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第13話 元凶
「あら、だってヤトはあのまま柳家で働き続けていれば、家族を救えるだけの稼ぎは稼げていたはずでしょう? 別にあなたが娶らなくても、きっとあと数年で借金は完済していたんですよ。それなのに、あなたが身請けなんてするから……私みたいな性悪に狙われることになるんですよ」
ひどく身勝手な暴論を振り翳しながら、百合子はケラケラと笑っていた。そして、禍々しいほどの恨みのこもった視線はそのままに、なぜか鈴香の方へとそれを向け、気持ちを弄ぶような素振りをする。
娘の体に憑いた霊があまりに身勝手な女であったため、鈴香は怒りに震えていた。何より、その体に断りもなく入り込んだことが許せなかった。
「あなた、なんなの! 百合子とか言ったわね……穂村と菜摘は関係ないでしょう? その体から出て行ってちょうだい! 私の子の体を汚さないで!」
鈴香は、我が子に向かってきつい視線を投げかけるという苦痛を味わいながらも、その肉体を守るために恐怖にまっすぐ対峙した。
「……親の無償の愛ってところかしら? そんなもの、自分の身が安全だと思っているから言えるのよ。あんたが代わりに体を差し出してくれるかしら? それなら、この子からは離れてあげるわよ?」
鈴香は百合子の挑発にカッとなり、まともに反論しようとした。ただ、井上氏が鈴香の前に静かに歩み出てそれを阻止した。
「百合子さん、いい加減になさったらどうですか? あなた、ご自分がなさったことを棚に上げて、高住ヤトの親戚を逆恨みされているそうですね。幸野谷の子孫だけならまだ黙っていられますが、高住の子孫にまで手を出すとは許せません。鈴香の父は高住だ。それを知っていて菜摘を狙ったのでしょう? それならば、祖父として孫を救わねばなりません」
井上氏はそれまで讃えていた笑顔を隠し、伸ばした手に金色に輝く|羂索《けんさく》を取り出した。そしてそれを菜摘に向かって投げかけると、まるで意思を持つもののように、シュルシュルと巻きつけて、その動きを封じた。
「これは……お父様が使っているものだろう!? なんでお前なんかが……」
井上氏はその羂索の一端をぎゅっと握りしめ、菜摘の体から百合子を締め出そうとしていた。少しずつ少しずつ、しかし確実に締め付けられた百合子は、苦痛に顔を歪めている。
「なぜこれを使えるかと? それは、私も幸野谷の子孫だからですよ。私は、あなたの身勝手な呪いのおかげで滅ぼされることになった、幸野谷三男坊|道士《みちひと》の子孫の、最後の一人です。幸野谷の血を継いでいるから、この羂索が使えるんですよ」
「道士の!? あんな穀潰しの子孫がお父様の力を使えるなんて……」
ギリギリと歯を食いしばる百合子に、井上氏は侮蔑の表情を浮かべながら答えた。
「どれほど出来が良かろうとも、人の命を弄ぶ人間よりはマシだということですよ。私に伴侶が作れないようにしただけでは飽き足らず、穂村の子孫にもその呪いをかけたようですね。ただ、残念ながらそれでも私たちは慎ましく幸せに暮らしています。あなたと違ってね!」
井上氏はそう叫びながら、羂索を持つ手をぐいっと引き寄せた。かなりの力で搾り上げたため、菜摘は「あー!」と声をあげる。
「お父様! やめてください!」
鈴香が井上氏を睨みつけ、菜摘を抱き抱えるようにその目の前から奪い取っていった。母の腕の中へと戻った菜摘は、途端に五歳児らしい声を上げて泣き始めた。
「えーん痛いよー! じーじのばかあ! ママぁー!」
