10 / 20
第10話 好きだった。
草薙雅、その名前を冬木快の口から聞いた時、初めて合点がいった。目の前の彼は、草薙雅にどことなく似ている。人当たりが良くて、周りにはいつだって人がいて。草薙蓮華が笑顔を見せるのは、昔からそういう人間の前でだけなんだ。俺は、そうじゃない。忘れていたはずの劣等感が、あっという間に溜まって黒い塊のように俺の視野を狭めてしまう。あの頃と違って怖がられることもなくなり、友人もできたのに、俺と彼らとでは似ても似つかないのだと嫌でも思い知らされる。
「あの、秋田先輩?」
「あ、ああ。草薙雅とは中二のとき同じクラスだったよ。」
「本当ですか!どんな人ですか?」
「……悪い、あまり親しくなかったんだ。」
嘘ではなかった。草薙雅と同じクラスだったのはその年だけだったし、俺は勝手な劣等感と彼のまとうオーラが得意ではなくて、極力近づかなかった。関わるとすれば、草薙に頼まれて草薙雅を呼んでやる時くらいだ。まあだとしても平面的な印象くらいは教えてやれただろうが、草薙雅のことを冬木に話さなかったのは、俺のちょっとした抵抗なんだろう。我ながら大人げない。
「そう、ですか。じゃあ、蓮華とどういう関係か知ってますか?」
「いや、知らないな。」
草薙蓮華と草薙雅、同じ名字だし全くの赤の他人というわけでもないのだろうが、俺は何も知らない。これ以上話すこともないため、俺は来た道を翻した。今日草薙が学校を休んだのは、十中八九俺のせいだろう。俺が昨日あんな風に抱いたから。きっともう、草薙から連絡がくることはない。それでいいんだ。
そう思っていたのに、テスト最終日草薙から一緒に帰りませんかとメッセージが来た。あの日以来約一週間ぶりの連絡だった。てっきりもう俺たちの関係は終わったと思っていたのに。元々大っぴらに言えるような褒められた関係ではなかった。終わるならむしろ、その方が良いとさえ思っていた。それでも、草薙に求められて嬉しいと思ってしまう。あの飴玉みたいな目に、いつまでも囚われていたいと思ってしまう。早く会いたくて、俺はまた彼の教室まで足を運んでしまうのだった。迎えに来てくれなくてもいいのにと言う草薙と、並んで校門をくぐる。俺は同世代の中でも背が高い方で、逆に草薙は平均より少し低い。そんな俺たちは、はたから見ればでこぼこで歪なんだろう。草薙と並んで歩くたびに、周囲の視線が気になって落ち着かない気分になる。けれど隣を歩く彼は、そんなことを気にしている様子は全くなくて、ああ、俺はなんて小さいのだろう。そんなしょうもないことを考えていると、目の前の信号が点滅し始めた。
「走りますか?」
隣の草薙が俺を見上げそう聞いてきた。そういえば草薙と初めて一緒に帰ったあの日、この信号を走って渡ったのだ。すぐ息を切らした草薙がおかしくて、けれどそのおかげで緊張が解け会話が弾み出した。あれから一ヶ月半ほどしか経っていないはずなのに、随分昔のことのように思う。
「いや、いいさ。今日はゆっくり帰ろう。」
「はい。」
あの日はそれが沈黙を破るきっかけになってくれたけれど、何より今は少しでも長く草薙とこうしていたいと思うから。信号よ、どうかもう少しだけ変わらないでくれ。
「では、準備してきますね。」
マンションに着いて部屋に荷物を置いた草薙が、いつものように風呂場へ行こうとする。俺はそんな草薙に言葉をかけて動きを止めた。
「身体は大丈夫だったのか。」
あえてあの後とは言わなかった。けれど草薙は俺の質問の真意に気がついたようで、俺に向き直った。見上げてくる飴玉みたいな目は揺るぎなく芯を持っている。
「問題ありません。」
「嘘つけ、次の日学校休んだだろう。」
「……別に先輩のせいではありませんから。」
