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第7話 愛は呪いを超えて

◇◆◇ 「おはよう、修司。今日も暑いわよー。日差しも強くて、車から病院内に入るだけで大変だったのよ。いいわね、ここはずっと涼しいから」  綾人とタカトが井上邸に到着した同時刻、井上鈴香は見晴らしの良い高台にある病院にお見舞いに来ていた。ここ数日、毎朝ここに通っているため、鈴香は井上氏からの「お客さまのおもてなしを頼む」という話を断っていた。  鈴香と井上氏は、血が繋がっていない。でも、修司は鈴香の実の弟だ。普段ならそのことは全く考えないのだけれども、今のこの状況では、やはり修司の身の回りの世話をしてあげたいという思いを優先させてもらった。  井上氏も鈴香のその気持ちを汲んで、修司を優先することを受け入れてくれた。そのため、今回のお祓いの立ち会いには、井上氏自身が対応したのだった。  修司が入院してから、そろそろ二ヶ月ほどが経つ。首に噛みつかれたような痕があり、泊まっていたホテルのメインベッドルームに一人で倒れているところを発見され、救急搬送された。  オーバードーズではあったが、原因となる薬物は特定されていない。本人は、容体が安定してからも一切口を利かず、起きているのか寝ているのかわからないような、ぼんやりした状態で日々を過ごしていた。  そして、井上氏が揉み消したのか、人気バンドのメンバーがクスリで入院しているにも関わらず、あまり騒ぎにもなっていなかった。   「今日ね、うちの霊障問題を解決するために、便利屋さんを呼んだみたいなのよ。そういう人たちって、本当に役に立つのかしらねえ。すごく若かったわよ。修司と同じくらいか、それより下じゃないかしら」  水換えを終えた花瓶を窓際に置きながら、鈴香は修司に声をかけた。チラリと横目で修司を見ると、大きなガラス窓から外をじっと眺めていた。  外を見てはいるが、おそらく何かを見ているわけではないのだろう。目が覚めてから、ずっとあんな風にぼんやりしている。それでも、鈴香の目には、修司は何も考えていないのではなく、何かをずっと考えているからこそあんな風になっているように見えていた。  病院に運び込まれる前、修司は誰かと会っていた。その人のことを、修司は恋人だと思っていたようだ。ただし、修司自身にも、それが誰なのかはわからないいのだという。 ——好きだったという気持ちだけは覚えている。  その人のために、いつでも、なんでも、言われるがままに尽くしていた。誰よりも近い存在で、誰よりも長く一緒にいた。それなのに、今はもうその人はいない。  修司の記憶の中に、その人のことはほとんど何も残っていない。それなのに、「さようなら」と言われた記憶だけが残っている。それは振られたというものでは無く、もっと深刻な、永遠の別れの言葉のようだった。 「どうせなら、綺麗に全部忘れられたら良かったのに」  修司はポツリとそう呟いた。  鈴香は、これまで全く話そうとしなかった修司が、独言ているのを聞き逃さなかった。それでも、ここでそれを問い詰めるとまた黙ってしまう可能性がある。そのため、それを聞き流したふりをした。  ただ側に行き、ベッドの脇に置いてあるパイプ椅子に腰掛けると、修司の手を両手で包み込んだ。手に触れた体温が修司に伝わり、その意識が鈴香に向かう。  修司は、重なった二人の手をじっと見ている。微動だにせず、じっと見ていた。 「修司、バンドの方々が面会に来たいそうなのよ。来ていただいてかまわない? それともまだ誰にも会いたくないかしら?」  スリーエスの面々は、修司が入院してから毎日のように面会に来ていた。ただし、クスリの出所がわかっていない上に修司の体調が安定していなかったため、面会は本人の希望を聞いてからということになっていた。 ——独り言でも、喋るには喋っていた。それなら……。  バンド仲間に会えば、少しは話し始めるんじゃないかと鈴香は考えている。 「あの人、いる?」  何も写していなかった虚な目に、ほんの僅かに意思が灯った。その目が、じっと鈴香の方を見ている。 「あの人? 誰か会いたい人がいるの?」  修司はその問いかけには応じないままに、再び窓の外をぼんやりと眺め始めた。俯いてぽそっと言葉を漏らす。その姿が、小さな頃に母を恋しがって泣いていた姿に重なった。  鈴香は、小さい頃から修司のその姿を見るのが辛かった。  修司は、母に愛されずにいた子だったらしいのだ。らしい、というのは、自分も小さかったため、あまり記憶が残っていないからだ。ただ覚えているのは、自分たちは捨てられたということだけだった。  母を捨てていった父に、修司があまりにも似ていたため、育児放棄された。しばらくの間は、鈴香が一人で修司の面倒を見ていた。数年は頑張ったのだけれども、結局母は自分たちを施設の前に捨てて居なくなった。  それから、井上の父に養子縁組してもらうまでの期間、二人一緒にその施設で暮らしていた。そこではとても良くしてもらったので、そこにいた期間に寂しかったことはおそらくなかった。  ただ、時折修司が先生に抱っこされた状態で、静かに泣いているのを見かけることはあった。