初めて耳にした菜摘本人の声は、五歳児らしい可愛らしいものだった。その声が聞けたということは、百合子はその体から抜けたということになる。
「菜摘ちゃん! 良かった……でも、じゃあ百合子はどこへ……」
菜摘を縛り付けていた羂索は、百合子がその体を抜けたことで消滅した。だからといって百合子が消せたわけではない。その行方を追っている一同は、ふとその狂気が倍増して戻ってくるのを感じた。
「そうよねえ……菜摘は高住の子孫だけど傍系だものね。どうせなら、直径の幸野谷の子孫を痛めつけてやったほうがいいわね」
綾人はその光景を見て、絶望を感じた。自分よりも背が高く、黝の長い髪を靡かせて立っているその姿に、不釣り合いな甲高くまとわりつくような笑いを響かせていたのは、タカトだった。
タカトの体の中に入り込んだ百合子は、驚いて立ち尽くしている貴人様や綾人の表情を見て、おかしくてたまらないと言った様相をしていた。
「残念ねえ。私は幸野谷の養子ですから。子孫が滅びようが痛くも痒くもないのよ。この男はお父様に似過ぎているし、いい具合に嫉妬心から心が歪ませやすいのよ。お父様とお前が抱き合う姿を頭の中にたっぷり流して見せてあげようかしら」
そう言って、その指先をタカトの額に当てた。自分の指先を額に当てた格好になったタカトは、やや抵抗しているのか、動きがぎこちない。それでも、百合子の力には敵わないようで、触れた先から紫色の煙のようなものを吹き出し始めた。
「うっ……ぐ、うう……」
タカトの頭の中には、抱き合っている二人の姿がさまざまな場面で浮かび上がっていた。それを見ていると、いつか必ずやってくると覚悟していた綾人との別れが、確実に迫っていることを実感させられた。
「やめろ……わざわざ見せんな! 趣味悪いんだよ、お前!」
自分の体を乗っ取って百合子が動かしていることを自覚しているからか、見せられている映像にも悪意を感じることができる。だからこそ、百合子の精神支配は思うように進まない。
「ちっ、しぶといわね!」
それでも、数百年間身勝手な思いだけに塗れ続けてきた怨念の力は強大で、一人では太刀打ちできそうになかった。じわじわと、タカトの心の強い部分を食い潰し、弱い部分を広げていく。
「ヤトはあんたを置いてお父様と天界へ行くのよ。かわいそうね、捨てられるんですって」
「う、るせ……綾人だって、そんなの……」
罪の精算は、綾人が綾人として生きていくだけで、日々粛々と行われている。綾人はとてもいい人だ。身近な人間の困難を進んで解決し、周囲の人を幸せにし続けている。
「望んでないって? 本当にそうかしら? そう思ってるのはあんただけじゃないの?」
最初と二度目の人生では非力だったけど、今は力も強く精神力もとても強い。心も体も強く、寛大でお人好しだ。綾人は、素晴らしい人間だとタカトは思っている。罪などあっという間に清算されていくだろう。
「お父様が幸せになるために、あんたは犠牲になるの。体を勝手に使われて、好きだった人を奪われる。あんたは私と一緒なのよ」
「……どういう意味だ」
百合子は、タカトの心にできたわずかな隙間に目をつけた。ニヤリと笑うと、その傷を深く抉る。
「いくら求めても、決してこちらを向くことは無いのよ。気があるふりをされるだけ。かわいそうね」
貴人様がタカトに向かって声をかけた。綾人もタカトへと叫び続けている。
「耳を貸すな、タカト!」
「タカト! 俺はお前を置いていきたくないよ! 信じろ!」
——でも、もし綾人の記憶が薄れてしまったらどうなる?
