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第6話 井上家の使命
「あの、どうかされましたか? 先ほど大きな音がして……」
戻ってきた井上氏が、外れた畳とその下に開いた床下の大穴を見て絶句していた。その穴以外の畳も土埃に塗れていて、少し席を外しただけで起きた惨状に目を丸くしている。
綾人は、霊感の無い井上氏には状況が全く理解出来ないのだということを思い出し、今起きたことを口頭で説明することにした。
「あの、この部屋のここの部分に、かなりたくさんの浮遊霊がいました。どうやらその霊たちは、この下にあるものに気がついてほしかったみたいで……。あの、その、この床下に一つ大きな棺があったんですけれど、その中にですね、えっと……」
そこまで話してふと疑問に思い、口を噤んだ。
——床下に人骨がありましたなんて言われて、平気な人っている……?
なんと伝えたらいいものかを考えあぐねていると、井上氏が何か思い当たることがあったようで、「ああ」と声を上げた。そして、優しく目を細めて楽しそうに笑った。
「桂さま……桂くんとお呼びしましょうか。桂くん、そもそも私はあなた方にお祓いをお願いしております。つまり、霊や怖い話がたくさん出て来ることは、そもそも前提としてあるものです。ですから、そういったことでしたら、そのままお話しください」
「あっ……、そ、そうですね。そう言われればそうでした」
綾人は、自分がなんのためにこの場にいるのかということを、うっかり忘れてしまっていた。自分たちはお祓いをする便利屋としてここにいるということが頭から抜け落ちていた。
しかし、それでも躊躇いはあった。確かに、霊についてはそのまま説明してもいいだろう。それでも、棺と人骨についてはどうなのだろうかと悩んでしまった。
「綾人、おそらくその心配も杞憂だ。そのまま話せ。俺が保障する」
貴人様は、そう言って綾人の背中をポンと叩いた。何かを知っているのだろうか、その顔は自信に満ちていた。神はなんでも知っているのだろうけれど、それにしても楽しそうな顔をしていて、綾人にはそれが理解出来なかった。
「そう……ですか? では……。あの、この穴の下に棺がありました。そこに人骨があったんです。それは二百年くらい前の人で、名前はヤンと言うのですが……」
綾人がそこまで説明すると、井上氏の顔がパッと明るくなった。自宅に人骨が埋まっていたと言われてする反応では無いような、明るく楽しそうな表情に、綾人はまたしても面食らってしまった。
「ここにヤンさんの骨が!? そうですか、そうですか、それは……良かったです」
「よ、良かった? 人の骨が床下にあって良かったんですか?」
混乱する綾人に、井上氏はまた楽しそうに「ふふふ」と声を漏らした。そして、井上家の事情を話し始めた。
「私どもは、ヤンさんの子孫にあたる方から、彼の墓を探して欲しいと言われておりまして。この屋敷の敷地内にあることはわかっていたのですけれど、まさか客間の下にあったとは……」
井上氏が言うには、ウルとヤンが引き取って育てていた里子たちは、全員が正式に養子となっており、彼らはヤンを探してウルの家の墓に入れたがっていたのだそうだ。
男娼に落とされ、世間からはあまりいいイメージを持たれていなかったヤンを、子供達は慕い続けていた。なぜなら、ウルもヤンもいなくなってしまったのに、子供達は食うにも困らず生きていけたからだ。
生きる術を授け、財産を残してくれていた二人のことを、恩人だと思い慕い続けていた。
「井上家代々、家を継ぐものがそれを伝えられまして、ヤンさんの骨を探していたんです。子孫の皆様に、きちんとお返しいたします」
床下の穴から覗く棺と骨を見ながら、井上氏はそう呟いた。
しかし、貴人様はそれに「すまないが、この骨は渡せなくなった」と返した。思いもよらない言葉をかけた貴人様に、井上氏は「なぜですか?」と問い返した。
「ヤンの骨から、良くない呪いの匂いがする。それに関して、これから先起こりうる事態がお前たちにどんな影響を与えるかがわからない。すぐに燃やして浄化する。その灰を子孫に渡してくれ。説明は俺がしておく」
「骨を燃やすのですか? 貴方様には、それが可能なのでしょうか」
