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第2話 父への想い
「タカト! ……っ、大丈夫か!?」
綾人は部屋の中に入ると、タカトの足を持って室内に引き摺り込んだ。多少手荒になりはするけれども、とにかくこれ以上怪我をさせないようにすることを優先しようと、急いで中に入れようとした。
タカトの体を床に寝かせると、すぐに立ち上がってドアを閉め、鍵をかけた。その瞬間、エレベーターの方から怒鳴り声と共に轟音のような足音を立ててあの男が戻ってきた。
そしてあっという間に部屋の前に辿り着くと、怒声を浴びせながら、ドアを殴りつけて来た。スチール製のドアが僅かながらも撓むほどの力がぶつけられている。
屈強な男でもないのに、これほどの力が出るものなのかと驚いたのと同時に、騒音で通報されるレベルの騒ぎ方に、綾人は背筋が冷えるのを感じた。
「タカト! お前、まだそんなことをしているのか! 開けろ! この恥晒しが!」
タカトの父は何か明確に気に入らないことがあるようで、それに対して怒り狂っているようだった。綾人は身の危険を感じたため、スマホを取り出して緊急電話をかけた。
震える手の中で、オペレーターの声の落ち着きぶりが異様に冷たく感じた。それを聞くことで、自分が恐怖に慄いていることを実感する。
『はい、一一〇番です。どうかされましたか?』
「あ、あの、友人が男に殴られていて……」
そう言ったところで、スマホを持つ手に軽い衝撃を感じた。手が震えていたからか、その衝撃だけで簡単に力が抜けてしまい、スマホがゴトンと音を立てて下に落ちた。
驚いて下を覗くと、タカトが綾人を見上げていた。必死に被りを振っている。通報してほしくないと全力で訴えていた。
「タカト? 何?」
『どうされました?』と言う声が、スピーカーから響き渡っている。通報してきたのに何も答えないこちらを案じてか、電話の向こうでオペレーターが焦って状況を確認しようとしていた。
綾人はタカトの行動に呆気に取られていて、その声を聞きながらもなかなか言葉を返すことができなかった。
「お前……そこまでされてるのに、通報しない方がいいのか?」
綾人が尋ねると、タカトはこくんと頷いた。その顔は、怯えているわけでもなく、動揺の色すら見えなかった。ただ、諦めに近いものが滲み出ているのだけは理解できた。
「どうして……通報しないと病院にも行けないぞ」
綾人はタカトの頬にそっと手を触れた。その顔は、打撲で熱を持ち始めていた。鼻血と口からの出血で顔に髪が張り付いていて、見るからに痛みが酷そうだった。
そう思った時にふと思い出した。タカトは殴られても痛みを感じないはずだった。それなのに、なぜ今こんなにもひどいケガをしているのだろう。
「あ、すみません、格闘技の練習をしていました。知らせていなかったので驚いたみたいで……はい、失礼します」
タカトは、綾人のスマホから響く声に代わりにそう答えると、すぐに通話を終了した。
「ごめんね。ゆっくり説明するから……とりあえず、今は休ませてくれない?」
そう言って、顔のあざに触れた。その触れ方がいつもと違って、顔の肉を爪で引きちぎりそうな勢いだった。グッと爪を立て、自分を傷つけようとしていた。
綾人は、慌ててその手を両手で握りしめた。そして、その手を引き寄せてタカトを抱きしめた。
「自分を傷つけちゃダメだよ」
胸の中に、痛みと同時に悲しさが込み上げて来た。何かが気に入らないのだろうけれど、自分の子供をここまで傷つけるのはどうしてなのだろうか。親から虐げられたことのない身としては、信じられない光景だった。
どれほど辛いのかも、どれほど痛いのかもわからない。理解してあげられない辛さもあったが、それよりも、ただ一刻も早くこんなことをする人から遠ざけたいという思いが強くあった。
綾人はタカトを抱きしめた手に力を込めると、その胸に顔を埋めた。
「あ……ごめん。もう大丈夫だから。ありがとう」
あざのある部分を傷つけようとしていた行動は、無意識でとったものだったようで、タカト自身も驚いていた。そのあざがあるせいで父から暴力を受けていると聞いていた綾人は、タカトが無意識で自傷行為に出るほど苦しんでいるのだと、この時初めて気がついた。
——そのあざがあるのは、俺のせいだ……。
再びその想いに苛まれた。
「綾人……? もうしないよ。ごめんね。……どうした?」
タカトは綾人が俯いてしまった理由に思い至らないようで、小さく首を傾げた。傷だらけのタカトが人を思い遣っていることに、綾人は呆れてしまった。
「お前……そんなになってまで人の心配するんじゃないの!」
気がつくと、騒音は止んでいた。ドアの向こう側にあった人の気配は、いつの間にか消えていた。騒ぐ事に飽きたのか、他の方法に出ようとしているのかはわからない。とりあえず、二人は小休止を得たようだ。