そうなると、タカトのことはこれからだんだん忘れられていくかもしれない。猛烈な焦りと寂しさが、タカトを襲っていた。
「綾人……貴人様とは恋人では無かったと思うって言ってたよね? 恋人じゃなくて、|夫夫《ふうふ》だったってことかな? だとしたら、それを思い出したのなら……俺、もう一緒にいられないよね」
そう言った途端、タカトの頬にぼろっと涙の粒が溢れてきた。そしてその腹の底に、言いようのない重たい痛みが次々と生まれる。
——寂しい……とても寂しい。
身体中をその感覚に支配されそうなくらいに、他のことが考えられなくなっていった。
——父に暴力を振るわれても平気だった。
きっと何か原因があってああなっているのだとなんとなく理解していた。だからそれを排除すれば、いつかまた優しい人に戻ってもらえると信じていたから、寂しいと思ったことは無かった。
——母はそれなりに優しかったが、本当の意味では俺に無関心だった。
タカトの母の家は昔から「いい血筋」とされた泉谷家だ。突出したものを持たない息子に興味がなくても、タカトからは何も言えなかったし、言わせてもらえなかった。
——友達は出来にくかったし、出来ても離れるしかなかった。
タカトは、あざのせいで友人にも嫌われ、いつも一人で過ごしていた。やっと出来た友人が、一緒にいることで辛い思いをしているのを知って、結局一人になる選択をするということが何度かあった。
そうやって気がつくといつも一人だった。
ただ、綾人と仲良くなってからは、綾人に嫌われるのだけは嫌だとタカトは思うようになっていった。
高校の時に助けてもらって、その時から淡い恋心を抱いていたのは間違いない。それが貴人様と綾人の逢瀬の「痕跡」が体に残ることを知り、それに戸惑うようになった。
だからタカトは必死で綾人を捕まえた。今世では、恋人としてそばにいて欲しいと願っていたからだ。
綾人が節分で消滅するとわかってからは、焦燥感に駆られてばかりいる。どうにか納得しようとしたけど、それはどうしても出来そうに無いのが実情だった。
だから、それが早まってしまうような出来事が起きている今、心がちぎれそうなほどに寂しい。
——サミシイサミシイ、ヒトリニシナイデ。
タカトは、気がつくとボロボロと泣いていた。堪え切れずに嗚咽を漏らし、心が冷えていくのを感じていた。
「貴人様、お願いします。節分までは、俺と綾人の時間を奪わないでください。約束しましたよね? お願いですから……守ってくださいよ。俺がこんなに好きになるって予測できなかったのは、あなたの落ち度なんでしょう? だったら最後まで綾人と一緒に居させてください。まだ半年も残ってるじゃ無いですか。お願い……お願いします……」
膝をついて、ブツブツとつぶやくように泣いた。言っても無駄だとわかっているのに、口からそれが零れ落ちていくのを止められ無くなっていた。
「二人は運命の恋人なんだから、死んだら天界に行って、永遠に共に暮らすんだ。イトも一緒だ。だけど、そこに俺は一緒に行けない。お願いします……。俺は、俺は忘れることもできず、ずっと一人で生きていくんだから……」
寂しさで埋め尽くされていたタカトの心が、懇願するうちにドロドロとした暴力的なもので支配されるようになっていた。とても醜い感情が煮詰められたような、粘度が高くて不快な蠢きがタカトの中に芽吹き始めていた。
「タカト? どうした?」
綾人が声をかけたが、タカトは答えない。貴人様はタカトの顔を見ると、綾人を自分の後ろに下がらせた。
いつの間にか、タカトの体の周りに、うっすら影の塊のようなものが見えるようになっていた。それはふわふわと浮かんでいて、そうかと思えばベッタリと張り付き、動く度にタカトの血色を奪っていった。
「綾人、タカトを剣で切りつけろ」
貴人様はタカトを見据えたまま、綾人に一振りの剣を差し出した。綾人は驚いて貴人様の顔を見た。厳しい中に隠れている怯えの表情に、綾人は胸を痛めた。
「斬らないと百合子は切り離せないんですか?」
無言のまま顎を引いてそれを肯定した貴人様は、柄の部分に龍が巻き付いた剣をトントンと指で叩いた。綾人がそれを手に持つと、龍の装飾が真っ赤に輝き始めた。
「本当に斬るんですか? タカトは大丈夫なんですか?」
「躊躇わずにやれ! 大丈夫だ。死にはしない。むしろ助けるためだ。早く!」
——助けるためなら……。
綾人は剣を抜くと、鞘を投げ捨てた。そして、それを両手で高く振り上げると、タカトに向かってそのまま勢いよく振り下ろした。
「……っ!」
ズバッと手に大きな質量のものが絶たれる感触がした。その感覚が伝わってきた時、自分の体が芯から冷え切ってしまいそうなほどの寒気に襲われた。
その瞬間のタカトが忘れられない。顔が目に、声が耳にこびりついて、残っている。
そして、ただ一言が、永遠の呪いのように、耳の中でずっと鳴り響いていた。
「どうして、綾人……」
タカトはそのまま頽れた。膝から前のめりに落ち、両手をだらんと下げたままゆっくりと倒れ込んでいった。その体が地面に叩きつけられる寸前に、綾人は剣を放り投げ、タカトを抱き上げた。
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