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第12話 貴人の名前

「幸野谷百合子……」  おそらく、綾人はその名前を聞いたのは初めてだろう。桂綾人の人生には、百合子という名の知り合いすらいない。それでも記憶の中のどこかに引っ掛かるような気がしていた。 「なんだか、ものすごくお金持ちっぽい名前ですよね」  一般的な人というよりは、ほんの少しだけ由緒正しい気がするというか、綾人には縁のない響きだと感じた。 ——身分が高そうな感じがするのかな。  そう考えてみても、自分にはそもそも一般市民の友人しかいない。それも両手で足りるくらいしかいない。 「覚えがないのか?」  貴人様は、綾人の顔を覗き込みながら訊いてきた。穂村の子孫を代々祟るほどに強い恨みを持つ人物。そして、その人は罪人。 ——罪人……。  そう思って記憶の隅まで追いかけてみるけれど、思い当たる人物がいなかった。罪人だった前世の自分の記憶があれば、もしかしたらすぐにわかるのかもしれないと思いつつ、頭を抱えるしかなかった。 「あの……ちょっといいですか? その人、俺が知ってるかもしれないです」  タカトが綾人の後ろに立ったまま、おずおずと手を挙げた。その場にいた全員が一斉にタカトを見た。他の人は誰も聞き覚えがないらしい。 「幸野谷姓は、オレんちの数代前の爺さんの旧姓なんだ。かなり羽ぶりのいい生活をしていた大地主だったらしい。でも、お金持ってただけで商才がないやつばっかりだったらしくて、戦争の後に財産が全部焼けて無くなったあと、家が傾いてしまったけれど立て直すことが出来なくて、そのままどんどん廃れてしまった。一家離散かって時に、次男でまあまあ頭の良かった爺さんが、たまたま穂村に気に入られて、通ってるうちに長女だった婆さんと恋をしたらしくて。婿入りして穂村を継いだんだ」  タカトはチラリと綾人の目を覗く。綾人はまだ思い出せないらしく、うんうん唸っていた。 「で、その話が出る時に、幸野谷と言えば大昔のあの人って感じで、必ずと言っていいほどネタで出てくる、気性の荒いお嬢様がいたんだ。確かその人の名前が百合子だったと思う。その人、気に入らないことがあると、なんでも火をつけて燃やしまくるような危ないやつだったって」  綾人の頬がピクリと動いた。 「火をつけて燃やしまくる……気性が荒い……」  綾人がブツブツと呟く言葉の中に、その二つが仲間入りした。呟くたびに、顔色が悪くなる。だんだんと表情が暗くなり、記憶の中の開けてはならない扉が、ゆっくりと開いていくような、悪心を呼ぶ流れが起き始めていた。 「綺麗だけど、歯向かうと命が危ないって。だから百合子お嬢様には近づいちゃダメだっていう話がずっと受け継がれてて、いくら綺麗でもそんな嫁さんは嫌だよなって爺さん連中が笑ってた」 「それは怖いわね。お金持ちの娘さんで、ちやほやされてたらそうなるのかしら。うちはこう見えて結構厳しかったから、私はそうならなくて良かったわ」  鈴香は、自分の腕をさすりながら、そう呟いた。  そして、綾人はさらに顔色を悪くしていく。今やすっかり青ざめてしまい、視線はフラフラと彷徨い続けていた。 「燃やす……気性が荒い……綺麗なのに……嫁の貰い手がない……財産が欲しい」  タカトは蒼白な面持ちで独り言を呟いている綾人に気がつくと、「どうした?」と声をかけた。そっと肩を抱いて、頬に手を添えながら、その目の奥に潜むものと向き合う。 綾人の目は、暗い怯えの色に染まっていた。 「大丈夫?」  タカトは、鳶色の瞳の中に自分が写っていることを確認して、綾人の髪を撫でた。綾人はタカトの美しい深淵の目を覗く。 ——大丈夫、この目の隣にいれば、大丈夫。  そう思って縋るように見つめていると、その黝の世界の中に、突然真っ赤な炎が吹き上がり、燃え広がっていく様子が見え始めた。 「あ……」  その中に、黒髪を振り乱しながら罵詈雑言をぶつける、とても美しい娘の顔が浮かんできた。その娘の隣にいる男が、日のついた松明をこちらに向かって投げつけてきた。  ブンっという音と共に、回転する真っ赤な炎が迫る。自分の喉元が、ひゅっと音を立てて縮み上がるのがわかった。 「いやああああああああ!!!!!」  その場にいた全員が、驚いて竦み上がってしまった。綾人は急に大声で絶叫し始め、顔を押さえながら床にゴロゴロと転がり始めた。しきりに「熱い! 痛い! 助けて!」と叫んでいる。 