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第16話 悪鬼の気づき

◆◇◆  気まずかったランチの地獄は、瀬川のいつも通りにデリカシーのない一言で一気に流れが変わり、気づけばみんな大笑いしているといういつもの光景へと戻っていった。  お腹も満たされ、居心地のいい仲間と歩く京都の街並みは、とても心を潤わせてくれるものだった。今日最初の目的地である東寺までは、歩いて十五分。それくらいの距離であれば、七人で話しながら移動を楽しむのにはぴったりだった。  夏の日差しの中に佇む古刹は、ひっそりとした雰囲気で、凛華や桃華のはしゃぎっぷりが浮いてしまいそうだったが、到着が近づくに連れ、不思議と二人ともだんだん口数が少なくなっていった。 「なんか急に二人とも静かになったね。やっぱりつまんなかった?」  あまりに急に静かになった二人が気になり、綾人はそう尋ねた。すると、凛華が腰に手を当ててフンッと鼻を鳴らした。 「流石に雰囲気に飲まれるでしょ、東寺だよ、東寺。こんな厳かなところに行ってもうるさくするほど、空気読めないわけじゃないんですけど!」 ——それは、普段はうるさくて空気が読めてない自覚があるっていうことだろうか……。  綾人はそう思ったのだが、察しがついたらしい凛華にギロっと睨まれたので、素知らぬ顔をしておいた。どの明王の顔よりも、凛華や水町が怒った時の方が恐ろしい。余計なことを言って刺激を与えるようなことは、絶対に避けた方がいいに決まっている。 「と、とりあえず先に進もう」  綾人は、やや興奮気味でこちらを睨みつけている凛華の背中を押しながら、前へと進めて行った。   「東寺は真言密教の根本道場という重要な存在として知られる。弘法大師空海が今も生きているこの場所は、立体曼荼羅が見られる稀有な場所。平安の時代からそこにあり、あり続けるということの重要性を現している。一歩足を踏み入れれば、全てに深い意味があり、どこも気を抜いて見ることはできない。ほおほお」  凛華の目の前には、何かを読みながらそう呟いている瀬川の姿があった。桃香と凛華が後ろからそれを覗き込むと、どうやらそれは誰かから送られてきたメッセージのようだった。 「それ、誰かがまとめたもの?」 「あ、これは俺が綾人に頼んで作ってもらった資料。だから、綾人がまとめたもの。俺しか見ないからって言って無理やり作らせたから、読んだって言わないでね」 「へえー、桂くんって本当に宗教の勉強してるんだね。悪いけど見た目からして全然勉強とかしてなさそうに見えるんだけど……」 「あ、ダメだよ、それ……綾人が一番気にしてるやつ……」  そう言って振り返ると、凛華の後ろにいる綾人と目があった。じっとりとした目をこっちにに向けている。瀬川は焦り、思わず凛華を盾にした。 「お前……誰にも見せないって約束したよな……」 「ごごごごごごめんて! でもいーじゃん、すごくよくまとまっててわかりやすいし。みんなで読んでもいいくらいだろ? なんでそんなに嫌がるんだよ」 「開き直るなよ! 恥ずかしいからって言ったじゃねーか! 全く……」  ある程度の知識があれば、受け取る感動の深さも変わってくる。綾人とタカトは思想や哲学で人を救いたいと思って勉強している学生なので、本来なら瀬川のいう通りにするのが正解だ。  ただ、凛華のように綾人の見た目を揶揄う連中があまりに多かったため、その気持ちもやや萎みがちになっていた。 「桂くん、そういうの気にするんだ。ごめんね、これから言わないようにするよ。そんな私がいうのもなんなんだけど、これはみんなに読ませてくれない? 桂くんと穂村くん以外は実は何もわかってないからさ。ねっ、お願いします!」  パチンと目の前で手を合わせる凛華の顔を見ても、綾人はやや不服そうにしていた。