「なあ、タカト。一人で抱えるなよ。苦しいことは全部話せ。とりあえず聞いて受け止めるから。そのアザのせいで殴られてるなら、俺にもお前のこと背負わせてくれよ。な?」
綾人はタカトの胸に顔を埋めたまま、ポツリと呟いた。タカトはその綾人の言葉にふわりと表情を緩め、そっと綾人の髪を撫でた。抵抗した形跡のある腕には、爪で引っ掻かれたような跡があった。そんな痛々しい様子でも、綾人に触れる手はいつも優しくて温かい。
「うん。ありがとう」
綾人は金色の髪を揺らして顔を上げると、タカトの目を見つめて、パッと花が咲いたように笑った。その鼻を少し赤く染めながら、ほんの少しだけ無理をするように笑っている。
タカトは、綾人にその辛そうな笑顔をさせているのは自分なのだと思うと、胸が詰まった。ただでさえ辛い運命を背負っている綾人に、自分がさらに負担をかけてしまうことは、どうしても避けたかった。
「ちゃんと話すよ」
ただ、この場合隠し事をするとかえって綾人の笑顔を曇らせる可能性の方が高い。だから、今の自分の状況を全て綾人に話してしまおうと思っている。そう考えて綾人の髪を笑顔で梳きながらも、どうしても痛みに呻いてしまっていた。
綾人に心配をかけまいとすればするほど逆効果だなと思い、自嘲気味に笑ってしまった。
「とりあえず、ベッドに横になろう。冷やさないと腫れて熱出るだろ」
「うん、わかった。ごめん、肩を貸してもらえる? さすがに歩けないみたい……」
綾人は頷きながら「ほら」とタカトへ手を差し伸べた。そして、タカトの手を引いて立たせると、自分より十センチほど背の高いタカトの肩を担いだ。
脱力している人を運ぶのは、数メートル歩くだけでも大変だった。力はある方だと思うけれども、タカトを引きずるわけにもいかず、肩を担いでゆっくり歩くしかなかった。
どうにかベッドに辿り着き、出来るだけそっと寝かせると、乱れた長い髪を片側にまとめて手で梳いた。
「タオル濡らしてくるから。洗面所使わせて貰うな」
小走りに洗面所へ向かうと、丁寧に畳んであるフェイスタオルをお湯で濡らして戻った。そして、べっとりと血で汚れたタカトの顔にそっと触れた。
出血量は多くないようで、ある程度固まっているらしく、それが取れやすくなるまで待って優しく拭きあげた。どれほど気をつけて軽く拭いても、タカトは痛みで顔を顰めた。
「痛い? もう少しで落ちるから、がんばれ」
だんだんタカトの息が上がってきた。少しずつ腫れが出て、熱を持ち始めている。綾人は、今度は洗面所でできる限りタオルを濡らすと、腫れた皮膚の上にそれを並べ、冷やしていった。
何往復した頃だろうか、洗面所へ行こうと立ち上がった綾人の手を、タカトがグッと引き寄せた。水の入った洗面器を持っていた綾人は、その水をこぼしそうになり、焦ってあたふたした。
「うおっとっと! やっべ!」
反射神経だけは自信がある綾人は、間一髪で水をこぼさずに済んだ。床に座り込んで「ふー」とため息をつくと、タカトがぼそっと何か言うのが聞こえた。
「痛むのか?」
そう問いかけながら耳をそばだてて見ると、思いもよらない言葉が聞こえた。
「父さん」
タカトは譫言のように父を呼んでいた。まるで小さな子供のように、何度もそれを繰り返した。
「父さん……絶対、助けてあげるからね」
それは、とても優しい声だった。もう何年もDVを受け続けているのに、父親をとても慕っているのがわかる声音だった。綾人は、少なからずショックを受けた。
たった今、体が自由に動かせずに立てなくなるほど殴られていたのに、その父親を助けようとしている。助けるとは一体何からだろう。タカトは何をしようとしているのだろうか。
「力になりたいよ、タカト」
綾人は、思わずそうポツリと呟いた。タカトを助けたい、してあげられることは少ない、でも無いわけじゃない。きっと出来ることはあるはずだ。
——俺が最後に助ける人は、タカトであって欲しい。
そう考えながらタカトの手を握った。すると、その手が綾人の手をぎゅっと握り返してきた。そして、パチリと目を開いた。あまりに突然目が開いたので、綾人は驚いて目を剥いた。
そして、タカトの顔を見るとすぐに「あっ!」と叫んだ。その顔からは、あざが消え、右目が真っ赤になっている。それは目の前の人物がタカトでは無く、貴人様であると物語っていた。
「た、貴人様!? どうして……」
貴人様は綾人の方を見つめると、ニヤリと笑いながら綾人に告げた。
「綾人。タカトのためにお前が出来ること、あるようだぞ」
真っ赤なルビーのような目の男はそう言って、これから先、おそらく一番大きな祓いになるであろう計画を話し始めた。
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