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[31] 泣虫
「脳震盪 ですね」
瓶底のような眼鏡をかけた小柄な老医者はサラリとそう断言した。
三時間の道程を二時間四十分でラヴェンタまで戻り、宿泊先のホテルですぐに医者を呼んでもらった。
ドナートが事前に予約したホテルはラヴェンタで一番の高級ホテルで、部屋はリビングとベッドルームが二つあるスイートだった。主寝室のダブルベッドにジェラルドを横たわらせ、やきもきしながら医者を待つこと三十分。やっと来た頼りなさげな年老いた医者は、状況を口頭で聞き、ちょこっとジェラルドの頭と瞳孔を見て、すぐに診断を下した。
「本当に大丈夫なんでしょうか⁉」
レオネは医者に問い詰める。
「コブが出来てますが、今は意識もはっきりとしてますし、まあ問題はないでしょう」
「夜分にありがとうございました」
ジェラルドは医者に礼を言い、さっさと診察を終わらせようとする。
「で、でも先生! 彼は意識が無かったんですよ⁉ 呼んでもすぐに返事をしなくて……!」
「うん、脳震盪ってそういうものですから。ま、吐き気とか意識障害が出たらすぐ連絡してください。無いと思うけど」
医者は相変わらずの調子で淡々と答える。
「先生、シャワーを浴びたいのですが良いですよね?」
ジェラルドが聞くと医者は「短時間ならいいですよ」と答えた。そして医者はレオネをチラッと見た後、ジェラルドに向って言葉を足した。
「あと……その、激しい運動はしばらくお控えてください」
ジェラルドは一瞬間を置きながらも「わかりました」と答えた。医者はそのまま帰って行った。
「大事に至らなくて良かったです。私もこれで失礼します。明日朝また駅まではお送り致しますので」
ブラージ支店長も丁寧に挨拶し帰って行った。駅までは大した距離では無いのだが念の為、朝も迎えに来てくれることになった。
時刻はすでに夜十時半過ぎ。
ジェラルドがシャワーを浴びると言うので脱いだジャケットを受け取る。土埃で汚れていたが明日帰るだけだからそのままで良いと言われた。レオネもジャケットだけ脱ぎジェラルドのジャケットとともにハンガーに掛け、土埃を手で叩き落とす。それからレオネはルームサービスで夕食を頼んだ。ジェラルドが何を食べられるかわからないので違う種類のものを選んだ。
ジェラルドがシャワーを浴びている間、レオネは心配でたまらなかった。シャワー中に倒れたらどうしようかとバスルームの前をウロウロしてしていた。
「わっ」
バスルームのドアが開き、出てきたジェラルドはすぐ近くにいたレオネに驚き声を上げる。
「あ、すみません! ……気分は悪くなってないですか?」
「大丈夫だって」
ジェラルドは笑いながらバスローブ姿でレオネの横をすり抜け、ダイニングテーブルに並べられた皿の数々を見た。
「頼んでくれたのか」
「何か食べられそうですか」
レオネは不安そうに聞いた。
「何でも食えそうだぞ。レオネも腹減ってるだろ」
ジェラルドが笑顔でそう言うが、レオネは全く空腹を感じていなかった。
「レオネも先にシャワー浴びてくるか?」
ジェラルドが気遣ってそう言ってくれる。暑い中一日動き回って汚れている感じはするが、早く食べてジェラルドにはベッドで休んでもらいたい。
「いえ、大丈夫です」
そう言ってレオネも席に着いた。
ジェラルドはいつもと変わらない食欲で食べ始め、レオネも食欲は無いがスープを口に運ぶ。スープをスプーンで意味なく混ぜながらレオネは言った。
「あの! 本当にすみませんでした……。私の軽率な行動でジェラルドを危険にさらしてしまいました……」
ジェラルドはレオネを見つめて困ったように笑いながらも言った。
「ああ、そうだな。君は周りが見えてなかったな」