きっと俺が気にしないようにと気遣っての言葉なんだろう。けれどそれは、いくら身体を重ねても草薙の懐に入ることはできないということの表れでもあった。きっと冬木快には草薙雅には、草薙はなんだって言えるのだろう。気遣いの言葉と本音の言葉、どちらがより近しい仲かなんてないのかもしれない。けれど、この言葉が今の俺にとって決定打になったことは確かだった。
「もうやめにしないか?」
俺の言葉に草薙は一瞬だけ目を見開いた。驚いているのかショックを受けているのか、それとも何も感じてなんていないのか、俺にはわからない。
「……なぜですか?」
いつも通りの淡々とした口調で理由を聞かれ、俺は口をつぐんだ。草薙雅に似ている冬木快の前で笑う草薙を見て、俺ではきっと救えないと悟った。けれどそれ以上に俺自身がもう耐えられなかったのだ。草薙を好きだというこの気持ちを隠したまま、草薙を抱くことが。それで彼を救えたのなら、まだ俺自身救いがあったかもしれない。けれど、そうじゃないだろう。
「お前にはもう、俺なんて必要ないだろう。」
ベッドに腰掛けて草薙を見上げる。下からだと細い黒髪に邪魔されずにあの飴玉みたいな目を覗くことができて、そこには随分と情けない顔をした俺が映っていた。今のは言葉足らずだったかもしれない。補足するなら、あんな風に笑っていられる居場所があるお前にはもう、身体を重ねることしかできない俺なんて必要ないだろう。最初から薄々わかっていたことだった。こんなやり方じゃ草薙は救われない。どれだけ要望通り抱いても、満たされるのは性欲ばかりで心はちっとも満たされていなかった。俺はそれに気づいていたし、草薙自身わかっていたんだろう。現に今俺の言った言葉をきちんと理解している。その上で、消え入りそうな壊れそうな顔をしているのだ。
「そうだとしても、それは僕個人の都合です。僕がこの関係を必要としなくなったからと言って、これを解消したいというのは勝手すぎるでしょう。それに、僕はもうずっとこんなことを続けてきました。今更真っ当に生きようなんて通るんですか……」
気にしているのは身体を売ってきた過去と、俺のこと。俺なんかに縛られてくれるのか。そんなことがたまらなく嬉しかった。けれどそれなら、俺がすべきことは一つだ。俺は立ち上がって背筋を伸ばした。元々デカい身体ができるだけ大きく見えるように。そして声を低くして冷たく言い放つ。
「何を勘違いしているか知らないが、俺がお前のセフレをやめたくなったんだ。」
俺を見上げる草薙の飴玉みたいな目が、微かに揺れる。
「始めに言った通りどこの誰かもわからんやつの相手は今後もするな。」
今の草薙を縛り付けている鎖が、身体の関係を求めてきた過去と俺の存在だと言うのなら、それを絶ってやる。結局俺は、こんな方法でしか草薙を救えないから。言葉が強かったかもしれない。声が大きくなって威圧的に感じたかもしれない。今度こそ、怖がられたかもしれない。いや、あんな風に抱いておいて何を今更、それにもうどう思われようが関係ない。所詮は過去の面影を追って、初恋の思い出に引っ張られていたに過ぎないのだから……
「それだけだ……怖がらせて悪かったな……」
俺はそう言い残し、草薙の横を通りすぎた。もう二度と足を踏み入れないであろう草薙の部屋を出て玄関の扉を開けると、無機質な廊下に西日が差し込んだ。すると部屋の前で立ち尽くしていた草薙が僕は、と声を漏らした。こちらに振り返るとあの飴玉みたいな目が、日の光を吸い込んでキラキラと瞬いている。俺はそんな草薙をぼうっと眺めながら言葉を待った。
「怖いなんて、思ったことはありませんでしたよ。」
___「怖いなんて思ったことはありません。」___
それは三年前にも聞いた言葉、秋田広が草薙蓮華に救われた言葉。覚えていたと言うのか、三年も前に会った名前も知らなかった俺のことを。そんな俺と交わした何気ない言葉までも。ああ、悔しい。他の誰でもない、この俺が草薙蓮華を救ってやりたかった。俺はあの時と同じように飴玉みたいな目を細めて笑う初恋の人の顔を見ながら、そんなことを思った。
ともだちにシェアしよう!