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[28] 誘惑

 翌朝、レオネは昨日と同じく五時頃に目を覚ました。  昨日より今朝の方がさらにジェラルドの顔を見て話せる自信が無いので、庭を散歩して頭を冷やす事にした。  着替えてバスルームからまだ濡れているシャツを回収しタオルに包む。ランドリールームに立ち寄り、シャツを籠の奥に紛れ込ませ足早にその場を立ち去った。  庭に出ると朝のひんやりとしたそよ風がレオネの金の髪を撫でる。髪を束ねてこなかったが風は穏やかなので邪魔にはならなさそうだ。初夏の清らかな空気が淀んだ身を洗い流してくれるような気がした。  庭に咲き誇った薔薇たちを見て回る。花弁に着いた朝露が朝日を反射して散りばめられたビーズのように光輝いていた。レオネは時々目立つ雑草を抜いたり、枝の様子を観察しながら庭を見て回っていると庭の奥を歩いているジャンを見つけた。 「ジャン!おはよう!」  少し遠いので声を張って呼び掛けるとジャンは誰か居るとは思っていなかったようで、ビクッと大きく身体を震わせた。ジャンは驚きつつ、若干迷ってからおずおずとこちらに歩いてきた。やはり挨拶はしないとまずいと思ったのだろうか。 「お、おはようございます。レオネ様」  やけにニコニコと言うかニヤニヤした感じに目をキョロキョロと泳がしつつ挨拶してきた。まあ、ジャンはいつもそんな感じではあるが。 「おはよ。早いね」 「え、ええ……。ちょっと庭の様子を……」  あまり草木に関心が無さそうだったが、興味が出てきたのだろうか。もう作業をしてたのか服もだいぶ汚れていた。 「何の作業してたんだ?凄い汚れちゃってるけど」  レオネに質問されてジャンは更に目をキョロキョロさせた。 「えっと、その……向こうの、えーっと石垣? の所が汚れていたので……」  レオネはそんな所気付かなかったが、何かあったのだろうか。ガーデンパーティ以降、レオネは庭作業をしてないので気付いてない事があるのも当然ではある。  あれだけの大量の人を庭に入れたのだ。荒らされたわけではないが、意図せず荒れてしまう部分もあるだろう。そう思うとパーティの後見回るべきだったなとレオネは反省した。 「よく気付いたね。ありがとう。でも休む時はちゃんと休みなよ」  レオネは笑顔でジャンをねぎらった。ジャンは赤くなり「は、はい……」と言ってうつむいた。 「私はもう戻らないと。じゃあね」  そう言ってジャンを残し屋敷へと戻る。ジャンはそんなレオネをずっと見つめていた。  玄関ホールの大きな柱時計を見ると時刻はもう七時十分前だった。  ふとレオネは髪を束ねていないことに気付いた。食卓に座るには髪はまとめたい。部屋に一度戻るべきかと悩んでいるとソニアが通りかかった。 「あ、ソニア! 髪留め持ってる?」  呼び止められてソニアが足を止める。 「おはようございます。レオネ様。紐ありますよ。結いますか?」  ソニアはエプロンのポケットから茶色いリボンを出した。 「じゃ、お願いできる?」  ダイニングルームへ繋がる談話室に入り、レオネはソファに座りソニアが後ろから手櫛でレオネの髪を整える。 「編みますか?」 「いや、束ねるだけで良いよ。もう七時になる」 「はーい、じゃ素早くちょっと編みます」  時間優先と言ったけどソニアとしては編み込んだ髪型にしたいらしい。素早い手つきで髪をまとめながらソニアが言った。 「……もうシャツ戻したんですね」  レオネはギクッとした。ついさっき籠に入れたシャツにもう気付いたらしい。ソニアの声が笑っている。 「ん……まあ……」  適当に誤魔化すがソニアはまだその話題を続ける。 「また協力しますよ?」  ソニアがイタズラに誘うように言ってくる。レオネは声を潜めながら返した。 「罪悪感が凄いんだ……。もうしない」 「罪悪感なんて感じなくても良いと思いますけど……」  ソニアはつまらなさそうに言う。完全にからかわれている。 「ソニア、魔が差しただけって言っただろ。誘惑しないでくれ」  少しはっきりと声を張って言うと、横からフワッと空気が流れた。 「おはよう」  レオネとソニアの脇をそう挨拶してジェラルドが通り抜けた。 「……おはようございます」  二人のぎこちない挨拶が揃った。  ジェラルドはそのままダイニングに入っていく。  