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第10話 事実

 ちょうどその時、コンコンと控えめにドアがノックされた。綾人は急いでドアへと向いながら、小声で「はいはい」と返答をした。すると、ドアの向こう側から「朝早くにすみません。今よろしいですか?」と鈴香の声がした。 「鈴香さん? はい、今開けます」と声をかけながら、ドアを開けて鈴香たちを迎え入れた。そこには鈴香、正人、井上氏の三人が揃っていた。三人とも一様に青ざめた顔をしている。 「早い時間にお邪魔して申し訳ありません。実は、菜摘が寝室からいなくなっていて……。他は探したのですが、どこにも見当たらなかったもので、もしかしてこのお部屋にいるのでは無いかと思いまして」  客間のドア付近は、中庭方面からの陽の光が差し込んでいて明るくなっている。ただ、ここから中庭へのガラス戸の方を見ると逆光になるため、鈴香にはそこにいる人物を見ることが出来ないようだった。 「あ、あの、菜摘ちゃんならそこに……」  綾人がそう言ってガラス戸の方を指さすと、三人は眩しそうに目を細め、手を翳しては菜摘の姿を確認しようとした。 「菜摘っ!? そんなところで何をしているの」  鈴香の目が慣れて、ようやくガラス戸の付近にいる菜摘の姿が目に入った。そこには、貴人様と睨み合う菜摘がいた。鈴香はそれを見て驚き、すぐに辞めさせようと菜摘に近づこうとした。  すると、貴人様がそれを「来るな」と言って制した。「そのまま少し離れているんだ」そう言って、左手を菜摘の頭にポンと軽く乗せた。 「鈴香さん、俺が今から見せる方が誰だか判るなら教えてくれないか」 「え? 見せる?」  鈴香は貴人様の言っている意味が理解できず、首を傾げていた。他の二人も、何を言われているのか全くわからない様子で、呆気に取られている。綾人ですら、貴人様が何をしようとしているのかは分からなかった。  貴人様は、菜摘の頭上に置いた左手に、ふぅと軽く息を吹きかけた。そして、一言二言小さく何かを呟くと、手をスーッと上の方へ持ち上げていった。 「きゃあああああ!」 「うわー!」 「な、なんですかそれは!」  菜摘の頭のてっぺんから、半透明の人間がずるりと摘み出された。霊だなんだと見慣れてきた綾人ですら、その光景の気色悪さに背筋がゾワゾワと騒いだ。  なんの前情報もなくそんな奇妙な物体に出会してしまった他の三人は、驚きすぎてその場にへたり込んでしまった。  半透明のその人物は、貴人様の手を離れると、まるでシャボン玉のような軽さでふわふわと浮かんでいた。そして、修司を見つけると、脇目も振らずにすぐにその近くへと飛んでいった。 「修司! よかった生きているのね」  そういうと、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。その姿を見て、鈴香はその半透明の人物が誰なのかを理解した。 「あなた……もしかして、お母さん? その声……お母さんよね?」  半透明の人は、鈴香の声を聞いて、勢いよくそちらの方へと向き直った。そして、ふんっと鼻を鳴らすと、鈴香の鼻先を指で弾くようなフリをして叫んだ。 「そうよ! 修司が変な人に絡まれて危ないからって知らせようとしているのに、誰も気が付かないんだから! 鈴香は私の声も聞こえないみたいだし、聞こえる正人さんは私を悪霊扱い、井上さんは問題外。だから菜摘ちゃんに体を借りてみたのよ」  井上家の人間は、半透明の人物の話に誰もついていくことが出来ず、ポカンとしていた。 「え、じゃあこの家で起きていた問題って、お母さんが……?」  貴人様は、今井上家で起きている問題が深刻な話とは縁遠そうだということに気がついたようで、笑いを堪えようと必死になっていた。綾人も、なんとなくそれを察した。 「霊の力が中途半端で、受け取る方にはその力が全く無かった。だから、お母さんは悪霊扱いされてたんですね……可哀想に」  ただ、ケイトのことを抜きにして、どうやって全員に説明すべきか分からなかった。 「それはつまり……、お前は修司が変な男に言い寄られていて心配になったから、家族にそれを知らせようとしていた。それなのに、その母の愛情が誰にも伝わりきれず、あろうことか霊障扱いされていたってことだな……」  ここでの問題に、前世からの大きな恨みが関わっているのでは無いかと警戒していた貴人様は、それとは全く無縁であったことに安堵したようで、ずっと堪えきれていない笑い声を口の端から漏らしていた。  すると、半透明の人は、「そう、そうですよ、貴人様。あなたは修司を助けてくれるんだと思ったので。なのにあの子を燃やしたりするから……」 「燃やす? 何をですか?」  話が見えずに困り果てた井上氏が訊いてきた。 「綾人、人間は任せた。俺は霊に話をつけてくる」  ひとしきり笑いきってそれに満足したのか、貴人様は「はあ」と大きなため息を一つつくと、鈴香と修司の母だと名乗る霊を連れていなくなってしまった。 