その時、よく言っていたのだ。 「俺は絶対に、誰の一番にもなれないんだ」  そう言ってさめざめ泣く姿を見ると、鈴香自身も強い絶望を感じた。その頃の影響が大きいのだろうか、修司は誰かの一番になることを、強く求めるようになっていった。  おそらく恋人がいた。その人と別れて、その辛さに耐えかねて、クスリに手を出したんだろう。鈴香はそう思っている。 「修司、修司は私の一番よ」  修司の手を包み込んだまま、その目を見つめてそう言った。鈴香のその気持ちに嘘はない。この世にたった二人だけの、血を分けた姉弟なのだからと、ずっと鈴香は強く思っている。  でも、それは修司には到底許せる発言ではなかった。その肩がピクリと動いた。それまでほぼ抜け殻のように横たわっていただけだった修司が、目をギラつかせて鈴香を強く睨みつけた。  鈴香はその目を見て、肝を冷やした。年齢よりも幼く見え、ともすれば女性と間違えられやすいその可愛らしい顔が、暗く醜く歪んでいた。 「俺より大切なものができたクセに。俺だけじゃ足りなかったから作ったんでしょ!」  そう言って側にあった花瓶を掴むと、そのまま鈴香に殴りかかった。花瓶は鈴香の腕を直撃した。硬質のものが肉を打つ、嫌な音がする。そして、そのまま水と花を撒き散らしながら、床に落ちていった。  タイミングがいいのか悪いのか、花瓶が落ちる頃に正人が鈴香を迎えに来た。エレベーターを降りて特別室へと向かう廊下に、鈴香の悲鳴が響聞こえた。 「鈴香っ!」  正人は、病院であるにも関わらず、思わず走り出していた。  毛足のながい絨毯の床を、革靴で走ろうとすると、やや足を取られた。それでも、急いで病室に入らなければならない。普段はおとなしい義弟も、薬物を抜くために治療中なのだ。何をするかわからない。姉の鈴香をわかっているのかどうかも危ういのだ。 「鈴香! 大丈夫か!?」  病室のドアを開けて中に入ると、左手を抱き抱えるようにして蹲っている鈴香の姿が目に入った。床に転がった花瓶からは水が流れ出してしまっていて、花も方々に散っていた。 「修司くん。それで鈴香を殴ったのか? どうしてそんな……」  修司にくってかかろうとする正人を、鈴香はすぐに諌めた。これ以上修司を興奮させては、正人も危険だと感じたからだった。 「ああ、あなた。だ、大丈夫よ。私は大丈夫だから、今すぐにここから離れてください」  修司はそれを聞いて、ギロっと正人を睨んだ。目の前には、姉と、姉の大切な人がいる。二人は一番大切なもの同士。 ——でも、自分にはそういう人がいない。  修司は、二人が揃った姿を見るとそれを痛感する。だから、二人が一緒にいる時には近づかないようにしていた。どんなに望んでも、自分が欲しがっていた人は手に入らなかった。その事実が辛かった。 「わああああ!」  それを振り払うかのように、大きな声をあげて腕を振り回す。自分の周りに付き纏う憎悪や孤独を、少しでも遠ざけようとして、周囲のものを薙ぎ倒していった。 「消えろ! 二人ともここから消えろ! 二度と来んな!」  そう叫びながら、修司はベッドの近くにあるものを、鈴香と正人に向かって手当たり次第に投げつけた。枕、スマホ、飲み掛けのペットボトル、コップ、ドラムスティック、そして、使い古されたマイク……。 「あ……」  そのマイクを握りしめた時、ジジっと音を立てて、何かの映像が修司の頭の中に見えた。その映像が、修司の記憶を刺激した。  映像を呼び起こしたのは、香りだった。マイクから、微かに青臭くて甘い匂いがした。その香りが、押し込められていた記憶を、頭と心の奥底の方から、ずるずると引き摺り出してきた。  噛みつき合うようなキスをした相手、抱き合う時だけしか人に甘えられない美青年。寂しそうに笑って、楽しそうに傷ついていた。 「誰……」  心に大きな傷が有って、それを誤魔化すために、いつも巻きタバコにこの香りのするものを混ぜていた。それがなんなのかは、結局最後まで、修司にはわからなかった。  最後の日、修司はこのタバコを吸わされて、彼を抱き潰したい願望が膨らみすぎて、倒れた。この薬は願望が強すぎるとのまれちゃうから気をつけてね、と言われていた。倒れた修司に「さようなら」と言っていた。その時、首に噛みつかれた……。 ——あの、綺麗な顔が……泣いてた。 「ケイト……」  パアンと音を立てるように、記憶が次々と蘇っていった。粉々になったカケラが、まるで逆再生のように集まっていく。 「愛してるよって言われたのに」  修司は、ケイト思い出した喜びよりも、忘れていたことに驚いていた。ケイトにとっての自分は一番じゃなかったのかも知れないが、自分にとってはこの世で一番大切な人だったからだ。忘れるなんてありえないと思っていた。 ——でも、もう会えない。  色々なことが不可解な中で、どうしてなのかはわからないけれど、それだけははっきり理解できていた。 「会いたい、ケイト」  修司はマイクを抱きしめると、わあわあと声をあげて、子供のように泣き始めた。

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