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第3話 絶対大丈夫
◇◆◇
目の前にキラキラと輝く金色の光が揺れていた。その中にうっすらと赤い星のようなものが見える。寝起きのためか、ぼんやりとしか形はわからない。
ゴシゴシと目を擦り、それがはっきり見えるようにしてみた。それなのに、いくら擦っても、どうしてもハッキリ見ることが出来ない。
——ちゃんと見たい……。
そう思っていると、ズキっと身体中に痛みが走った。それと同時に目の前がクリアになる。視界に飛び込んで来たのは、いつも自分のベッドから眺めている天井だった。
「うあ、いっふぇ」
右頬の内側が腫れていて、肉が邪魔になって噛み締める事が出来なくなっていた。独り言もハッキリ喋れない。唇を半開きにしたまま、タカトはゴソゴソと起き上がろうとした。
「うっ! ……ってぇ」
マットレスに着こうとした右手も、それを支えにして起こそうとした上体も、体のあちこちが痛んで、体勢を変えることすら難しい。
「ふー、あー今回はヤバいな……めちゃくちゃ痛え……」
時間をかけてようやく座ると、ヘッドボードに体を預けて一息ついた。そして、隣で寝ている綾人の髪を指で掬った。ぐっすり眠っている綾人は、タカトがいくら髪を触っても、全く起きる気配が無い。
「あいたたたた……最初の蹴りが酷かったな……めちゃくちゃ足やられてる」
タカトの体は、あざだらけになっていた。綾人が来るのが嬉しくて、玄関の前で待っていようとドアを開けた瞬間に、父の雅貴と対峙してしまった。一瞬怯んだ隙に、思い切り足を蹴られてしまった。
それが綺麗に決まってしまい、倒れ込んだところで鼻を蹴られた。痛みで立てなくなってしまい、そこからは殴る蹴るの嵐だった。
ただ、その時はっきり見えた父の顔は、明らかにいつもと違っていて、その時は痛みよりもショックの方が大きかった。
「……あんなの、父さんじゃない」
タカトは殴られている時、一瞬目に入った表情を見逃さなかった。雅貴は、不意に辛そうな表情を見せた。それも、何度も。そして、殴っている時はまるで別人のような顔をして、人を甚振ることを心底楽しんでいるような表情をしていた。
その目はまるで蛇のようで、ニタリと笑う口元はタカトが知っている父とは全くの別人だった。その姿を見ていると、あの暴力は父の意思とは別のところから発生しているんじゃないだろうかという思いが湧いた。
タカトは痛む体を自分の腕でさすり、苦痛の声を漏らした。父が何かに操られているのではないかと思い始めたのは、この痛みのせいでもあった。
これまでは、暴力を振るった側の父が苦しんでいた。それは貴人様の守りがあったからだ。だから、いくら殴られても大して気にも止めていなかった。それがなぜか、今回は貴人様の守りが効かなかった。
——貴人様の力を超越するほどの何かが父さんを動かしている?
そう考えた方が自然だと考えている。
——明日、歩けるかな……。
今の時点では、足はほとんど動かせない。動かそうとすると、身がすくむほどの痛みが走ってしまい、体がそれを拒否してしまう。ただ、思ったほど腫れは出なかった。綾人が、タカトの体を夜通し冷やし続けてくれていたからだ。
浅く眠って痛みで目が覚めると、綾人が髪を撫でてくれていたり、服を着替えさせてくれていたりした。ありがとうとお礼を言おうにも、口が痛んで動かせず、じっと見つめることしか出来なかった。腕も足もじんじんと痛んでいた。
綾人が寝ついた頃には、熱はすっかり引いていた。それでも痛みは残っていて、すぐそばに綾人がいるのに、抱きしめることも、触れることさえも出来なかった。
長いまつ毛に覆われた瞳を、ただ隣で見つめていることしか出来なかった。その時の情けない気持ちを思い出して、「はあ」とため息をつく。それを聞いて、綾人がゴソゴソと動き始めた。
「ごめん、起こした?」
ヘッドボードに背中を預けたまま、タカトは綾人に声をかけた。綾人はほわりと緩んだ顔をこちらに向けて、じっと見つめていた。そうは言っても目はほとんど瞑っている状態で、普段のタカトなら間違いなくその顔にキスをして怒られるところだ。でも今は動けない。
