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[16] 夕陽

 屋敷の与えられた自室でレオネはぼんやりと夕陽を眺めていた。夕陽は西側に取り付けられた小窓からオレンジの光を細い帯にし部屋を照らしている。やがて夕陽の光が細く細くなり消え、部屋は青紫から濃紺へと変わっていく。まるで海の底に沈んで行くようだ。 ――コンコンコン  控えめなノック音と共にドナートが入ってきた。 「レオネ様……」  応接間のソファでクッションを抱えてぼんやりとしているレオネに静かに声を掛ける。 「ああ……すみません。ちょっと眠っていたようです」  真っ暗な部屋で灯りも付けずにいたことを恥ずかし思い、笑顔を貼付け嘘をつく。  ドナートは優しく微笑みカーテンを引き、部屋に電気式の灯りを灯す。 「夕食をお持ちいたしましょう。マルタがトマトと魚介のスープを作りまして。このスープはマルタの得意料理で特に絶品ですよ」 「……ありがとうございます」  ドナートが夕食を運ぶべく一旦部屋から出ていった。  食欲が全く無い。でもいらないと言って皆を心配させるのも気が引ける。  屋敷の皆はとても優しい。玄関ホールであれだけの大騒ぎになったのだ。少なくとも建物内にいるマルタとソニアはもう何があったか分かっているはずだ。  ドナートは玄関ホールで座り込んで泣く二十三歳の成人男性を笑うこと無く優しくなだめてこの部屋まで連れてきてくれた。ソニアはその後お茶を入れに来てくれて、山盛りのお菓子を置いて行った。マルタが夕飯に魚介のスープを作ってくれているのはレオネの故郷が海に近い土地だからだと思われる。 (主が『男娼のようだ』と言った男なのに、皆優しい……)  自分はここに居てよいのだろうか。この屋敷の主に妻として認められていないのに、ここに居座っていることに恥ずかしさを感じる。 ――コンコンコン  再びのノックにドナートが戻ってきたと思い「どうぞ」と返事をした。扉が開き半身だけのぞかせた人物にレオネは身を強張らせた。 「話がしたい。良いか?」  ジェラルドがそこにいた。  泣き腫らした顔を見られたく無くて、とっさに目を逸らし、なんとか返事をした。 「はい……」  ジェラルドはテーブルを挟みレオネの向かいに座った。レオネも抱いていたクッションを横に置き居住まいを正す。 「その……、すまなかった!」  ジェラルドは座ると瞬時にそう言い、テーブルに額をつけるように頭を下げてきた。レオネはびっくりして固まった。  ジェラルドは顔を上げレオネをまっすぐ見つめて言葉を続ける。 「君とジルベルタが繋がっていたと言うのは、私の完全な思い込みだった。君に酷い暴言を吐いてしまった。申し訳なかった……!」  銀縁眼鏡の奥にある黒い瞳には悲しさや申し訳無さが滲んでいたが、先程のような冷たく突き刺すような色は無くなっていた。 「あ、いえ……」  何か言葉を発するとまた涙が出てしまいそうで、なんとか短い相槌のような言葉を発する。 「縁談自体もバラルディ家の人間が暴走して巻き起こしたことだ。家長として監督できていなかった私の責任だ。君やブランディーニ家には全く落ち度が無いのにこのように巻き込んでしまって申し訳ない」  やっぱりジェラルドはこの結婚を望んではいないのだ。このまま破談になるのだろうか。このままここでこの人との関係は終わるのだろうか。ぼんやりとした思考がレオネをまた暗闇に引きずり込もうとしている。 「それで、今後の事なのだが……」  ジェラルドがそう言い始める。レオネは心臓がギューッと圧縮されるような感覚に陥り無意識に胸元のシャツを掴んでいた。 「届け出は既にジルベルタが出してしまった。私はサインしていないから文書偽装で訴えれば取り消せるはずだ。……だかジルベルタは罪に問われることになる」  衝撃的な内容にレオネは顔を上げた。 「そんな、ジルベルタ様を訴えるようなこと……!」 「だが彼女はそれだけのことをした」 「ですが、実のお姉様にそんなこと……」  ジルベルタは確かに強引な所があり、かなりクセが強い女性なのだが、レオネがバラルディ家本邸に入ってからは一緒にお茶をしてくれたり、王都サルヴィで流行っているものを教えてくれたりと、何かとレオネを気遣ってくれ、実はとても優しい方なのだなとレオネは感じ始めていた。  レオネの動揺にフッとジェラルドが微笑んだ。 「……君は優しいな」  その優しげな笑顔があの日の朝を思い出させレオネの心臓が大きく跳ねる。 「我がバラルディ商会としても身内から犯罪者を出したくないのが本音だ。でも君が望むならジルベルタを訴えようと思っていたが……」 「いえ、私はそのような事望んではおりません!」  レオネがはっきりとした口調でそう答えるとジェラルドは「ありがとう」と礼を述べた。 