ザァッと血の気が引くような気がした。 「どうしょう! 聞かれたかも!」  声を潜めながらもソニアに言う。 「大丈夫ですよ! 会話の中身までわかりません」  ソニアも流石にちょっとは焦ったようだが淡々としている。そして「はい、出来ました〜」と髪から手を離した。 「ささ、ジェラルド様はもうダイニングですよ」  そう言ってレオネの背中を押す。  せっかく庭を散歩してドロドロとした気持ちを洗い流してきたのに結局戻っている気がする。  ソニアはレオネを残しパタパタとダイニングの奥のキッチンへと行ってしまった。ここに残っていても仕方ないので、レオネもダイニングへと入った。  「おはようございます」  改めてジェラルドに挨拶しいつもの席につく。ジェラルドは「ん……」とだけ返事をし、お茶を飲みながら新聞を読んでいる。  特に会話も無くもそもそと食べ進めるだけの朝食時間。昨日よりも一層ジェラルドの顔が見られないし、ジェラルドもなんだかあまり機嫌が良いくない気がする。レオネが二日連続でこんな調子だからかもしれない。 (あんなこと、本当にすべきじゃなかった……)  己の欲望の強さと心の弱さが嫌になってくる。 「今朝はお早いお目覚めでしたね。お庭を散歩されていたのですか」  ドナートが気遣いお茶を淹れながらレオネに話しかける。 「ええ。薔薇の様子を見に」 「今が盛りですもんね。見られるうちに楽しみませんと」  ドナートが優しい笑顔で言ってくる。レオネはそういえば、と思い出し話を続けた。 「ジャンがもう庭に出てましたよ」 「ジャンが? 散歩でしょうか」 「いえ、作業していたようで、もう結構服が汚れていました」 「随分朝早くからですね。やる気が出てきたのでしょうか」  ドナートは少し心配そうに言った。 「あまり根を詰めるなと言っておけ。睡眠不足は事故にも繋がる」  話を聞いていたジェラルドが新聞を見つつ言った。ドナートが「承知致しました」と返事をする。そらからジェラルドは新聞を畳みテーブルの脇に置くとレオネを見て言った。 「ロッカ視察の件、私が同行しようと思う。来月になるが……」  てっきりドナートか秘書のウーゴ、またはバラルディ商会の誰かが同行すると思っていたので驚いて言葉に詰まる。 「いいか?」  ジェラルドがレオネに対して許可を求めてくる。レオネは慌てて声を出した。 「も、も、もちろんです! ジェラルドが一緒に来てくれるなんて思って無かったので驚いて……」 「ん。私も見ておきたいと思ってな」  ジェラルドが微かに笑う。 (ジェラルドとまた一緒にいられる……!)  レオネは嬉しさで胸がいっぱいになった。本来の目的であるロッカの居住エリア視察と言う任務を忘れかけそうだ。 「サルヴィ駅までは車でウーゴに送って貰って、ラヴェンタまでは汽車で行く。そこからロッカまではラヴェンタ支店から車を出させるよ。汽車は始発になるかな」  ジェラルドが淡々と行き方を説明する。 「あの、汽車は二人で乗る……と言うことですが?」  レオネはふと疑問と不安を感じて聞いた。 「そうだが……嫌か?」 「いえ! 嫌とかではなく……」  レオネは少し戸惑いながら言った。 「私、汽車の乗り方と言うか、切符の買い方がわかりませんが、ジェラルドはご存知ですか……?」  ジェラルドと二人きりと言うことは妻であるレオネが積極的に雑用をしなければならない。だが汽車は乗ったことはあるがいつも使用人が一緒でレオネは着いていくだけだった。レオネの正直な申し出にジェラルドがフハッと吹き出し、そのまま俯き肩を震わせている。ドナートが見兼ねて口を挟む。 「ジェラルド様がわかりますので大丈夫ですよ。ジェラルド様、そんなに笑ってはレオネ様に失礼ですよ。普通は使用人が手配するのが当然なのですから」 「……そうだな。レオネ、君にも乗り方を教えるよ。一人で乗ることは無いと思うが何でも経験だ」  ジェラルドは目尻の涙を拭いつつ言った。  自分の世間知らずさには恥ずかしくなるが、ジェラルドとの間にあった重い空気が晴れた気がしてレオネは嬉しくなった。何よりジェラルドとの二人旅が楽しみで仕方ない。 「はい!よろしくお願いします!」  レオネは目を輝かせ返事をした。

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