「ああ。出来る」
素っ気なくそう言い切った貴人様に、井上氏はふっと息を吐いて「左様でございますか」と呟いた。その目が、どこかしらに尊敬の念を痛いているように見え、綾人にはそれが僅かに気になった。
「仰せのままに」
そう言って慇懃に礼をした井上さんに、貴人様は得意げに「悪いな」と返した。
——井上さん……もしかして、貴人様を知ってる? タカトだと思ってるはずなのに、『貴方様』とか『従う』とか『仰せのままに』って……。
綾人は、この二人の関係性がわからずに混乱した。タカトとは初対面のようだった井上氏が、貴人様とは明らかに顔見知りの様相をしている。
「あの、とりあえず屋敷内にいた浮遊霊たちは消えていきました。それ以外はこの家に霊の気配はありません。少なくとも、今はありません。ものが落ちたりなどについては、今後問題ないと思います。ただ、義理の息子さん……正人さん不眠の件については、ご本人にお会いしてお話を詳しく聞きたいのですが、可能ですか?」
正人氏の睡眠を邪魔している現象については、ヤンはおそらく無関係だろう。浮遊霊も何か強いメッセージを持っていそうなものはいなかった。そうなると、本人に話を聞いてその女の霊の正体をはっきりさせない限り、退治のしようも無い。
「正人君でしたら、この時間は会社の方におります。最近は、眠るときは実家に帰っておりますが、それ以外は家族仲も良好でして、それまでは一緒に過ごしております。彼の実家はすぐ近くですので、それが可能なんです」
井上氏はそう説明した後に、はーっと長く息を吐き、そして、眉根を寄せて言葉を続けた。
「ですから、孫が不憫でして。とても正人君と仲が良いのです。それなのに、一緒に寝ることが出来ないのが、寂しくて辛いようでしてね」
孫娘の菜摘ちゃんは、今五歳だという。ただでさえ、正人さんは井上家の後継として忙しく働いている身だ。菜摘ちゃんが正人さんとゆっくり会うことが出来るのは、週末くらいだという。
その週末に会うことが出来たとしても、月曜日の朝に目が覚めると、もうそこにお父さんはいない。幼い胸に寂しさが募っていくのは、想像に難く無かった。
「俺も小さい頃父が忙しくて、なかなか会うことが出来ませんでした。小さい頃って、会えないのが結構辛いんですよね。それを理解して慰めてくれるお爺さんがいるのは、とても羨ましいですよ」
「えっ!? あ、タカト……だな」
隣に立つ人物が、突然優しい声で話し始め、綾人は驚いて顔をのぞいた。いつの間にかタカトが戻ってきていた。
綾人は、タカトに浮遊霊とヤンの骨の話を伝えて、認識の擦り合わせを行う。貴人様が表に出ている間はタカトの意識は無く、そのあたりのすり合わせをする必要があって、それを綾人が担っている。
「娘も孫を大切にしていますので、傍目にはそう辛そうにはしていないのです。それでも、時折ふと悲しそうな顔を見せるので、やはり早めに解決してあげたいと思っております」
「それでしたら、今日の夜にこちらで状況を確認させていただけませんか?」
タカトがそう訊ねると、井上氏は「わかりました。都合を聞いて参りましょう」と言って正人さんに連絡を入れ始めた。それを待つ間、綾人はタカトと一緒に「せっかくですから」と中庭に通され、そこでお茶をいただくことになった。
中庭には、夏の濃い緑色の木々が重なり合い、アーチを作っている。その下には小さな池があり、その湖面には青い空と緑色の木々がうつり、風に揺らめいて美しくキラキラと輝いていた。
「キレイだなあ。色がパキッとはっきりしてて、それなのに瑞々しい」
「そうだな」
ざあっと風が吹き、隣で長い髪が猫のしっぽのように揺れているのが見えた。いつの間にかお団子が解け、三つ編みの長い列がゆらゆらと揺れている。
右目を隠す前髪が顔に張り付いているため、目でどちらかを確認するのが難しくなっていた。それでも、綾人にはわかった。微かに香る、雅な香。また貴人様が戻ってきていた。
よくよく考えたら、人格が入れ替わると香りも変わると言うのはすごいことだ。よくそれに気がつけたなと思うと、自然に笑みが溢れた。
「綾人は夏が好きか?」
貴人様は中庭にあるテーブルセットへと近づくと椅子に座り、ゆったりと美しい所作でコーヒーを飲み始めた。綾人をじっと見つめるその瞳の中に、夏の日差しが反射してキラキラと輝いている。
