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第7話 弁当と万華鏡
俺の母は壊れている。きっかけは父との離婚だった。母さんは元々他人に必要以上に尽くしたがる性格で、ただ喜んでもらえるのが嬉しいという人だった。けれど相手への気持ちが膨れ上がるほど、今度は見返りを求めてしまう。尽くした愛と同じかそれ以上の愛を欲する。それなのに、向けられた愛を素直に受け取れない不器用な人でもあった。そんな母さんに必死に愛を伝えていた父さんも、とうとうそれに嫌気が差してしまったのだと思う。両親の関係が悪化していったのは俺が小学三年生の時で、その頃俺は夏休みの自由研究に頭を悩ませていた。お家の人と一緒に作ろうと先生は言っていたけれど、毎日毎日言い合いをしている両親に手伝ってなんて言えなかった。父のため息と母のヒステリックな叫び声を聞きながら、百円ショップで買った作製キットで万華鏡を作った。誰かの指紋が銀メッキにべったり着いていて嫌だったけれど、一人ではどうしようもできなかった。何とか完成した万華鏡は、とても綺麗だった。筒を回せば綺麗なビーズがカラカラと音を立てながら、様々な表情を見せてくれる。万華鏡を覗いている時だけは、窮屈な現実を忘れられた。ある日ベランダで万華鏡を覗いていると、いきなり頬を叩かれた。その衝撃で万華鏡が床に叩きつけられ、中のビーズが辺りに散乱した。何が起こったのか理解できずにいると、血相を変えた母さんに思いっきり肩を掴まれた。母さんはずっと声を荒げて何か叫んでいたが、初めて叩かれたショックで何を言われているのか全くわからなかった。でもその時、母さんは俺のことが嫌いなんだと思った。それからすぐ両親は離婚して、俺は冬木快になった。そして、母さんは壊れた。
バイトの疲れが抜けずに、午前の授業はほとんどうたた寝してしまった。早く弁当を食べないと草薙が来てしまうのに、疲れと眠気の所為かちっとも箸が進まない。
「珍しいですね、まだ食べてないなんて。」
錆びたフェンスに寄りかかりぼーっと空を見上げていると、いつの間にか草薙が俺のすぐそばに立っていた。視線は俺の膝の上にある弁当箱に向けられている。
「別に、たまたまだよ。」
全く手を付けていないこの状態では、蓋を閉めづらい。俺はできるだけ草薙に弁当が見えないように背を向けた。すると草薙は購買の袋を揺らしながらその場に座り口を開いた。
「冬木くんは、そのお弁当を作った人にとても愛されているんですね。」
今、なんて言った?思わず耳を疑い、草薙の方へ振り返った。
「何で……」
「愛情が伝わってくるお弁当だなと。」
何でもないように言う草薙に、無性に腹が立って考える前に口が動く。
「俺の好きなハンバーグが入ってるから?卵焼きが甘いから?それともウインナーがタコさんだからか?」
「何怒っているんですか?」
俺の様子がいつもと違うことに気がついたのか、草薙が少しだけ怪訝な顔を見せた。
「これは愛情なんかじゃねえよ。」
俺は膝に乗っている弁当箱をグッと握った。いつも開けたらすぐかき込んでいたので、こんなにまじまじ見るのは初めてかもしれない。
「この弁当は俺の母親の理想の具現化だ。」
「どういう意味ですか?」
草薙がはっきり聞いてくる。正直話すつもりなんてなかったけれど、このまま誤解されっぱなしなのも気に入らないと思い、俺は話し始めた。
「小三の時両親が離婚してから、俺の母親は壊れた。」
「壊れたって……」
「昔はすげえ綺麗な人だったんだ。周りの目を気にして今でも小綺麗にしてるけど、昔は何ていうか……中身まで綺麗だった。でも父さんに逃げられてからは、気に入らないことが起こるとヒステリックに喚き散らすようになって……この綺麗な弁当が、あの人の理想の姿なんだ。この弁当を見た人に、素敵なお母さんだなって思われたいんだよ。でも実際、片付けなんてできる精神状態じゃないから使ったまま散らかったキッチン、俺が片付けてるんだぜ?理想がどうでも、現実のあの人は壊れてる。」