「えっ! ちょっと! ずるいですよ、そんなのー」  言い逃げされた綾人は、大きく長い息を吐き出すと、頭を抱えた。どう考えても、今はこの人たちに説明する方が多変だろう。ケイトの事を抜きにして、理解できそうな範囲で、ゆっくり説明することにした。 「皆さん、おかけになってください。ゆっくり話しましょう」  できればお茶をお願いします、と弱々しく付け加えて、綾人は崩れ落ちるように椅子に座った。 ◇◆◇ 「ええと……あの、なんと言いますか……」  何からどう説明すればいいのかわからず、綾人は途方に暮れていた。そもそもデリケートな問題が多すぎる。  修司が同性愛者だということを自分の口から話していいのか、しかもその男に唆されて薬をやっていたと言ってもいいのか、そして、その男は男で、前世の記憶に振り回されていた可哀想な人なんです、とでもいうのだろうか。 ——修司本人は思い出していても、この時代に佐々木恵斗は存在してなかったことになってるはずだし……。  説明するにしても問題が難しすぎて、綾人は頭を抱えてうんうん唸っていた。それを見ていた鈴香が、綾人を哀れに思ったのか、背中にそっと手を当てて、申し訳なさそうに口を挟んできた。 「あの、桂さん? 最初に霊障の解決をお願いしてるのですから、多少現実離れした説明になっても構いませんよ。さっきなんて、母の霊なんてものを見たわけですしね」  鈴香さんが、苦笑いをしながらそう言ってくれた。確かに、ついさっき半透明の人を見たのだから、幽霊と言われても信用出来るのかもしれない。 ——意外とみんなそういう話が出ても納得して貰えるのかな。  それなら、説明は格段にやりやすくなる。 「あの、では、端的に……」  そう言うわけで、最初に考えた通りに説明した。イトの名前や存在を詳細に知られるわけにはいかなかったので、「悪い霊」という扱いにして説明をすることにした。 「修司さんは悪霊に唆されて麻薬のようなものを使っていた時期がありました。その事を危惧した翔子さんが、あなた方にそれを知らせようとしていたんです。ただ、霊と人間が話をするには、かなり強い力がないと無理なんですよ。誰もその力を持っていなかったから、ものを落としたりして自分の存在を知らせていたみたいですね。それで俺たちみたいに霊と会話できる人が来たんだから、お母さんの作戦は一応成功したんだと思います。悪霊扱いされてちょっと可哀想ですけどね」  端的に「悪い霊」とまとめられてしまうようなものならば、どこにでもいるだろう。存在そのものを隠して説明するよりは、この方が理解しやすいはずだ。 ——ごめん、イト。苦情はそのうち、天界で聞きます。 「そして、その麻薬のようなものの影響は、貴人様が使う炎で燃やすことで消せたので、もう心配ありません。修司さんは目が覚めたら、元に戻ってると思います」 「なるほど、それで先ほど燃やされていたという話になっていたわけですか。それで、修司に関する問題は、目が覚めれば全て解決しているということでよろしいんですね?」 「今回の件に関してはそうですね。ただ、ちょっと気になることがあったんですが……。少し立ち入ったことを訊いてもいいですか?」  綾人は井上氏をちらっと見た。今から聞こうとすることは、おそらく鈴香や修司の出生に関わることだ。そこを確認して、本人たちに知られるとまずいことが暴かれてはならない。  ただ、さっきの「お母さんの霊」の反応を見るからに、鈴香が話していたこととどうやら矛盾していることがありそうだった。  綾人が気がかりなのは、あの「お母さんの霊」がこの世に留まっていること自体が、本来ならあってはならないことでは無いかということだった。  しかもその理由が、もしかしたらその「認識のズレ」にあるのでは無いかと綾人は考えていた。その認識のズレがなぜ起きていて、それが起きた原因はなんなのかということも知っておいた方がいいような気がしていた。 「そうですね……この機会に全て知ってもらう方がいいと思いますので、お話ししましょう。ただ、この話をするなら、翔子さんにもいてもらわないといけないですね」 「翔子さん? ……あっ、お母さんですか? さっきの」 「そうです。私も翔子さん本人とは直接お話しした事はなかったので、本人に聞いておきたいことがあります」  井上氏が綾人にそう言うと、「呼んできます」と正人が勢いよく立ち上がった。  貴人様が菜摘ちゃんを連れ出したのは、人間たちへの説明から逃げたからではなく、おそらく綾人と同じことに気がついたからだろう。詳しい話をさせるために連れ出したに違いない。  ただ、本当に予想通りなら、ここに来て話をする必要もある。本人たちが、特に鈴香がどう思うのかがとても気になっていた。   「お連れしました」  翔子と貴人様が戻ってきた。心なしか翔子はムッとしている。これから話すことは、思いがけない方向へ進むことが予想される。翔子の顔を見て、綾人はそう確信した。 「えー、修司くんの問題の件ですが、霊的な話でいうと、もう問題となることは残っていません。