「綾人!」  タカトは綾人を抱きしめようとしてしゃがみ込んだ。ただ、必死の形相で何かから逃れようとしている綾人は、ボロボロと涙をこぼしながら暴れ続けていた。  元々綾人の方が力が強いため、タカトは全く制御することが出来なかった。自分の力ではどうにもならないと判断したタカトは、貴人様に助けを求めることにした。 「貴人様! 綾人が……」  貴人様はゆっくり被りを振った。タカトには、その反応が俄かには信じられ無かった。 「たっ、助けないんですか!?」  自分の身の危険を顧みず、立場が悪くなることも承知の上で支え続けている人が、おそらく過去の記憶が戻ったことで苦しんでいる。頭を抱えてのたうち回っているのに、なぜ何もしないのだろうか。  貴人様の「好き」はその程度だったのだろうかと、必死で綾人を止めながら、この数ヶ月まさに一心同体だった神様の考えがわからずに、狼狽えるしか無かった。 「その記憶に紐づいたものの中で、もう一つ思い出してもらわねばならんのだ。それをせねば……」  眉根を寄せて、痛みに耐えるように貴人様は言った。右手で自分の左手を掴み、爪を立てていた。その手は、綾人を助けたがっている。それが、今の状況をとても不本意だと語っていた。  タカトはそれを見て安堵した。 ——そうだ、貴人様が綾人に辛い思いをさせたいわけ無いじゃないか。  では、思い出させたいこととはなんだろうか。最初の人生の記憶、その中で綾人がまだ口にしていない人。誰だ、早く思い出さないと……。 「でも……、このままじゃ思い出す前に、綾人が……壊れてしまいます!」  貴人様は、ギリギリと歯軋りをしながら苦痛に耐えていた。食い込んだ爪には血が滲み始めている。  誰よりも綾人に手を差し伸べたいのは、貴人様だ。 そうしないのであれば、それはしないという選択ではなく、してはならないというルールなのだろう。  必死になってそれを守り、縋るような目をタカトに向けた。 そして、「お前の……お前の親戚が集まって話していた時、百合子の話以外に出てくる名前はなかったか」と問いかけた。 「親戚の話に出てくる人の名前……? そんなの酒飲みたちが毎回同じ話をするから……」  覚えているはずだと、タカトは必死に記憶を辿った。  幸野谷という珍しい姓、百合子という気性の荒い娘、減っていく財産、それを必死に稼いでいた有能な主人……。 「主人は有能なのに、娘が男遊びばっかりして財産を食い潰して行ってたって……その穀潰しが百合子で、主人の名前は……」  タカトはハッとした。そして、貴人様を見た。目の前に立つ、雅な男の顔は、自分とそっくりだ。それは、自分の姿を借りていたからだと思っていた。 ——そういうことか。  そもそも、人間だった時から似ていたんだろう。貴人様がタカトに憑いている理由。綾人を助けるために、なぜ穂村貴人じゃないといけなかったのか……。  タカトは、ぎゅっと両拳を握った。今しがた思い出した名前を、納得した残酷な運命の理由を、貴人様の目をしっかりと見つめたまま答えた。 「爺さんたちが話していた、有能だった幸野谷の主人の名は、|貴人《たかひと》。俺の名前は、その人から貰ったと爺さんが言ってました。賢く生き抜いていって欲しいって言ってました。……貴人様、あなたは俺のご先祖様なんですね?」  ふっと雅に貴人様が笑った。そして、僅かに顎を引いた。小さく、何度もそれを肯定する。 「先祖の罪を、子孫が拭う話はそんなに珍しい事じゃない。俺はそのために選ばれて、|貴人《たかと》として生まれて来た……そうなんでしょう?」  それは、過酷な運命だった。タカト自身がこれまでにも何度も思ったことだ。悪いのは自分ではない。それなのに、最愛の人を奪われるのを黙って受け入れるなんていやだ……。  それにも関わらず、今のタカトはなぜか晴れやかな気分になっていた。綾人を失うことを受け入れたわけではない。でも、自分が選ばれた理由には、なぜかスッと納得してしまった。それだけで、随分と気が楽になったのだった。 ——なんだ? 貴人様の顔つきが……なんか、幼くなった?  これまで貴人様は、雅で穏やかな顔で笑っていた。それが今、目の前で笑っている姿はやや無邪気に見え、ほんの少しだけ若返ったように見えた。思わず見惚れてしまうほどに、可愛らしい笑顔だった。 「なんだかわからないけれど、ちょっと気が楽になったんですか?」 「そうだな。そうかも知れない。つかえていたものが取れたように感じる」  そして、思わずタカトも惹かれたその笑顔を見て、綾人もまた変化を起こした。