と英司が話す姿を見て、壱弥はほっと息を吐いた。
英司の到着で気が緩んだのか、足元から力が抜ける。あれ?と思った時には、地面に膝を着いていた。
「壱弥?」
響の声が、何重にもぶれて聞こえる。視界が歪み、重く鋭い頭痛が襲ってきて、目を開けていられなくなった。床に蹲 るように頭を抱えた。声も音も遠ざかり、身体の感覚も曖昧になる。
――タイムリミットだ。
響の無事を安堵する気持ちと、もう一緒に居られないという絶望の中、壱弥は意識を手放した。
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