ジレンマと戦うタカトの横で、綾人は「ううー」や「ぬうー」と唸り続け、錆びたバネのようなぎこちない動きでなんとか四つん這いになると、猫のように伸びをした。
「ぐーあー! ねむてー!」
伸びをした姿のまま起き上がろうとはするものの、どうしても立ち上がることができず、ついにはそのままべしゃりと潰れた。うつ伏せで伸びてしまい、また眠りに落ちそうになっている。タカトはそれを見て嬉しくなり、ふっと笑みを漏らした。
「綾人、昨日遅くまで俺の面倒見てくれてありがとね。今日は寝てて」
そういうと、手を伸ばして綾人の頭にポンと手を乗せた。
「んんー? んー……」
綾人は返事をしたつもりなのか、口の中で何か言葉を弄んではみたものの、タカトに届く言葉は言えないまま、すうっと眠りに落ちた。
「はは、本当に寝付くの早いな」
タカトは金糸の束を指に通し、愛おしそうにそれを弄んだ。身長が高い分、腕も長い。隣で寝ているくらいの距離なら、体が痛くて動かせなくても、頭を撫でるくらいは簡単に出来る。
背が高くて良かったと思ったことはほとんど無かったけれど、今日だけは体の大きさに感謝したいと思っていた。
時間をかけて体を横にずらし、壁に手をついて立ち上がると、やっとの思いでベッドから降りた。カーテンの間から漏れている日差しの色で、今日も暑そうだなというのはわかった。
水族館でデートをするには絶好の日だっただろう。でも、残念ながらこの状態では外には出られない。
「ダメか……」
足は引き摺らないと歩けない状態だ。これではデートどころでは無い。それに、この状態で父と鉢合わせしようものなら、間違いなく病院送りにされてしまう。外でそうなると、もう隠しようがない。それだけはどうしても避けたかった。
——がっかりするだろうな……。
タカト自身もそうだが、綾人も今日をとても楽しみにしていた。行けなくなったことでどれほど残念がるのかを考えると、申し訳なさと悲しさで胸が潰れそうだった。
考え込んでも仕方がないので、とりあえず痛み止めを飲んでおこうとキッチンへ向かい、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。そのキャップを開けるのも一苦労した。
やっとのことで水を飲み、蓋を閉めようとしていると、ズキっと鋭い痛みが手首に走った。その拍子に思わず手を開いてしまい、ボトルが床に落ち、鈍い音を立てて転がった。
その音で綾人は異常を察したのか、パッと目を覚ました。隣を確認すると、タカトはいない。綾人は胸が大きく波打つのを宥めながら、ベッドから飛び起きた。
「タカト?」
綾人はタカトの名前を呼びながら、スライドドアの向こうのキッチンへと向かう。パタパタと足音を立てて急いだ。
綾人に呼ばれる声とその足音が聞こえたタカトは、返事をしようとした。しかし、口を開いた途端に切れていた箇所が痛み、思うように返事が出来なかった。
情けない思いに潰されそうになりながらも手でその場所を押さえていると、綾人がキッチンに飛び込んで来た。
「タカト、良かった、いた。……どうした? あ、ボトル落としたのか」
綾人は慌ててペットボトルを拾うと、置いてあったキャップを締めた。水の量は少なかったけれど、テーブルにも床にもこぼれてしまっていて、それを見ているとタカトは居た堪れない気持ちになっていた。
ゆっくり寝かせてあげようと思ったのに、自分のせいで起こしてしまった。綾人が眠れなかった原因も自分の都合で、そのせいでデートも中止になる。全てが自分のせいでうまくいっていないことに、不甲斐なさを感じていた。
「あ、俺が片付けるよ。しゃがむの辛いだろ? 椅子に座ってろよ」
綾人はダイニングの椅子を一脚タカトの近くに置いて座らせると、猛スピードでテーブルと床を拭き、その布巾と雑巾を洗って干すまでを完了させた。
そのスピードがあまりにも速く、タカトはバツの悪さを感じることも出来なかった。ポカンとしているタカトの顔を見て、綾人は「ん?」と目を瞬かせた。
「いや……トラブルの対応の仕方が素早いなと思って。もしかして、こういうのに慣れてる?」
「あー、うん。慣れてるな。うちの母親、落ち着きないだろ? しょっちゅう何かを溢したり壊したりするからさ。そのくせ忙しいから、俺が片付けることが多いんだよね」