俺の話を静かに聞いていた草薙は、やはりいつも通り淡々と質問を投げかけてくる。
「そのお弁当を見られたくなくて、一人でお昼を?」
「そういうこと。」
「お弁当、美味しいですか?」
「は?別に、味はうまいけど……」
草薙の顔を見ても、いつも通り何を考えているかわからなくて、俺には草薙の質問の意図がわからない。
「それならやっぱり、愛情はあるのだと、僕は思います。」
はっきり言ってのける草薙に、また苛立ちが募る。こいつは俺の話の何を聞いていたというのか。
「何でそうなるんだよ。これはあの人がよく見られたいがためだけに作ってんだぞ。」
「それなら見た目にだけこだわれば良いのでは?でも実際は君の好物のハンバーグも、甘い卵焼きも、その可愛いタコさんウインナーも全部美味しいんですよね。」
間髪入れずに追い打ちをかけてくる草薙に、俺は少し怯んでしまった。
「それに毎朝作るだけでも大変なのに、味にも見た目にもこだわってくれているのなら、それは愛情って言っていいんじゃないでしょうか?」
言っていることはわからなくもない。けれどそれを納得したくない自分がいる。そんな俺の葛藤に気がついたのか、草薙はふっと息を吐いた。場の緊張が解ける。
「まあ僕が口を出すことじゃないですけど。とりあえず冬木くんが教室でお昼を食べない理由はわかりました。」
「わかったならお前もうここで昼食うなよ。」
何となく決まりが悪くてそう言ったが、草薙はお構いなしに続けた。
「僕がどこでお昼を食べようが僕の勝手でしょう。もう見てしまったわけですから、明日からはもう少し味わって食べてあげてくださいね。」
そう言った草薙は、ビー玉のような瞳を細めて口元を緩めた。初めて見た顔に心臓がギュッと掴まれる。
「何なんだよ、お前……」
何で、そんな顔で笑ってるんだよ。それから何を話すわけでもなく俺たちは昼飯を食った。錆びたフェンスを揺らす風が心地よくて、空がいつもより高く感じた。
次の日も、俺は一人で二棟の屋上に来た。弁当箱を開けて中を覗くと、大きな唐揚げといつもの甘い卵焼き、それからポテトサラダが入っていた。母さんの得意料理だ。
「……いただきます。」
初めて言った気がする。俺はゆっくり箸を動かして唐揚げを口に運んだ。冷めているのに衣がサクサクしていて味が染みている。卵焼きもただ甘いだけじゃなくて、何だか優しい味がした。母さんの作るポテトサラダはじゃがいもを半分潰さず残していて、それが昔はあまり好きではなかった。でもこれも、なかなかうまいんだな。いつもより何倍も時間をかけて、弁当を平らげた。同じ量を食べているのに満足感が桁違いだ。草薙に言われた通り味わって食べたからだろうか。そういえば、今日はまだ草薙が来ない。いつもならとっくに息を切らして屋上に来ている時間だと言うのに。昨日俺が来るなと言ったからだろうか。そんなことで行動を変えるようなやつではないと思うけれど。さっきまで満たされていた気持ちが途端に枯渇していく。一人で食べる昼食なんて慣れているのに、今ここにあいつがいないことが嫌だと思っている。自分から来るなと言っておいて、なんて面倒なんだ俺は。こんな気持ちの時は決まって万華鏡を覗く。屋上で万華鏡を覗いていると、ベランダで覗いていたあの頃を思い出す。俺は右目に万華鏡を合わせたまま、ゆっくり上を向いた。
「何しよるんか!目が見えんようなってもええんか!」
突然の叫び声に、俺は肩を揺らした。右手を下ろし声のした方を見ると、息を切らした草薙が立っていた。あの日の母さんと同じ顔をして。
「万華鏡で太陽なんて見たら失明するでしょう!知らないんですか!」
太陽を見たら失明する……だからあの時母さんは……
「そういうことだったのか……」
「は?」
草薙は息を切らしたまま、俺をじっと見つめた。ビー玉のような瞳が揺れている。
「子どものころ、同じことをして母さんに叩かれたんだ。」
「まあ、叩いてでも止めるでしょうね。大事な息子なんですから。」
