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第18話 夢から覚めた後は

「おい、草薙雅。お前は、草薙蓮華の笑顔を覚えているか。」 胸ぐらを掴まれた衝撃や憤りよりも、彼のその言葉に対する動揺の方がずっと大きかった。蓮の笑顔を覚えているか?質問の意味が分からない。覚えているに決まっている。蓮はいつだって、ボクに笑顔を向けてくれるのだから。それなのに…… 「蓮華はどんな風に笑うんだ、言ってみろ!」 おかしい……蓮の笑顔が、思い出せない…… 「……蓮は、どんな風に……」 あれほど見てきた蓮の笑顔、大好きな蓮の笑顔。それを忘れるはずなんてないのに、思い出そうとすると黒いモヤのようなものが邪魔をする。 「お前が蓮華に何をしたかなんて知らない。でも蓮華はずっと救いを求めてもがいていた。そして今やっと、救われようとしているんだ。お前も、いい加減に目を覚ませ。」 胸ぐらから手が離れ、首が開放されたはずなのに、動揺からか上手く息が出来ない。秋田広の言葉が理解できない。どうしてボクは、蓮の笑顔を忘れてしまったんだ。昨日会った時だって、蓮は笑顔を向けてくれていたはずなのに。笑顔……?本当に……? ボクは蓮を愛している。蓮も、ボクを愛してくれている。ボクらは愛し合っている。それを疑ったことなんて今までなかった。アメリカの高校に進学を決めた時も、蓮と愛し合っていると自信があったからこそ決断できた。実際に蓮と全く会えなくなっても、その自信は変わらなかった。けれど今、ボクは初めてそれを疑っている。自分自身を疑っている。相変わらず蓮の笑顔を隠している黒いモヤ。それはどんどんと大きくなっていく。それは笑顔だけではなく、蓮との思い出までも覆い隠してしまっているようだった。特に中学卒業前の半年ほどの記憶が曖昧になっている。もしかしたらボクは、今ようやく自覚したのかもしれない。ボクが受け入れたくない現実を、都合良く覆い隠してくれていたもの(モヤ)の存在を。それは見たくない現実と一緒に、大好きな蓮の笑顔も隠してしまった。そしてそのモヤが今、晴れようとしているのか。 今日もボクは蓮の通う高校の校門前で、蓮を待っていた。秋田広の言葉を全て信じるのなら、ボクは蓮に避けられているのかもしれない。たった一年同じクラスだったというだけの人物の言葉など、普段のボクなら聞くことさえしない。けれど、ボクは秋田広の言葉で蓮の笑顔を忘れてしまっていることに気がついた。そうなってしまった以上、彼の言葉は容易に無視できない。実際に蓮に会って、蓮の笑顔を見て、この疑いを晴らすしかないのだ。一刻も早く全て杞憂であったと安心したい。これほど不安に思うのは、蓮の両親の海外行きが決まって、蓮が遠くへ行ってしまうと思った時以来だ。そわそわと落ち着かないまましばらく校舎の方へ目を凝らしていると、ようやく蓮が校舎から出てきた。昨日は見られなかった蓮の姿に、ひとまず安心した。やはりボクを避けていると言うのは秋田広の妄言に過ぎなかったのだ。 「蓮。」 思わず気持ちがはやって、敷地に入らないギリギリのところから蓮の名前を呼ぶ。ようやく蓮の笑顔を見ることが出来る。蓮がボクに笑いかけてくれたなら、ボクのこんな不安はすぐにでも消し飛んでしまうはずだ。それなのに…… 「なぜ、そんな顔をしているんだ……?」 「え……」 蓮はボクに気がつくと、顔を真っ青にして、目を見開き、唇を小さく震えさせていた。笑顔とは似ても似つかない、そこには恐怖心のようなものが滲んでいる。どうして、そんな顔を…… 「やっと、見てくれましたね……僕のこと……」 蓮はそう言うと、笑顔を浮かべるどころか涙ぐんでしまった。蓮の言っている言葉の意味が理解できずに、困惑してしまう。 「何を言っているんだい?ボクはずっと、蓮だけを見ていたよ。」 「ふざけるな……」 「……何?」 いつからそこにいたのか、蓮の隣にはクラスメイトだと言っていたあの男が立っていた。確か名前は冬木快、ボクと蓮の間に割り込んできた目障りなやつだ。 「ちゃんと見てたなら、蓮華がなんでこんな顔してるかわかるはずだろ。あんたは蓮華の何も見えてはいなかった。見ていなかったんだよ!」 「そんなわけないだろう!」 ついムキになって声を上げてしまった。反射的に否定したけれど、確か昨日秋田広にも同じようなことを言われた気がする。ボクが、蓮を見ていなかった?そんなわけないと思いつつ、ボク自身も心のどこかで、そうかもしれないと思っている。 「では僕が、雅くんの前で笑えなくなったのは、いつからだと思いますか?」 「いつ、から……?」 皆目見当がつかなくて、そんなか細い声を漏らしてしまった。昨日はおろか、ボクはもうずっと蓮の笑顔を見ていなかったと言うのか……? 「僕が中学二年生の時……雅くんに行為を強要された時からです。」 「行為を強要?」 その時のことなら覚えているが、行為を強要した覚えはない。けれど、曖昧になっている蓮との思い出の記憶の時期と被っていることは確かだ。 「あれは、(けが)れてしまった蓮を綺麗にしていたんだよ。」 「(けが)れてしまった?」 ボクの言葉を、冬木快が怪訝そうに聞き返した。 「蓮は誰にも、何にも染まらず、綺麗でいるべきなんだ。蓮だって小さい時から、ボクを求めてくれたじゃないか。蓮にはボクだけがいればいい、そうだろう?」 ボクにも、蓮だけがいればいい。けれど蓮は、ボクの言葉を聞くと下を向いてしまった。 「……僕に友達が出来たから、友達が出来ることが、(けが)れることだと?」 蓮のその声は、初めて聞く声色をしていた。 「そんなわけないでしょう!」 そう叫びながら顔を上げた蓮は、目に涙を浮かべ、けれど真っ直ぐにボクの目を見ていた。 「僕はその時から、雅くんの前はおろか、他の誰の前でも、笑うことができなくなりました。けれど快くんに出会って、毎日がとても楽しくなりました。柊くんたちとも仲良くなれて、学校に行くのが、教室に行くのが楽しみになりました。心からまた笑えるようになったんです。いつの間にか、救われていたんです。それでもし、僕が(けが)れたと言うのなら、僕は綺麗じゃなくたっていい。」 キリッとした凛々しい目つき。芯が通った声。強い意志を感じる眼差し。目の前の彼はもう、ボクの知る弟ではなくなっていた。人に、ものに染まって、それでも、蓮はとても綺麗だった。 「そうか……ボクは、蓮に酷いことをしたんだね。」 ようやく、全てボクの勝手な思い込みだったのだと分かった。受け入れたくない現実を、都合良く覆い隠して、塗り替えていたに過ぎなかったのだと気がついた。 「今まで本当にごめん。」 それでも、ボクのこの気持ちだけは、思い込みなんかじゃない。 「愛していたよ、蓮。」 振り返り際に見た蓮の目は、涙で潤みキラキラと瞬いていた。それを見て、ボクはようやく思い出した。蓮の笑顔はその水晶のような瞳を細め、繊細で純粋で、この世で一番綺麗なのだと。叶うことならもう一度、その笑顔を見たかった。

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