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[36] 薬茶

 ジェラルドが国外出張へと出発してから四日目の朝。レオネはダイニングでいつも通り朝食を取っていた。斜め左側の席をぼんやり見つめながらデザートの葡萄を口に含む。口の中で弾ける果汁はあまり甘くない。 「今日の夕方にはホテルに着くでしょうから、電話、かけてこられるんじゃないでしょうか」  ドナートがお茶を注ぎながら唐突にレオネに言った。誰からの電話だとは言わないがレオネが待つ人は一人しかいない。 「そんな着いただけでかけてくるでしょうか」  ジェラルドは節約家だ。高い電話料金を払ってまでそう頻繁に電話をかけてくるとは思えない。 「私はかけてくると思いますね」  ドナートが確信を持ってニッコリと断言してくる。  確かにすぐ近くの商会に電話が引いてあるのに、自宅まで引いてしまったのだ。かけないほうがむしろ損なのかもしれない。  その時。 ――リリリ……リリリ……  電話のベルが鳴った。 「え!」  レオネが思わず立ち上がる。 「流石にジェラルド様では無いはずです」  ドナートがそう笑いながら談話室に置かれた電話機へ向かって行く。レオネも気になり後についていった。可能性は低いがもしかしたら、と思ったからだ。 「はい、バラルディです。……おはようございます。……まったく、何をされているのですか」  電話に出たドナートがなにやら呆れたように話している。 「ええ、いらっしゃいますが。……ジェラルド様が不在だとすぐこれですか。……はいはい、お待ちください。レオネ様、ロランド様です」  ドナートの口調から予想していたがやはり掛けてきたのはロランドらしい。ドナートから受話器を受け取る。 「もしもし?」 『あ、レオネ! おはよう』 「おはようございます。どうなさったのですか?商会からかけてらっしゃるのですか?」 『そうだよ。うちに電話が入ったってきいたからさ。父さんもいないし』  電話機ごしにロランドが楽しそうに言う。 「そんな、料金が勿体無いですよ」 『用があってかけたんだよ。レオネは今日一日家にいる?』  レオネは「おりますが?」と答える。 『僕のアパートメントの近くに新しいパティスリーが出来たんだ。そこのケーキ買っていくから一緒にお茶しようよ。あ、僕のアパートメントにレオネが来てくれてもいいよ?』  ロランドは本気かジョークかわからない雰囲気でレオネを口説いてくる。間違いなんて起こらないと分かっているが、彼のアパートメントで二人きりで会うのは流石に良くない。 「こちらに来ていただけると助かります」 『ま、そう言うと思ったよ。じゃ、三時頃行くから』 「ええ、お待ちしております」  そう言って受話器を置く。 「ロランドが三時頃いらっしゃるそうです」  ドナートは「承知致しました」と返事をする。 「まったく、ジェラルド様が出張に出るとすぐサボり始めますね。次期会長なのですがらもっとしっかりして頂かないと」  ドナートが困ったように愚痴る。  レオネとドナートが話しているとジャンが談話室に入ってきた。 「お、おはようございます……」 「おはようございます。ニコラはどうですか?」  ドナートが挨拶しつつジャンに聞く。 「ニコラがどうかしたのですか?」  レオネは疑問に思い聞いた。 「実は昨夜、座った椅子が壊れて腰を悪化させてしまったようで」  ドナートがそう言い、レオネは驚き声を上げる。 「大丈夫なんですか⁉」 「今は歩けないほどじゃないけど、た、立ったり座ったりが辛そうです」  ジャンがそう答える。 「椅子が壊れるなんて……」  腰が悪いニコラが座った椅子がよりによって壊れるなんて、なんて運の悪さだろうかとレオネは思った。 「ふ、古い椅子だったんです。僕が確認したら脚の根本がなんか緩んでました。危ないからもう捨てましたが」  ジャンがそう早口で言った。 