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第16話 その手に包まれたなら
通学電車に揺られながら、俺は昨日のことを思い出していた。話に聞いていた草薙雅が、まさか蓮華の従兄弟だったとは。そればかりではない。蓮華がしてくれた話は、俺には想像もできないような卑劣なものだった。雅に兄だと名乗られた時に感じた違和感の正体は、蓮華への異常なまでの執着心と、心配性や過保護なんて言葉では片付けられない過度な独占欲。その根本にあるものは何なのだろうか。もしかしたら、俺の蓮華に対する気持ちと同じなのかもしれない。そうだとしたら、やり方があまりにも不器用過ぎるだろう。本当の兄弟のように仲の良い従兄弟だったはずなのに、このままでは悲し過ぎるのではないか。もちろん蓮華にあんなことをした雅に、同情なんてしないし、出来ないけれど。蓮華が救いを求めていることは知っていた。そして蓮華は、ようやく俺にその傷口を見せてくれた。けれど蓮華の一番深いところにある傷を、俺はまだわかっていないような気がする。まだ何も知らない中学時代に襲われたこと、せっかく仲良くなれた友達とすぐに疎遠になってしまったこと。それらを話す蓮華の表情はひどく冷静で淡々としていて、きっと俺なんかには計り知れない感情があるのだと思った。けれどそれでは、俺は蓮華を救うことなんて出来ないのではないか。
___「自慰行為をしない訳にはいきませんが、その度に雅くんの顔が浮かんでしまって……だから他の誰かで上書きしようと思ったんです。そうしたらいつの間にか、とんだビッチになってしまいました。」___
そう言って自虐的に笑った蓮華。上書きなんて理由で、見ず知らずの男に身体を差し出して、しかもそれをあろうことか、何とも思わなくなって。初めて蓮華が、そういうことをしていると知った時のことを思い出す。自分の意思でやっていると蓮華は言っていたけれど、俺には痛々しくて、見ていられなかった。それがまさかこんな理由だったとは。雅は昨日、また明日来ると言っていた。どうすれば、蓮華を雅から解き放ってやれるだろう。蓮華が俺を母さんから解き放ってくれたみたいに。考え事をしていると、あっという間に学校の最寄り駅に着いた。同じ車両に乗っていた生徒たちが、わらわらと電車を降りていく。その流れに乗ってホームへ降りようした時、後ろからスクールバッグを掴まれ、俺は足を止めた。
「え、蓮華?」
下を向いているので頭しか見えないが、この細い黒髪は蓮華で間違いない。ドアの前で立ち止まっている俺たちを、他の生徒たちが避けるように追い抜いていく。あっという間にざわついていた車両がしんと静まり返って、車内アナウンスがはっきりと耳に入る。
「ドア、閉まるぞ。」
そう声をかけると、蓮華はゆっくりと俺の鞄から手を離した。今ならまだ電車を降りることが出来る。けれど相変わらず下を向いて立ち尽くしている蓮華を一人残していくなんて、俺には出来るはずもなかった。そうこうしているうちに、電車のドアは俺たちを残したまま閉まってしまった。電車が動き出すと、蓮華がおずおずと顔を上げた。よく眠れなかったのか、目の下には隈が出来ており顔色も悪い。蓮華は俺と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
「いいんですか、学校。」
その声は力無く震えていて、蓮華を一人にしないで、蓮華のそばにいられて、本当に良かったと思った。俺を一瞬でも引き留めたことを気にしている蓮華に、俺はいつも通り笑って見せた。
「いいんだよ、今日はサボりたい気分だったからさ。」
そう言うと蓮華は少しだけ目を見開いて、そしてビー玉のような瞳を細めた。
「仕方ないから、付き合ってあげます。」
それはまるで、万華鏡のように繊細で綺麗な笑顔で、俺の好きな笑顔だった。それから俺たちはガラガラの車両であえて座らず、吊り革を握りながら窓の外を眺めた。自分たち以外は今、学校で授業を受けている。背徳感とも優越感とも言えるこの気持ちが、見慣れない景色を、より一層刺激的なものに変えてしまう。こうして学校をサボるなんて初めてで、ついそわそわと浮ついてしまう。車内アナウンスが次の停車駅を告げる。そこには確か、あれがあったはずだ。
「降りようぜ。」
「え?あ、ちょっと!」
蓮華の返事も待たず、俺は電車を降りた。蓮華は慌てた様子で俺の後を追いかけてくる。
「快くん?どこ行くんですか?」
「いいからいいから。」
着いてからのお楽しみとでも言うように、目的地を誤魔化す。すると蓮華は、不信感をはっきり顔に出しながらも、俺の後ろを素直について来ていた。本当にかわいいやつ。程なくして目的地に辿り着き、俺は足を止めた。
「ここは……」
蓮華はそう呟きながら、目の前のアミューズメント施設を見上げている。ここはカラオケやボーリングに加えて、色々なスポーツが出来る施設だ。俺は中に入り、迷わずそのスポーツも出来るチケットを二枚購入した。物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していた蓮華がそれに気づき声を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってください!僕全然運動できませんよ?!」