そう言いながら、パッと花が咲いたように笑った。タカトは、「ああ」と同意しながら、綾人の母親の姿を思い浮かべた。個人事業主として毎日忙しそうに働いているが、どこか抜けたところがある愛らしいお母さんだ。
確かに何かを落としたり壊したりをよくしていた。そして確かに、綾人はそれをカバーしていることが多かった。そんな桂家のやり取りを思い出して、ふわりと心が温かくなった。
そんな光景は穂村の家にはなかなか無く、タカトにとっては憧れのものだった。ただ、穂村家も昔はそんな家だった。忘れてしまうほどに遠い記憶の中には、そんな温かい日々も確かにあった。
タカトは痛む唇を指で押さえながら、寂しそうに言葉を零した。
「綾人んちってあったかいよね。俺んちも昔はそうだった。でも、もうあんなふうに過ごせることは無いんだろうなぁ」
タカトは、ペットボトルに残った水に写る自分の顔を見た。長い髪に半分隠れて、光の見えない瞳が映っていた。綾人と今のように過ごし始めるまで、いつも自分はこういう目をしていた。
青白い顔、死んだような目、そして、毎日殴ってくる人にそっくりな顔。穂村家の父と子は、とてもよく似ていた。
「俺、本当に父さんに似てるんだよ。俺もそのうちあんなふうになるのかなと思うと、どうしても未来に希望が持てなかったんだよね」
確かに、綾人が昨日殴りかかられた時に見た顔は、タカト本人と見間違えそうなほどにそっくりだった。あれほど似ていると、ただ暴力を振るわれて辛いところに、さらに辛さが上乗せされるだろう。
同じ顔をしている人が最低な行いをしている。それが自分の未来を象徴しているようで、希望が持てないという。その気持ちは、想像には難くないが、本当の意味での理解は、綾人には出来ない。
でも、未来に希望が持てないという記憶が綾人の中には存在する。それは、ヤトの記憶だ。だから、タカトの辛さは、ヤトの部分が理解してくれた。
「ならないよ」
「え?」
「心配するな。絶対、ならないから。お前は、人を殴ることでしか解決できないような人間には、ならないよ」
少し強めの口調で、綾人は言い切った。そして、タカトを正面から抱きしめると、ぎゅうっと強く力を込めた。「いてっ」とタカトが顔を顰めたにも関わらず、綾人は力を緩めなかった。
「タカトの父さんさ、何かに憑かれてるらしいよ。昨日、貴人様から聞いた。タカトが寝てた時に。それ、俺が祓うことにしたんだ。でも、結構強いらしくて、もっと霊力高めろって言われたんだ。だからさ」
綾人は少し体を離し、タカトの肩をギュッと握った。そして、まっすぐにタカトの目を覗き込んだ。真昼の陽の光が差し込むキッチンで、ペットボトルの水が反射する光が、金色の髪と獅子の目を輝かせている。
強く見つめられることで、龍の黝の目の中に、それが写って灯る。それが分かると、心の奥底から希望が吹き出すような感覚があった。
「俺がタカトと親父さんを助けるよ。タカトは俺を手伝って。いい?」
グッと掴まれた肩は、痛みよりも温もりを感じていた。その熱は、タカトの体を巡る。気がつくと涙が溢れていた。目の前の世界が、昨日よりもクリアに見えるような気がした。長い夢から覚めたような、不思議な感覚を味わっていた。
——暴力の問題について、誰かに頼れる日が来るなんて……。
どうして自分は殴られるようになったのか、どうして父は修羅に落ちたのか、いくら考えても、全く何もわからなかった。
その原因が、父ではなく他にあるとわかり、解決の兆しが見えてきた。もしかしたら、望んでいる未来が手に入るかもしれない。もしかしたら、今の苦悩は終わるのかも知れない。そう思うと、涙が止まらなかった。
綾人はタカトの目を再び覗き込んだ。そして、そのまま軽く口付け、軽く喰んだ。タカトは、涙を流したまま、やや驚いて綾人の顔を見つめた。
「解決しような、二人で。絶対、大丈夫だから」
「綾人……」
タカトは、金色の中にさらに輝く強い光を見た。その目が未来に希望を映す限り、大丈夫なのだと思えるような気がしていた。
「うん。二人で」
そう言いながら、指で涙を拭った。そして二人は顔を見合わせ微笑み合うと、お互いを包み込むように抱きしめあった。
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