ただ、翔子さんが霊障を起こした原因を考えると、鈴香さんの話と整合性が取れないことがありました。それをはっきりさせておいた方がいいのかと思いました」 「はあ? それ、どういうことですか?」  むすっとした顔で五歳児が訊ねた。おそらく、この人は自分が子供たちに対してどういう対応をしていたと言われているのかを知らないのだろう。いかにも普通のお母さんという雰囲気を纏っている。 「修司くんには、自分は一番に愛されることは無いという思い込みがありました。そうですよね、鈴香さん」  綾人が鈴香から聞いた話を確認すると、鈴香はこくりと頷いた。それに対して、翔子が「それは……どういうこと?」と食い気味に問いただしてきた。 「私もはっきり覚えているわけでは無いんだけど、お母さんが私たちを捨てたのは……」 「は!?」  突然、翔子が立ち上がった。強烈なショックを受けたようで、顔が真っ青になっている。 「私があなたたちを捨てた!? なんの話なの!?」  まだ話を始めたばかりにも関わらず、ものすごい剣幕で捲し立てている翔子に、その場の他の者たちは呆気に取られてしまった。  翔子以外の全員が、二人は施設の前に捨てられていたと信じて疑っていない。それなのに、本人が青ざめるほど驚いている。 ——やっぱり。この人、そんな事をするような感じの人じゃないと思ったんだ。  綾人は、翔子の話から漏れ出ている愛情深さに、「嫌いな旦那に顔が似ているから」というような理由で子供を捨てるような身勝手さを、感じ取ることが出来なかった。  そのため、鈴香から聞いていた話とあまりに違っていると思い、そのことに納得できずにいた。 「翔子さん、あなたは二人を捨てた覚えはないんですか?」  綾人は手で座るように促しながら、翔子へ訊いた。翔子はその言葉が耳に届かないようで、ぶるぶると震えながらどこが遠くを見ている。 「わ、私は、病気をして……がんになって余命宣告をされたから、施設にあなたたちを預けたのよ。動けなくなるのがわかっているのに、あなたたちの父親たちは引き取ろうとしなかったから。だから仕方なく……」 「父親たち?」  鈴香が聞き咎めた。「父親」ではなく「父親たち」複数いるということだろうか。 「井上のお父さん以外にも、父親が複数いるということ?」  鈴香の問いかけに、翔子は黙ってしまった。鈴香が最も大切にしているものを、否定しなくてはいけなくなったからだ。俯いて、スカートの裾をギュッと握り締めた。 「翔子さん、ご自分で話されますか? 俺が言いましょうか?」  綾人が他人として話した方が気が楽なら……と申し出ると、「いえ、お気持ちだけで」と翔子はやんわりと断った。二人が捨てられていたと思っているなら、なおこの事実は辛いものとなる。 「じゃあ、お願いします。その話の先に、この家に関して僕と関わりが出てくることがあると思うんです。何も解決するべきことがないのに、わざわざ僕らはここへ導かれました。その答えを、知らないといけません」  翔子は、ぎゅっと唇を噛んでから鈴香を見つめた。そして、綾人に向かって一つ疑問をぶつけてきた。 「あなたは、なぜわかったの?」  綾人は、ふっと短く息を吐くと、隣の部屋を指さした。そして、小さく答えた。 「彼の目の色が、僕の大好きな人と同じなんです」  そして、ちらりと視線を送る。そこには、厳しい表情で腕を組んでいる貴人様が立っている。貴人様は、翔子の目を見ていた。怯えた翔子が目を逸らすと、綾人が「繋がりがあるんですよね?」と問いかけてきた。  もう隠せないのだろうと観念した翔子は、大きなため息をつくと「話します」と答えた。 「鈴香……」 「はい」  翔子は菜摘のスカートを握りしめたまま、唇を噛んでいた。何も気がついていない鈴香に、わざわざ言う必要があるのだろうかと、どうしても言わなくていい理由を探してしまう。 「大丈夫ですよ」  翔子の手を取りながら、綾人が言った。握りしめて爪が食い込み、血が滲んでしまった菜摘の指を優しく解いていく。そして、その小さな手を大きく開くと、自分の両手で挟んだ。 「鈴香さんには、もう家族がいます。傷つくとは思いますけれど、一人じゃありませんから。大丈夫です」  翔子は綾人の目を見つめた。鳶色の瞳の中に、丸く歪んだ自分の姿が映っている。それを見ていたら、不思議と言うべき言葉がするすると口をついて零れ落ちてしまった。 「す、鈴香と修司はお父さんが違うのよ。いわゆる異父姉弟ってやつなの」 「え……?」  鈴香の目が大きく見開かれて、それがだんだんと色を失うのが見えた。 「大丈夫」  綾人は、今度は鈴香の目を見て言った。指を一つパチンと鳴らす。鈴香はその音に反応した。そして、綾人の目を見た。鈴香も、綾人の瞳の中の自分を覗く。 「大丈夫です。あなたは一人じゃない。孤独に飲み込まれないで、きちんとお母さんの話を聞いてあげてください」

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