それでも、内容を褒めてくれたことには違いがないので、「そんなに言うなら……」と全員にメッセージを回す。 「ありがとう! やったー。でも本当にすごいね、めちゃくちゃびっしり書いてあるじゃない。一年生でこんなにレポートやってる人そんなにいないよ」  そう言って尊敬の眼差しを向ける凛華に、毒気を抜かれた思いがした綾人は、降参したように「ありがとね」と返した。  それからしばらく、綾人のメモを読みながらそれぞれの像について学んでいった。その荘厳な空間は、普段騒いでばかりの人間ですら、否応なしに静かにさせるほどの不思議な力を持っている。  普段チャラチャラとした生活を送っている瀬川ですら、その空気に当てられて静かになっていた。 「いやあ、しかし何も言えなくなるなあ……畏怖するってこういうことかね」  瀬川が珍しく神妙な面持ちでそう呟くのを、タカトが隣でふふふと小さく笑いながら聞いていた。綾人は、それを珍しいなと思って見ていた。 ——今笑ったの、タカトじゃ無いよな……。  普段のタカトの笑い方よりも、ずっと落ち着いている感じがした。  今の立ち位置からすると顔の右半分は綾人には見えない。どっちなのだろうと思ってじっと見つめていると、気づいたタカトがこちらに向き直った。  右目が赤く、あざが出ていない。やはりタカトではなく、貴人様だった。 「どうかしました? こんな何も無い日中に入れ替わるなんて珍しいですよね。瀬川の言ったこと、貴人様的に面白いことがありました?」  綾人が尋ねると、貴人様はニヤリと悪どい笑みを浮かべた。お兄ちゃんが弟に悪巧みをしているような、親しみといたずら心のようなものが混ざった顔をしていた。 「ああ。ちょっとな。まあ、あいつにとっては、ここにある仏像たちは、怖い上司の顔が揃ってるような場所だからな。そりゃ畏怖するだろうなと思うと、ちょっと面白くなっただけだ」 「あー、なるほど。そういうことですか。瀬川は天狗だから……? 如来や菩薩は上司に当たると言うことなんですか?」 「まあな」 ——え? じゃあ、ここにある像のうち、どれかは貴人様のものだってこと?  綾人はふと、そう思った。  そういえば、貴人様は一体何の神様なのだろうか。具体的に聞いたことは、一度も無い。『俺は神だ』と言われたら『はい、そうですね』と答えたくなるほど、説得力のある出立をしている。これまで一度も、本当に神なのかと疑ったことが無かった。  並び立つ仏像を眺めながらそんなことを考えていると、急にキンっと空気が変わる場所があることに気がついた。  それは、講堂の中心に光り輝く、五智如来と五大明王の前で起こった。気づけば周囲の空気の流れも止まっている。妙な圧迫感と不自然な無音の空間に放り出されてしまったように、心許ない感じがした。 ——なんだ? 何か普通じゃ無い感じがする……。  その得体の知れない感覚に、うっすらと恐怖の念が浮かび始める。それが加速すると、自分の呼吸の音と鼓動だけが、やけにうるさく響き始めた。自分には窺い知れない何かが起きそうな予感がして、体に緊張が走っていた。 ——あ、なんか……ヤバいかも……。  緊張が続くと、自律神経が乱れるからだろうか、綾人の頭の中で高音の耳鳴りが、まるで騒音のように鳴り響いていた。肋骨の隙間から飛び出しそうなほどに心臓が跳ね、その圧力に押されて喉元が詰まりそうになっている。 「綾人? どうかしたの?」  水町が綾人に声をかけてきた。しかし、綾人の肩に手を触れようとすると、まるで電流が流れるように痛みが走り、それを阻止された。 「痛っ!」  綾人は、だんだん周りの音が全く聞こえなくなり、一歩も進めなくなってしまった。なぜだかわからないけれど、汗が吹き出してくる。はあはあと大きく肩で息をしていないと、溺れてしまいそうな恐怖が迫っていた。  凛華が何かを一生懸命に問いかけている。