ジェラルドの言葉にレオネはシュン……と俯 いた。
「あの時危険だったのはむしろ君の方だった」
そう、だからジェラルドがレオネを庇いこんな自体になってしまったのだ。
「何かトラブルがあった時こそ冷静にならなくてはいけない。それにより二次災害が発生する恐れがある。それから、私はあんな暴言は言われ慣れてるから、私や商会への悪口は気にしなくていい」
未熟なレオネにジェラルドが淡々と言い聞かせる。レオネは己の不甲斐なさを反省しそれを黙って聞いていた。
「……だが、怒りを感じてくれたことは嬉しかった。ありがとう」
ジェラルドが柔らかに微笑みレオネに言った。
レオネは首を横に振り、必死に涙を堪えた。
その夜、深夜になってもレオネは全く寝付けなかった。
倒れて呼びかけても目を覚まさないジェラルドの姿が脳裏を離れない。
恐怖だった。
あのままジェラルドが目を覚まさないのではないか、そのまま死んでしまうのではないかと思い、これまでに体験したことの無い恐怖と焦燥感に襲われた。
朝汽車で話した老婆を思い出す。夫に先立たれ十五年経つ十五歳年下の妻。二十三歳のレオネには十五年は果てしなく長く感じる。
汽車の中で微かに、だが遠くに感じていたジェラルドとの別れが、この投石事件により鮮明に身近なこととして浮かび上がってしまった。
(医者もただの脳震盪だと言っていた。ジェラルドも元気そうだ。大丈夫だ。大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせるが、一人ベッドで暗闇に包まれるとその恐怖感はひたひたと全身を包んでくる。
汽車で会った老婆は夫の迎えを待っているようだった。ジェラルドもいつかエレナが迎えに来るのを待っているのだろうか。
(私が死ぬ時ジェラルドはきっと来てはくれない……)
神に誓った本当の夫婦ではないのだ。きっと死ぬ時は一人なのだとレオネは思った。結局ジェラルドの心配をしているようで、エレナにジェラルドを渡したくないだけなのかもしれない。
(ジェラルドがエレナ様に連れて行かれたらどうしよう……!)
疲れた頭が悪い方へ妄想させる。
レオネは寝ていたツインのベッドルームから抜け出て、ジェラルドの寝ている主寝室のドアをそっと開けた。
静かに部屋に入りベッドに横たわるジェラルドに近づく。ジェラルドは左側頭部を庇うように右側に身体を丸めていた。
ベッドサイドの床に膝をつき、マットに両手を置くとジェラルドの顔にそっと頬を寄せる。頬にジェラルドの吐く息を感じてホッとした。
レオネはそのままジェラルドの寝顔をしばらく見つめていた。カーテンの隙間から差し込む月明かりで微かに照らされたジェラルドの顔。穏やかな安定した呼吸を繰り返していることに安心する。
ふとマットに置いたレオネの手をジェラルドが握ってきた。
「……レオネ……?」
ジェラルドがふわりと目を開け、レオネを呼ぶ。
「あ……」
どうしようかとレオネは固まった。
「……どうした?」
手を握ったままジェラルドが聞いてくる。
「息……して無かったらどうしようと思って……」
なんとか発した声は涙声になってしまった。
レオネの答えにジェラルドがクスクスと笑う。
「レオネ、そんなに心配しなくてももう大丈夫だよ」
ジェラルドが握ったレオネの手を子供をあやすように揺する。
「だ、だって……こ、怖くて……」
優しいジェラルドに涙腺が緩み涙がボタボタとこぼれ落ちる。ジェラルドはレオネの頬を伝う涙を拭いながら言った。
「子供のころ、無茶な遊びして頭ぶつけてコブ作ったこととか無いか? 貴族でもあんなに自然の中で育ったんだからあるだろ?」
「……あり……ますが」
「そんなのと同じだよ。大した事じゃない」
ジェラルドの手が頬から髪に移り、レオネの頭を撫でる。
「さ、もう自分のベッドに戻りなさい。君の方が倒れそうだ」