その輝きは、目の前にある湖面のように美しく、綾人はしばし見惚れてしまった。
綾人があまりに返事をしないため、貴人様は首を傾げながら「綾人?」と声をかけた。呼ばれた綾人はハッと我に返ると「あ、は、はい。好きですね、夏」と答えた。
貴人様は眩しそうに目を細めると「そうか」と呟き、カップをソーサーに戻して、寂しそうに笑った。
「ヤトは夏が嫌いだった。理由は生きていくのが大変だからだ。同じ理由で冬も嫌いだった。そして、春に死んでばかりの運命だからか、春も嫌いだ。秋だけが心安らぐと言っていたな。……やっぱりお前たちは違う人間のようだな。魂は同じなのに」
貴人様は、毎回この話題になると、少し辛そうになる。綾人は、ヤトと魂は同じ。でも記憶がなかった期間が長すぎて、桂綾人は別人格のようになってしまった。
桂綾人としての人生を終えてヤトとして天界に行く時、桂綾人の記憶がどうなるのかは、まだはっきりわかっていない。もし綾人の記憶が全て消えてしまうとするのなら、今の綾人との思い出は全て無くなる。
それは後々、貴人様にも辛い記憶となる可能性がある。
「貴人様」
綾人は、真っ赤な右目から一筋の涙を流していた貴人様の手を取った。罪を焼き切る炎を宿した目に、かつて愛した人間を失ってしまった悲しみが広がっていた。
時折、その思いに潰されそうになっている姿を見かけた。貴人様がどれほど綾人に愛を囁いても、同じ熱量で返すことが出来ないからだ。その度に小さく諦め、気を取り直そうとしている姿を見て、綾人の胸にもちくりと棘が刺さる。
ただ、どんなに状況が複雑でも、貴人様が抱えている願いは、ずっとキッパリとシンプルだった。「ヤトと共に天界で暮らしたい」ただその願いを叶えるためだけに、ここにいる。
それでも、それを叶えるまでの間に予想以上に他者を傷つけているという事実が、貴人様の胸を苦しめていた。
「貴人様、もしかしてヤトをもう一度転生させたことを、後悔していますか? そんなことをさせなければ、俺もタカトも陽太たちも巻き込まずに済んだんじゃ無いかって、思っていますよね。でも、桂綾人としての人生が無いと、ヤトは一人で地獄に行くしか無かったんでしょう? だったら、何も悩むことはありませんよ。この選択がベストだったってことだと思います」
貴人様は、まだ涙を流していた。嗚咽はなく、ひたすらに涙を流している。ただ、さっきよりも少しだけ表情が和らいでいたことには気がついた。
「今の俺には、貴人様がいて、タカトがいて、五人の仲間がいます。最初の人生を共にしたイトには、きっとまたいつか会えます。二度目の人生を共にした仲間は、今一緒にいます。そして、俺の今の人生は、これまでに比べてとても楽しいです」
綾人は貴人様を抱きしめた。力を込めてしがみつき、ギュッと目を瞑った。
「だから、後悔しないで下さい。神様の常識では違うのかもしれませんけれど、俺は世の中の全ての人が同時に幸せになることなんて出来ないと思ってます。今は俺が幸せだけれど、そのうち俺が幸せになれないタイミングが来たとしたら、それはヤトさんと交代する時でしょう。俺とヤトさんは同時に幸せになれない。ただそれだけです。そう納得するように頑張りますから」
そう言って両腕の力をさらに強くした。
「綾人……せめてあと何年かでも時間を与えてやりたかった。それが出来なくてすまない」
貴人様はそう言って反対の目からも涙を流し始めた。綾人はその涙を指で掬うと、震えながらも笑顔を作った。
「そんなの、一度願えば何度も願い続けて地獄ですよ。それなら、もうキッパリ19歳で終了! で構いません」
綾人の言葉が強がりなのは、貴人様にはわかっていた。それでも、そう言わせている自分にはそれ以上何も言う資格が無いとわかっていた。その健気な姿を見ていると、胸の奥が鋭く痛んだ。
「お前の人格が守れる道はずっと探している。だから、最後まで諦めないでくれ」
綾人はそれを聞くと、僅かに体をこわばらせた。しかし、またゆっくりと笑顔を作ると、「はい。覚悟するけど、希望は捨てません」とキッパリと言い切った。
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