「知ってる知ってる。ほら、行くぞ。」
「えぇ……」
平日の朝ということもあって、施設内はガラガラだった。バトミントンも卓球もまともにラリーが続かず、テニスはそもそもボールに追いつかず、バスケはちっともシュートが決まらず、フットサルに至っては走りたくないと却下されてしまった。身体を動かせば多少は気分転換になると思ったのだが、蓮華の表情は依然として暗いままだ。空腹では元気も出ないと、昼食をとることにした。俺は持ってきていた母さんの弁当を、蓮華は施設内の小さなフードコートで、たこ焼きを買って食べた。普通のたこ焼きのようだったが、蓮華は気に入ったらしく美味しそうに平らげていた。その後はもう少し勝負になりそうなものをしようと、二人ともやったことがないゴーカートに乗った。先にコツを掴んだのは、意外にも蓮華だった。俺に勝てたのがよほど嬉しかったのか、もう一回もう一回と何度もゴーカートに付き合わされた。流石に疲れて俺たちは、ゲームコーナーに移動した。蓮華は音感が良いのか、リズムゲームが上手かった。対戦ゲームでは二人して子どものようにムキになった。貸切状態だったからあえて大きな声で話して、そして大きな声で笑った。学校をサボったことも、草薙雅のこともいつの間にか忘れていた。自動販売機で買ったカルピスを片手に、蓮華はヘナヘナとフードコートの椅子に腰を下ろした。
「はあ……絶対筋肉痛になります……」
「ははは、まあたまにはいいだろ。」
二人してぼーっとしていると、入り口の方からガヤガヤと話し声が聞こえてきた。それは大きなエナメルバッグを持った数人の男子高校生で、彼らはぞろぞろとゲームコーナーを進んでいく。その様子を見た途端、俺と蓮華二人だけの世界から、現実に引き戻されてしまったような気分になった。ずっと室内に居たから気が付かなかったが、もうとっくに部活動が終わっている時間のようだ。
「帰りましょうか……」
時間を見ていた俺に気がついたのか、蓮華がゆっくりと立ち上がりながらそう言った。施設を出ると、辺りは薄暗くなっていた。黄昏時のせいだろうか、蓮華の表情がよく見えない。先ほどまではしゃいでいたのが嘘のように、駅までの道をただ黙って歩いた。帰りの電車内には、会社帰りのサラリーマンや学校帰りの生徒がたくさん乗っていた。たまたま空いていた席に、蓮華と並んで座る。車両のシートは柔らかく、ガタゴトと揺れる電車は心地よかった。
「僕たちに出来る現実逃避って、これくらいですよね……」
蓮華が、俺だけに聞こえるような声でそう呟いた。本来ならあの時、電車を降りて学校に登校し、授業を受けていただろう。そしてまた来ると言った雅と、放課後再び顔を合わせていたはずだ。それが、蓮華が逃げ出した現実。だがそれは、問題を先送りにしているに過ぎない。蓮華の言う通り、現実逃避しているに過ぎないのだ。きっと雅は、蓮華と会えるまで何度も学校に来るだろう。雅がアメリカに戻るまで、ずっと学校をサボるわけにもいかない。蓮華はいつか必ず、草薙雅と向き合わなくてはならない。そんな時、俺は蓮華を支えてやれるだろうか。蓮華を、救ってやれるのだろうか。座席に置かれた蓮華の手が、震えている気がした。今、その手を包んでやれたなら、その震えを止めてやることくらいは、出来たかもしれないのに。帰宅ラッシュの電車内で、俺たちはただ黙って揺られ続けた。
蓮華のマンションの最寄り駅に着いた時には、日はすっかり沈んで、辺りはしんと静まり返っていた。蓮華は電車を降りた時からずっと俯いたままで、とぼとぼと俺の後ろを歩いている。俺は振り返って、足を止めた。
「蓮華。」
俺の声に、蓮華がゆっくりと顔を上げる。
「蓮華は、どうしたい。」
「どう、とは……」
「雅のこと、どうしたいんだ。」
ずっと考えていた。蓮華が救われるには、どうしたらいいか。けれど俺は、蓮華の一番深いところにある傷を、わかっていないから。雅を遠ざけたいのか、罰したいのか、もっと違う何かなのか。
「僕は……」
蓮華はゆっくりと時間をかけて、その重たい口を開いた。
「僕は、雅くんに……」
「うん。」
俺はただ、蓮華の言葉を待った。
「雅くんに、会いたい……」
それは、意外な言葉だった。
「優しくて、かっこよくて……大好きだった雅くんに、会いたいです……!」
けれどそれは、少し考えればわかることだ。初めて出来た遊び相手、本当の兄のような存在。そんな人を、蓮華は理由もわからないまま失ったのだ。大好きだった人が、突然恐怖の対象に変わった。それが、蓮華の一番深いところにある傷の正体。それがわかれば、俺のやるべきことは一つだ。
「じゃあ、会いに行こう。」
「でも……」
「会って、話して、伝えるんだ。蓮華の考えていること、思っていること、全部。たとえ届かなくても、何度でも。俺も手伝う。絶対、お前を一人にはしないよ。」
「快くん……」
蓮華が、本当の意味で救われるためには、きっと草薙雅が必要なんだ。蓮華のビー玉のような瞳がキラリと潤んだ。
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