陽太が背中に触れ、支えようとしている。桃花が心配そうに見つめている。ただ、貴人様や水町、瀬川は少し離れた場所から、綾人をじっと見ていた。  綾人の目を見つめながら、近づかないようにしていた。 ——あの時と同じだ。  井上邸で幸野谷貴人のことを思い出した時も、綾人が苦しんでいるにも関わらず、貴人様は綾人に触れようとしなかった。 ——つまり、今も何かを思い出してるってこと?  そう思い、記憶を辿ることへ意識を集中しようとした。その時、突然体に妙な衝撃を感じた。 「うわっ! い、ってえ!」  ぐわんと一際大きな頭痛がした。綾人は膝から崩れ落ち、頭を抱えて這いつくばった。痛みから逃れようとのたうち回り、数歩分体を引きずった。 「桂くん! どうしたの!?」  なぜだかわからないけれど、その痛みから逃れるためには、先へ進まなければならないという気持ちが湧いた。そして、ずるずると這いながら進んでいくと、突然ぴたりと頭痛が止まった。  あまりに突然止まったので、驚いて周囲を見渡した。その時、目の前でギラリと光る像があるうことに気がついた。 ——これは……。  綾人の頭痛が止まった場所に立つ像。それは、五つの目を持ち、三つの顔があり、六本の腕のある明王、北方の守護神である金剛夜叉妙王の像の前だった。 「なんで……急に良くなった……?」  場所の問題なのだろうかと思い、一歩戻ってみた。 「うっ! いってえ……!」  金剛夜叉明王の前を離れると、やっぱり頭痛がする。ここに何かあるのだろうかと思い、その像をじっくりと見上げた。 「金剛夜叉妙王……頭上の獅子、悪鬼を喰らう、五つの目……」  綾人は、ハッと息を呑んだ。 ——俺は、きっとここへ連れてこられたんだ。  綾人が忘れている事でまだ大切なことがあって、それを思い出し気づくために、ここへ呼ばれたのだろうと思った。  貴人様が過去の綾人のことをどう説明してくれていたのかを思い出してみると、金剛夜叉明王にまつわる話と酷似している。  多くの人の命を奪い、傍若無人だった。悪いものを食べることができる。それは金剛夜叉明王と同じエピソードだと言うことになる。そして確か、悪鬼が大日如来と出会うことで明王へと生まれ変わる……そこまで考えると、ふと後ろを振り返った。 「謎は解けたか?」  そこでは、二神と天狗が笑っていた。おそらく綾人の推測は当たっているのだろう。貴人様は、ゆっくりと綾人から離れる方向に、歩みを進めた。そして、立ち止まると、くるりとこちらへ振り返った。  その瞬間、パアッと周囲に光が差した。その時、貴人様が立っていた場所は、大日如来の像の前だった。  綾人は、つい先程思い浮かんだことを確認しようかと口を開きかけた。すると、貴人様は口元に人差し指を当て、小さく息を漏らした。天狗も同じことをしている。そして、縁結びの神は笑っていた。 ——口に出して確認してはいけないってことか?  そう判断した綾人は、金剛夜叉明王に向き合った。すると、眉間の目がぎらりと光ったように見えた。  誰彼構わず食べ散らかしていた悪鬼が、大日如来の導きで、悪を喰らい人のためになることをした。綾人は今、善行を積むために悪霊を吸収することで浄化し続けている。  最後に対決する相手と互角に渡り合えるようにと、霊力を高めるためにやっている事でもあった。この先に待つものは、天界へ行く事だとはわかっているけれど、もしかしたらその時、綾人は金剛夜叉明王のような存在になるという事なのかもしれない。 ——ただ、もう在るもんな。既に在るものになるって、どう言う事だろうか?  やや疑問が残ってはいるが、少しだけでも腑に落ちることがあって、綾人はほんの少しだけすっきりとした気持ちになっていた。

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