頭を抱えていた手を緩め、じっと貴人様を見ている。そして、首を少し傾げたと思うと、ポツリと小さく呟いた。 「旦那様……?」  自分で発したその言葉を皮切りに、綾人の頭の中に、たくさんの声が聞こえてきた。 『ヤト。随分待たせたな。これからは一緒に暮らせるぞ』 『泣くな。笑っていろよ。絶対大切にするからな』 『最後には、必ず一緒にいよう』  その言葉と共に綾人の目に浮かんだのは、ヤトに向けて愛を届け続ける、無邪気な顔をした幸野谷貴人だった。 「旦那、様……幸野谷の……」  綾人の目の前に、次々とヤトとしての思い出の映像が見え始めた。薄い板に貼り付けられた写真のように、頭の中を行き来する一瞬一瞬がつながり、動画のように動き始める。  一斉に戻り始めた記憶を必死で追いかける綾人は、鳶色の瞳をゆらゆらと揺らしていた。何かの衝動に駆られたのか、夢を見るように遠くを見つめたまま、ゆっくりと立ち上がった。  その動作に合わせて、涙がキラキラと粒となって落ちていった。ゆっくりと貴人様のそばまで近づいて来ると、その胸にそっと手をついた。触ることが出来ないはずの、神体の貴人様に触れていた。  触れた手のひらから、胸の中に温かい泉が湧くように、じわじわと忘れていた気持ちが蘇ってきた。 ——これだ。きっと、これだ。  綾人は大きな目をさらに大きく見開きながら、忘れていた感覚を取り戻していった。胸が躍って、貴人様を見上げた。そこには、同じようにはらはらと音もなく涙する貴人様の姿があった。 「思い出してくれたのか、綾人。お前のままで、ヤトの記憶を取り戻したのか?」  綾人は、ゆっくりと貴人様の胸に顔を埋めた。こうすることが自然だとヤトが判断したのか、考えるよりも前に体が動いていた。  それに対して綾人の心は拒否を示さなかった。自分の中にうっすらと二人分の人格があるのがわかるのに、間違いなくその全てが自分自身の行動であるという、奇妙な感覚を得ていた。そして、肩を振るわせながら呟いた。 「はい。幸野谷の旦那様。俺が忘れていたのは、あなたが神になる前のことですね」  綾人は上目遣いに貴人様を見ると、額をその胸に押しつけて幸せそうに微笑んだ。貴人様は、ゆっくりと綾人を腕で包み込んだ。 「……ようやくか」  綾人を抱きしめるその腕は、一つの試練から解放された悦びに震えていた。あまりに辛い思いをして亡くなったヤトは、自分の存在自体を否定して、魂からその記憶を消してしまっていた。  貴人様は、ヤトの魂がそのまま幸せになってくれていれば、何もせずただ見守るつもりでいた。しかし、今世でも消えていない百合子の呪いがある事を知り、その魔手から綾人を守る事を決意した。  その許可をいただきに行った時にかけられた言葉を、二重になった人格の持ち主を守ることの過酷さを、貴人様は思い出している。 『貴人、そうすることでお前にもそれなりの試練が訪れる。お前は耐えられるか?』  貴人様は、その問いかけに、躊躇わずに「はい」と答えた。 『手出しをしてはならない時の辛さを、本当にわかっているのか?』  それがこんなにも辛いとは思っても見なかったが、どうにかやり遂げた。左の腕に残る自らの爪痕は、ヤトが自分を思い出してくれた喜びで痛みを感じなくなっていた。 「お前の魂は、絶対に地獄へ落とさない」  綾人を強く抱き竦め、痛む胸をその温もりで癒そうとした。 『お前が消滅したとしてもか?』 「俺が元凶なのだ。報いは受けねば」  その言葉に、高く冷たい笑い声が反応を示した。それは、背筋の凍りそうなほどに冷たく、禍々しい声だった。肌に触れるたびに、そこから腐っていくのではないかと不安になるほどの、嫌な声。 「そうですわね。全てはあなたが悪いんですのよ。ねえ、お父様?」  それを発していたのは、菜摘だった。ただ、その声の主は、菜摘でも翔子でもなかった。もっと底意地が悪く、性悪で、自己中心的な声。貴人様とヤトの記憶の中にだけ存在する、神経に触るような話し方をする人物だった。  斜に構え、腕を組み、下から睨めつけるようにしている。その姿もまた、二人の記憶の中にあった。自分の思いを貫くためなら、どんな犠牲も厭わない。そんな強欲な性格の現れた、特徴的な笑い方そのままに、菜摘の体を乗っ取っていた。 「お前に言われるのは癪だね、百合子」

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