ジェラルドにそう促されるがレオネはその場を離れたく無かった。
「ここにいちゃ駄目ですか……?」
レオネがお願いするとジェラルドは一瞬目を見張ったがすぐに困ったように言った。
「そこにいて、ずっと私の寝顔を監視してるのか?」
レオネは小さく頷く。
「フハッ、そんなの眠れないよ」
ジェラルドが笑う。
なんとかこの場に留まりたくてレオネは必死に言った。
「お願いです! 変なことしないから……」
レオネの発言にジェラルドは一瞬固まりつつも更に大きく「アハハハ」と笑い声をあげ、溜息をついた。
「はぁ……まったく君は、可愛いなぁ……」
ジェラルドはレオネの髪を撫でながら、困ったような顔で呟く。
「でももうダメだよ。これ以上は私も堪えられない。さ、良い子だから自分のベッドに戻って」
ジェラルドがはっきりとした声色言ってきて、レオネはこれ以上は迷惑になると理解した。
「わかりました……」
レオネはゆっくり立ち上がると「おやすみなさい」と言ってその場を立ち去った。
翌朝、レオネはジェラルドに起こされた。
「おはよう。朝食頼んだけど起きられる?」
ジェラルドはベッドに腰掛け、レオネを見下ろし優しく髪を撫でていた。
「えっ? わっ! ジェッ……」
レオネはガバッと起き上がりパクパクと言葉にならない言葉を口にした。
ジェラルドが笑いながらレオネの寝乱れたローブの合わせを直す。
「あ、すみませんっ! えっと、体調、大丈夫ですか?」
ジェラルドはすでに着替えて髪も整え、いつも通りの変わらない笑顔で言った。
「ああ、大丈夫だよ。レオネはあの後眠れたか?」
言われて記憶を辿る。
あの後も結局ウジウジとしていたが、外が少し明るくなってきたあたりから記憶がないので寝落ちたのだと思う。
「はい……」
「ん。じゃ、着替えて出ておいで」
ジェラルドはそう言うと部屋を出て行った。
一晩経ってジェラルドの体調が悪化していない事で、レオネはやっと本当に大丈夫なのだと思えるようになってきた。
着替えて髪をまとめリビングスペースのテーブルに着く。
朝食を食べ進めているとジェラルドが「食欲が戻ったようで良かった」と言ってきた。昨夜全然食べていなかったことに気付かれていたようだ。結局心配しているつもりが心配をかけてしまっていた。
よくよく考えたら『ジェラルドの寝室に勝手に入って枕元で泣きわがままを言う』などどいうなんて愚かではた迷惑な事をしてしまったのだろうとレオネは猛烈に恥ずかしくなった。ジェラルドは泣いている子供をあやすように、手を握り頬や頭を撫でてなだめてくれた。己が情けなく実に恥ずかしいと思う反面、嬉しいとも思ってしまう。
「あの……、昨晩は本当にすみませんでした……」
改めてジェラルドに謝罪する。頭が混乱した状態で何やらとんでもないことを口走ったような気もしてくる。ジェラルドはテーブルに頬杖をついてニヤリとレオネを見て言った。
「いいよ」
きっとベソベソと泣いている姿を思い出されていると思いレオネは真っ赤になった。そんなレオネを見てジェラルドはクスクスと笑いつつ聞いてきた。
「まあ、ちょっとトラブルはあったけど、居住区の今後について答えは出せそうか?」
ちょっとのトラブルどころでは無い。
「もう一層の事、高級ホテルにしちゃいましょうか」
レオネがぷりぷりと怒りながら言うとジェラルドはアハハハと笑い「本気か?」と聞いてきた。
「半分本気です」
何しろジェラルドが殺されかけたのだ。当然石を投げた奴らに対してレオネの怒りは全く治まっておらず、正直生活を守ってやる気になれない。
しかしレオネの怒りとは裏腹にジェラルドはのんびりと笑いながら言った。
「半分は正気で良かったよ」
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