「そっか、そうなんだな。」
「ちょっと、今僕心配しているんですけど。何笑ってるんですか。」
「何でもねえよ。」
俺はあの日、床に散らばったビーズと壊れた万華鏡を見て知ったのだ。綺麗なものは壊れやすい。母さんも、万華鏡も、俺が綺麗と感じたものは壊れてしまうのだと思っていた。でも違うのかもしれない。現に壊れるのではと思っていた草薙に、俺は救われたのだから。
「ありがとな、草薙。」
「何ですか突然、ちょっと気持ち悪いです。」
「はあ?!そういえばさっきの何弁?」
「はて、何のことでしょう。」
「いや、とぼけるの下手か!」
あれから一週間後、ウチの高校は中間テスト期間に入り、全ての部活が活動を停止していた。ひと足さきに帰り支度を終えた柊が振り返って、花田と立花に声をかける。
「二人もファミレスでテスト対策やんない?」
「ザンネーン、私たち今から大通でタピるんだ〜」
「お前ら余裕だなぁ。」
話しながら自然といつものメンバーが俺の席に集まってくる。すると隣の席のやつが手を止めて、花田の顔をじっと見つめていた。それに気づいた桂木がどうした?と声をかけると、やつは小首を傾げた。
「タピるって何ですか?」
その言葉に主に女子二人が声を出して笑う。
「あはは!草薙くんって天然?」
「かわいー!」
こいつが天然な訳あるか、この猫被りめ……そう言ってやりたかったが我慢した。
「タピオカ飲むってこと。草薙くんも一緒に行く?」
「ダメダメ、草薙はこっちで勉強会!」
柊が肩に腕を回してやつの代わりに答えた。
「教えてもらうの?」
「いいや、草薙も生徒側。」
「え、意外!草薙くん勉強できそうなのに。」
「よく言われます。」
「褒めてはねえよ。」
咄嗟にそう突っ込むと、やつは隣の席から不服そうにじっと俺を睨みつけてきた。
「快くんだって人のこと言えないでしょう?前の英語の小テスト見ましたよ。」
「はあ?!蓮華てめえ!何見てんだよ!」
「隣の席ですから、偶然見えただけです。」
こうしてクラスでも蓮華と一緒につるむようになったおかげか、俺は今までより自然体でみんなと話せるようになった。きっと俺の中の呪縛が解き放たれたからだろう。母さんの機嫌を伺って過ごすようになった俺は、いつしか外でも人の顔色ばかり気にするようになってしまった。人当たり良くいつも笑顔で輪を乱さない、それを自分自身に課していつだって背伸びしていた。けれどそれは俺の首を徐々に絞め、その息苦しさを紛らわすように万華鏡を覗いていたのだ。けれどそんな俺を、草薙は救ってくれた。母さんに劇的な変化があったわけではないけれど、嫌われているわけではなかったとわかっお蔭か、前より少しだけ母さんの目を見て話せるようになった。すると不思議なことに、母さんの症状も前より少し落ち着いてきた気がする。些細なことかもしれないけれど、俺は確かに蓮華に救われたのだ。
___「あんたじゃ、レン先輩を救えない。」___
ふと蓮華の後輩の進藤凛太朗に言われた言葉を思い出した。蓮華は一体何から救われたいのだろうか。最近の蓮華は柊達とも話すようになって、表情が柔らかくなったというか、なんとなく何を考えているかがわかるようになった気がする。もし蓮華が何かに苦しめられているのなら、今度は俺が蓮華を救いたい。
「はいはい、行くぞバカ共。」
「桂木千葉、がんばれ〜」
「俺らにも言ってよぉ。」
「じゃあねー。」
「また明日。」
口々に別れを告げ男五人で教室を出ると、廊下の先にこちらをじっと見つめる人影を見つけた。それが秋田先輩だということはすぐにわかった。後ろを歩く蓮華は柊との会話に夢中で気づいていないようだ。蓮華に声をかけようとしたが、その前に秋田先輩がその場を去ってしまった。俺はあの人のことを何も知らない。けれど蓮華を見て酷い顔をしていることだけは、なんとなくわかった。
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