「となると、後は離縁の手続きをするしか無いのだが」  そこまで言われてまたレオネの心臓がギューっと縮みだす。しかしジェラルドはそのまま話を続けた。 「……数ヶ月で離縁となると君の経歴を大きく傷付ける事になる。私としてはそれは最も避けたいんだ。だったらジルベルタが刑務所が入るべきとさえ思っている」  駄目だ、ちゃんと言わないと誰かが不幸になってしまう。もう嫌われても軽蔑されてもそこに縋るしかない。レオネはそう決意し口を開いた。 「あ、あの! ジェラルド様は不本意かと思いますが、このまま婚姻関係を続けるのが一番良いかと思います。もしブランディーニ家が受け取った金額がジェラルド様としてご納得できないようであればお返しますので……どうか……!」  今度はレオネが頭を下げた。それに対しジェラルドは困ったように声をかけてきた。 「レオネ、顔を上げてくれ。これは君がお願いする事では無いんだ。私からお願いするよ。君にはこのまま私の妻としてバラルディ家に居て欲しい」  レオネは顔をあげジェラルドを見た。ジェラルドは真剣な目でレオネをまっすぐに見ている。レオネは目の前が明るく開けていく感覚がした。しかし…… 「だが、……この結婚を君の身売りにしたくない。だからジルベルタの計画通り、これはあくまで両家の業務提携としたいんだ。タブロイド紙に載った海亀亭での件は……、お互い海亀亭は使ったことがあるが会ったことは無いとさせてほしい。もっと信用度の高い新聞社に記事を書かせようと思っている。……だから、今後私は君には決して触れないと誓うよ」  ジェラルドの優しい声が響く。レオネは理解が追いつかないその言葉を必死で反芻した。 ――君には決して触れない。 「もし君に一緒になりたい女性ができたら迷わず相談してほしい。だから、適度に女性と付き合うことも認めるよ。あまり派手な遊びは慎んで貰えるとバラルディ家としては助かるが……。」  ジェラルドが少し困ったような、何か胡麻化すような笑顔でレオネに言ってきた。  レオネは自身の胸元を掴んだまま大きく息を吐いた。落ち着け、と必死に自分に言い聞かせる。 「……ジェラルド様、わかりました。それでお願い致します。……お気遣いありがとうございます」  ジェラルドの目を見てそう言うとジェラルドはホッとしたように微笑んだ。 「レオネ、ありがとう。伯爵としての君の成長に期待しているよ」  ジェラルドは立ち上がり右手を差し出してきた。レオネも同じく立ち手を差し出し、しっかりとした堅い握手を交わす。 「遅くなったが、バラルディ家にようそこ。私のことは父親のようなものだと思って、なんでも頼ってくれ」 「……はい。よろしくお願いします」  ジェラルドの手は相変わらず肉厚で大きかったが、前より冷たいように感じた。  お互い笑顔で交わした握手はやがて解かれ、ジェラルドはそのまま部屋の出口へと向かい、「おやすみ」と静かに言って出ていった。まだ日没から小一時間程度。もう今日は会わないと宣言されたような感覚がする。  レオネはジェラルドを見送った後、その場に立ち尽くしていたがヨロヨロと再びソファに座り、クッションを抱きしめた。  結婚が破棄にならなかったことへの安堵感は大きかった。故郷への影響もなく、父や兄が把握している内容に何ら変わりはなく、何か報告する必要もない。だがこの数ヶ月思い描いていた期待からは大きく反れた現実がそこにあった。  縁談自体が好条件であったことは確かだが、レオネは相手がジェラルドである事だけに価値を見出していたのだと実感した。ジェラルドが自分を欲してくれていると思った時、ものすごく嬉しかった。だが現実は違った。ジェラルドはレオネが欲しかったわけではない。  これまでレオネは誰かから求愛されることはあっても、自ら誰かに好意を感じ行動に出たことはなかった。つまりジェラルドを誘ったあの夜が初めてだった。だがそのこともジェラルドは無かったことにしてしまっている。ジェラルドにとっては気の迷いであり後悔していることなのだ。そして彼は二度と自分には触れてくれない。  (抱きしめてキスして欲しい……。泣いて縋ったら彼は同情して抱いてくれないだろうか……)  そんな思いがレオネの心に渦巻く。 『君には貴族としてのプライドは無いのか。男娼のような真似をして』  ジェラルドの言葉が蘇る。  もうジェラルドに嫌われたくない。軽蔑されたくない。  レオネはまた涙が出そうなのをぐっと堪えた。  ジェラルドは伯爵としてのレオネに期待していると言った。バラルディ商会の支店で働くことはできなかったが、本社のしかも会長の近くで働けるのだ。こんな素晴らしいことはないじゃないか。 (前向きに、前向きに考えるんだ)  レオネは天井を見つめるように上を向き、涙が溢れないように必死に耐えた。

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