「すぐに医者を呼びましたが、安静にしているほか無いようです」  ドナートが言う。  ニコラとジャンはこの屋敷敷地内の離れに住んでいる。レオネはそんなことがあったなんて全く知らなかった。 「あ、あのレオネ様、それで庭仕事……僕一人だと終わりそうになくて……一緒にやってもらえないですか?」  ジャンがおずおずと聞いてきた。その内容にドナートは口調を荒げる。 「ジャン! 使用人が仕えている方に作業をお願いするなど……分をわきまえなさい。レオネ様はあくまでご趣味で園芸をされているのです。作業者が足りないなら人を雇います」  ドナートが言っていることはもっともなのだが、ジャンはいつもながらレオネとの距離感がズレている。 「まあ、ドナート。私も気分転換したいですし。ジャン、午後からなら少し手伝えるよ」  薔薇の様子も気になるのでレオネは引き受けることにした。ジャン一人での作業にも若干の不安を感じる。 「じゃ、じゃあ、午後からよろしくお願いします!」  ジャンは嬉しそうにそう言うと談話室を早々に出ていった。 「レオネ様、申し訳ございません」  ドナートが溜息をつき謝る。 「いいですよ。あまり堅苦しいのも好きではないですし」  レオネは苦笑いしながら答える。 「ですが、レオネ様はジェラルド様の大切なご令室なのですよ。ソニアもレオネ様に馴れ馴れしいですし……。若い者にはきちんと指導しなくては」  ドナートは鼻息荒く決心したように言った。  清々しい秋空の下、レオネは庭仕事に出た。  秋晴れの青空に映える薔薇たちを眺めながらの作業は、ジェラルド不在の淋しさを癒やしてくれる気がする。  枯れた花殻を取ったり、雑草を取ったりしながら作業を進めると、エレナの薔薇がある場所まで来た。古木ながら美しく花を咲かせている。中央がピンクに染まった白い薔薇を見てジェラルドの顔が思い浮かぶ。  ロッカ集落をブランディーニ家に売却する案をジェラルドに高く評価してもらったことで、レオネの承認欲求はかなり満たされた。さらにジェラルドが帰国したらもっと事業へ関わらせて貰えるらしい。  妻として必要とされなくても、商売の手伝いで役に立てればジェラルドはもっとレオネを見てくれるだろう。たとえそれが恋愛感情では無くてもジェラルドが自分を見てくれて必要としてくれるだけで自身は満たされるはずだとレオネは考えるようになっていた。  毎夜昂ぶる自身の身体とも一年半以上の付き合いとなり、最近は淡々と処理できるようになったと感じている。まだジェラルドへの想いは上手く処理出来ているとは言えないが、あの初めての一夜を良い思い出として、憧れのような感情に昇華出来れば、とレオネは考えていた。  舞踏会のブートニアにこの薔薇を選んだのは、もうエレナに嫉妬しないと言う決意と、舞踏会にはジェラルドは本当の妻であるエレナを連れていくべきだと思ったからだ。  だが舞踏会でのジェラルドは終始甘い空気を漂わせ、レオネはずっと胸が高鳴ってしまった。  そもそもあのロッカ投石事件以来、ジェラルドはレオネの想いに気付いている気がするのだ。ここ最近ジェラルドは時折レオネの髪や頭を撫でたり、確信に迫るような質問をしてきたりする。きっとレオネが赤面するのを面白がってからかっているのだ。でもそんなジェラルドもレオネは憎めないでいるし、何より触れられることに喜んでしまう。  この庭でジェラルドと踊ったのは本当に夢のようだった。ジャンによってその夢からは醒めたが、その直前、ジェラルドがレオネにくちづけをしようとした、……ように思えた。ジェラルドが空気に当てられたのか、レオネの勘違いかはわからない。でもあのまま邪魔が入らなかったら、ジェラルドが動かなくてもレオネの方からキスをせがんでしまったように思う。 「レオネ様、休憩にしませんか」  作業を始めてから一時間程度経った頃、ジャンが声をかけてきた。レオネはまだ疲れていないし、三時にはロランドが来るから休憩は不要だと断ろうとしたが、ジャンが息付く暇なく言葉を続けた。 