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[35] 薔薇

「独りにしてしまってすみませんでした」  レオネは帰りの車中でジェラルドに謝ってきた。 「全く問題ないよ」  ジェラルドは笑みを浮かべて言う。  クレメンティ侯爵の誘いを断るにはあれが正解だったとジェラルドは思う。もし断れなくてレオネがクレメンティ侯爵と踊っていたら、今日は女性達ではなく男に群がられていたかもしれない。それはジェラルドとしては耐え難い。 「あ、薔薇咲いてますね」  レオネがジェラルドと自身のブートニアを見て言った。夕方は慎ましく閉じていた白い花弁が開いている。白薔薇かと思っていたそれは花芯が薄紅色に染まった種だった。 「可愛らしい色だ」  『可愛らしい』などと表現してみるが、外見は清楚な白なのに内側が薄紅色に染まっているなんてなんだかエロティックだとジェラルドは思った。レオネが着けているからそう思ったのかもしれない。 「今、庭ではちょうど秋薔薇が見頃なんですよ。今日は蕾を選びましたが、満開の樹も沢山あって」  レオネが愛しそうに薔薇のことを話す。  ふとジェラルドは思い立った。 「着いたら少し見ていこう。案内してくれるか?」  ジェラルドの要求にレオネは嬉しそうに「ええ、もちろん!」と返事をした。  明日から出張で帰るのはひと月先だ。薔薇の季節は終わってしまう。何よりもう少しレオネとこの夜を楽しみたいと思った。  屋敷に着き車を降りてから二人で庭をゆっくり歩いた。玄関前のロータリーやメインの通路にはガス燈を配置しているが、庭の奥までは灯りは付けていない。幸いにも満月に近い大きな月が出ていて夜の庭をほんのりと照らしていた。  夜の薔薇を眺めながら今夜の事を話した。  レオネが最初に踊ったクレメンティ侯爵の連れはやはり男性だったそうだ。 「最初そうかなと思っていたのですが、話したらやはり男性でした。ドレスは好きで着てるっておっしゃるので、『よくお似合いです』って言ったら『知ってます』って返されましたよ」  レオネがクスクス笑いながら話してくれた。  ジェラルドはエドガルドに会ったことと、ロッカ集落売却の件はうまく行きそうだと話すと、レオネはとても喜んだ。 「これです。今日のブートニアはエレナ様の薔薇から二輪頂きました」  庭の奥に進むとひっそりと花を咲かせている樹を示しレオネは言った。  ガーデンパーティの時にも言っていた薔薇だ。ジェラルドはあの後庭を見ると言ったのにすっかり忘れていた。 「綺麗に咲いているな」  その白と薄紅色の薔薇は樹に対して花の数は少なかったが、二十年近く経っていると思えば花をつけているだけでも凄いのかもしれない。  しかし、レオネの口からエレナの名が出る事にジェラルドは微かな不快とも不安とも言い難い感情を感じた。 (レオネは私の前妻に嫉妬してくれないのだろうか)  全く嫉妬していないならやはりジェラルドへの気持ちは家族愛に近いものなのでは無いだろうか。  周りの人からは相違相愛の夫婦のように言われるからやはりレオネは自分を愛してくれているのではないかとジェラルドは思ってしまう。しかし他人には二人の事情はわからないのでレオネのジェラルドへの思いやりが夫への献身的な愛のように見えているだけの可能性もある。 「春よりもやはり秋は数が減ってしまって。来年の春はもっと咲くと良いのですが……」  レオネが不安げに言う。 「もう樹も寿命なのだろう。咲かなくなっても気に病まないでくれ」 「ですが……ジェラルドとロランドにとって大切な薔薇だと思うので……」  レオネはとても淋しそうな顔で笑ってみせた。その表情からはレオネのジェラルドに対する気持ちは読み取る事ができない。どちらにせよ、出張から戻ったらレオネ本人に聞くのだ。そう決心したのに確認することが怖いと感じる。もし父親のように慕ってくれているとしてレオネがジェラルドの想いを知ったら、もう今のような関係には戻れない気がする。 「……ジェラルド?」  ぼんやりとしていたジェラルドをレオネが心配そうに覗き込んでくる。長い睫毛に縁取られた紺碧の瞳に月が映り輝いて見える。 (今夜はこの時を楽しむべきじゃないか)  ジェラルドは天を仰ぎ深く深呼吸してレオネに言った。 「なあレオネ、一曲練習に踊ってくれないか」  手を差し伸べると、レオネは一瞬驚き、そして美しく微笑み手を重ねた。 「ええ、喜んで」  身体を寄せてホールドを組む。 「……曲はどうしましょう?リズムだけ?」  レオネが笑いながら聞いてくる。 「じゃ、君の鼻歌で」  そうリクエストすると「えぇー」とレオネは笑いつつも先程会場で流れていたワルツを口ずさみ始めた。レオネの心地よいハミングに合わせて煉瓦敷きの庭を踊り回る。 「ジェラルド! 全然踊れるじゃないですか!」  レオネが驚き声を上げる。 「ジルベルタに散々付き合わされたからな」  ジェラルドも笑いつつレオネに言う。 「うちと同じですね。兄と交代で散々練習させられました」 「さっきはフォローで踊ったこと無いなんて言ってたけど?」  