「ば、ばあちゃんが庭で育てたハーブティーを送ってきて、それを淹れてきたんで……」  ジャンは相変わらず目を泳がせつつ言う。だが『おばあさんが育てたハーブ』と言うのはどんなハーブが入っているのか興味が湧く。レオネのイメージではジャンの祖母がロッカ視察の時汽車で乗り合わせた老婆に変換されていた。 「へぇ、じゃあ頂こうかな」  レオネの答えにジャンが嬉しそうに顔を上げる。 「じゃ、じゃあこちらへ!」  ジャンは小走りで庭にある園芸小屋に入って行く。レオネは小屋近くにあるポンプ式の井戸で手を洗い小屋に入った。  園芸用具が保管してある小屋はレオネも頻繁に出入りしており、作業が長時間に渡る時はニコラも含めて三人で休憩することもあった。  小屋は種を保管することも想定された造りで、光を遮るために窓は設置されておらず出入り戸を閉めると真っ暗になってしまう。今日は天気が良いので出入り戸を開けておくだけで陽が入りわりと明るい。  レオネはいつものように小屋の端にある低い丸椅子に腰を下ろした。 「ど、どうぞ」  ジャンが赤茶の液体が入った分厚いガラスのカップを渡してきた。レオネは「ありがと」と言って受け取った。ジャンは自分の分も金属製のポットから注ぎ口をつける。  レオネも一口飲んでみる。すぐに感じたのは酸味。 「イヌバラの実だな」 「いぬ……?」 「この酸っぱい味だよ。おばあさんはイヌバラ育ててるの?」  レオネの質問にジャンは「え……あ……」と曖昧だ。まあ、ジャンはおばあさんがどんな植物を育てているかなんて関心無いだろうなとレオネは思った。 「でもイヌバラはもっと暖かい地域だったと思うし、イヌバラの実は購入したものかな……?」  ジャンに聞いていも正解は得られないのでほとんど独り言のようなる。 「あとはカミツレと、生姜か?なんか苦みもあるな。なんだろう」  もう一口、二口と飲んで何が入っているのか探る。ジャンはそんなレオネを見つめながら黙ってお茶を啜っていた。 「ジャン、今度帰った時におばあさんにイヌバラ育ててるのか聞いてみてよ。もしこの国でも育てられるなら挑戦してみたい」  レオネのお願いにジャンは「は、はい……」と答えた。  イヌバラがどんな花を咲かせるのか知らないが、薔薇を育ててそれが食用になるのはなんだか面白い。 (ジェラルドは甘い物好きだから、酸っぱいお茶はあんまり好きじゃないかな)  残り少ないお茶を飲み干しながらジェラルドの顔を思い浮かべる。 (帰ってきたらジェラルドにもイヌバラのこと聞いてみよう。ハーブや香辛料はバラルディ商会の得意分野だし、何か情報を知っているかもしれない) 「ん。ごちそうさま。美味しかったよ。さあ、再開するか」  レオネはそう言って立ち上がり、作業台の上に置いてあったポットの横に空になったカップを置いた。 「えっ、もうですか⁉」  ジャンが慌てて立ち上がる。 「そんなに働いてないだろ。それに……」 『三時にはロランドが来るから』と言葉を続けようとしたが目が霞む様な違和感を感じた。 「ん……あれ……?」  瞬きを何度もして目を擦る。そのうち目の前がフワーッとぼやけ、レオネは作業台にもたれかかった。 「レオネ様っ」  ジャンがよろけるレオネの身体を支える。 「だ、大丈夫ですか? 危ないのでこっちで横になりましょう」  ジャンが何か言っているが、レオネは頭がぼんやりとしてきてよくわからずただただ指示に従った。ジャンに肩を抱かれて小屋の奥に置いてあった藁束に仰向けになる。  停止しつつある思考を何とか働かせてジャンに言った。 「ド……ナート、呼んで……きて……」  自身の身体が異常事態であることは理解できた。 「……大丈夫だよ、レオネ」  ジャンがそう言いつつレオネの肩を撫でる。その手つきに不快感を感じつつ、レオネの意識はそこで途切れた。

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