ジェラルドはちょっとニヤリとしながらレオネに聞いた。レオネはハミングを挟みながらも苦笑して言う。 「殿方と踊るなんて御免です」 「私も男だよ?」  冗談半分ではあるが、レオネの気持ちの確信に迫るような言い方で聞いてしまった。  ステップを踏みながらレオネが言い淀む。 「……ジェラルドは、特別ですから」  レオネの耳と首筋が月明かりでもわかるくらい赤く染まっていく。上がった体温によってレオネから薔薇の香水の香りが強く漂ってきた。出かけに香った時よりもレオネ自身の香りと混ざりより官能的にジェラルドの鼻腔を刺激する。  どちらともなく脚が止まった。レオネが少し顔を上げジェラルドを見る。ジェラルドもまたレオネを見つめた。どちらも目を逸らすことが出来ず、互いに揺れる瞳を見つめ続けた。 (ああ、もう無理だ……)  明日から出張だとか、想いを伝えるタイミングとか、ごちゃごちゃと悩んでいたことが全部月夜に溶けていく。もう今すぐレオネが欲しい。  ジェラルドの視線がレオネの薄く開いた唇に移り、腰に回した腕に力がこもる。レオネの身体が微かに震えた気がした。 「レオネ……」  愛しい人のその名を囁く。  その時だった。 ――ガシャン!  突然何か金属を叩きつけたような大きな物音がして、ジェラルドはとっさにレオネを背中に隠し叫んだ。 「誰だ! 誰かいるのか⁉」  その物音はガラガラガラ……と更に音を立てながら煉瓦の小道からバケツが転がってきた。 「す、すみません……」  暗闇から人が出てくる。 「ジャン!」  ジェラルドの背中から顔を覗かせたレオネが呼んだ。 「ひ、人が居ると思わなくて、驚いて……」  おどおどしながら庭師見習いの男が出てくる。  ジャンは転がるバケツを追いかけ拾うと、中に入っていたと思われる園芸道具をガラガラと戻した。  (驚いたのはこっちだ……)  心臓がバクバクしている。  せっかくいい雰囲気だったのにぶち壊されて腹が立ってきた。 「……ジャン、仕事熱心なのは喜ばしいが、暗くなってまで作業を続けるのは危険だから止めるように」  雇い主として当然のようにきつく注意する。 「あ、す、すみません……」  ジャンはおどおどしながら謝る。以前ドナートにも注意したのにどう言うことなのか。 「そ、そうだよ、ジャン。こんな時間まで作業する必要は無いはずだ。終わらないならちゃんと相談してくれよ」  レオネも同じようにジャンを諭す。 「はい……」  ジャンがじっとレオネを見つめている。いつもと違ってドレスアップしたレオネを見つめてしまう気持ちはわかるが、その視線をジェラルドは不愉快に感じた。 「レオネ、冷えてきたからもう中に入ろう。ジャン、君ももう休みなさい」  ジェラルドはジャンにそう言い残し、レオネの背中を押して屋敷の中に入った。  明るい玄関ホールに入って「はぁ」と溜息をつく。 「おかえりなさいませ。お疲れ様でございました」  ドナートが笑顔で迎え出てきた。 「……レオネ様、ご気分がすぐれませんか?」  俯くレオネにドナートが心配そうに声をかける。 「え! いえ! だ、大丈夫です!」  レオネは真っ赤になって必死に否定した。チラッとジェラルドに潤んだ目線を投げて来たがすぐにそらされてしまった。 「で、では私はこれで……」  レオネはそう言うと逃げるように自室へと行ってしまった。 「……何をされたんですか」  ドナートが怪しんで聞いてくる。 「……未遂だよ」  ジェラルドがそう答えるとドナートは「は?」と言って目を見開いた。 「ジェラルド様、まさかこのタイミングですか⁉ 明日からひと月不在にするのに⁉」 「だから未遂だって言ってるだろ」 「未遂って……」  まだ何か言いたそうなドナートを置いて、ジェラルドも自室へと入った。 「じゃ、行ってくる」  ジェラルドはいつもの朝と同じように玄関ホールでレオネと使用人達に言った。 「お気をつけて」  レオネはそう言いつつもジェラルドの後に着いて外まで見送りに出てきた。  ウーゴが手渡されたジェラルドの手荷物を車に積んでいる間にジェラルドはレオネの元に戻り声をかけた。 「なあレオネ」  出発の挨拶をしたのに話しかけてくるジェラルドにレオネは微かに驚きながらも「はい」と返事をする。 「戻ったら話したい事があるんだ」  ジェラルドは帰国後に自分自身が怖じ気付かないように先手を打つ事にした。 「なんでしょう……」  レオネはやや戸惑った顔をする。ジェラルドはフッと微かに笑った。 「戻ったらゆっくり話したいんだ」 「わかりました。お待ちしております」  レオネはキリッとした表情でそう返してくる。 (これは、仕事の話だと思ってるなぁ……)  ジェラルドは苦笑しつつ、「じゃ、良い子にしてるんだぞ」と言ってレオネの頭を撫でた。それだけでレオネの頬が赤く染まる。  車に乗り込み発進させる。  レオネはその姿が見えなくなるまで見送り続けてくれていた。

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