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第19話 愛してました。愛してます。
「愛していたよ、蓮。」
そう言った雅は、上品で美しい、雅な微笑みを浮かべていた。それを見た蓮華の表情を見て、きっとそれが草薙雅の本当の姿なのだと思った。優しくてかっこよくて、本当の兄のように慕っていた人。もう一度会いたいと願った、大好きだった人。やっと会えたその人はもう、背中を向けてしまっている。これは、会えたと言っていいのだろうか。蓮華はこれで、救われたのだろうか。
「……僕も、僕も、愛してました……ッ」
蓮華のその小さな悲鳴は、もう雅の耳には届かないのだろう。蓮華自身もわかっているのだ。その言葉を、今の雅に伝えるべきでないことは。蓮華はその場で泣き続けた。声を押し殺して泣く蓮華を、俺はただ黙って見ていることしかできなかった。俺にはこの涙を拭うことは出来ない。出来ることなら、そのビー玉のような瞳から溢れる涙を指で掬って、その綺麗な泣き顔を誰にも見られないように自分の胸に閉じ込めて、蓮華が落ち着くまでずっと抱きしめてやりたい。けれど、きっと今それが出来るのは、草薙雅だけなのだ。俺はせめてこのくらいはと、まだらに通り過ぎる他の生徒たちの視線から、蓮華を隠すように隣に立ち続けた。しばらくすると鼻を啜る音が小さくなって、蓮華がボソボソと話し始めた。
「僕はきっと、無理やりされたことよりも、友達と遠ざけられてしまったことよりも、雅くんにちゃんと見てもらえなかったことが、一番辛かったんだと思います。どれだけ泣き叫んでも、どれだけやめて欲しいと懇願しても、雅くんには届かなくて……それが、一番悲しかった。」
蓮華のそれは、独り言のようにも聞こえた。現実逃避をして、見ないふりをしていた傷口を、その根源をようやく理解して。それを自分自身に説明しているように見えた。
「そうか。」
「でも、雅くんのこと、一度だって嫌いにはなれなかったんですよね。」
蓮華はそう言うと、力無く笑った。なんとなく、蓮華の言っていることがわかる気がした。一度でも心から愛した人を、嫌いになるのは難しい。たとえどんなことをされようと、互いに笑い合った日々の記憶が邪魔をして、嫌いになんて簡単にはなれないのだ。兄だからとか、母親だからとかではない。いっそ嫌いになれたら、恨んでしまえたら、どんなに楽だろうと思ったこともある。けれどそんなことはしなくていい。無理に嫌いになろうとしても、きっと心が疲弊してしまうから。
「また、昔みたいに戻れるでしょうか……」
「戻れるよ、蓮華が望むなら、きっと。」
蓮華の呟きに、俺は咄嗟に答えていた。根拠なんてない。けれど、そうなったらいいと思った。俺は昔の二人を知らないけれど、蓮華と雅が笑い合っているところを、いつか見ることができたら……俺の根拠のない言葉に、蓮華は小さく微笑んでくれた。
「そうですね。いつか……」
それから俺たちはようやく帰路に着いた。突然現れた雅に、ようやく明かされた蓮華の過去。二人で学校をサボって、蓮華の願いを知った。
そして今日やっと、雅と話すことが出来た。たった三日が、それはそれは長く感じた。これで全てが解決したわけではないだろう。けれど、蓮華はいつの間にか救われていたと言った。その言葉に嘘はないと信じているから。俺はようやく、蓮華に伝えることが出来る。橋の前の赤信号で足が止まった時、俺は口を開いた。
「それとな、蓮華。」
「なんですか?」
「蓮華は、どんな蓮華でも綺麗だよ。」
俺がそう言うと、今まで前を向いていた蓮華が、バッと俺の顔を見上げた。その顔は真っ赤に染まっていて、驚きと恥じらいが見て取れる。
「は、はあ?な、何言っているんですか!突然!」
珍しく声を荒げているのに、そこには全く怒気がなくて。本当に、かわいいやつ。けれどそれを言うと、ますます機嫌を損ねてしまいそうなので、大人しく話を続けることにした。
「蓮華はさ、俺にとって万華鏡なんだ。」
万華鏡。小さな穴を覗けばいつだってキラキラした世界に連れて行ってくれて、窮屈な現実から解き放ってくれる。俺の、なくてはならないもの。
「万華鏡にはいろんな色の綺麗なものを入れるだろ?それが全部、筒の中で混ざり合って、綺麗な模様になる。俺と出会ったことで変わった蓮華も、柊たちや秋田先輩と出会ったことで変わった蓮華も、全部混ざり合って、綺麗な模様になってるんだよ。」
俺の言葉を聞く蓮華は、あのビー玉のような瞳をキラキラと輝かせているように見えた。
「俺は、蓮華に一番最初に救いを求められる存在になりたい。蓮華が辛い時、苦しい時、救いを求めている時、俺だけじゃ何も出来ないかもしれないけど……それでも、蓮華のそばにいたいんだ。」
その瞳には、今何が映っているのだろう。視線の先には、誰がいるのだろう。
「俺を求めてくれるか?蓮華。」
あわよくば、俺がいたらいいと思う。蓮華は、俺の目を見て俺の言葉を真摯に聞いてくれていた。そして俯くと静かに考え込んでいるようだった。蓮華の表情が見えなくて、蓮華が何を考えているのかわからない。
「……快くんは、それに応えてくれるんですか。」
「もちろん。」
しばらく押し黙っていた蓮華の問いかけに、俺は即答した。考えるまでもないことだった。蓮華が俺を求めてくれれば、俺はそれに精一杯応える。だからどうか……そんな祈りにも似た気持ちで蓮華を見つめ続けた。蓮華の細い黒髪の隙間から、ビー玉のような瞳がチラチラと覗いて、その度にドキドキする。ようやく顔を上げた蓮華は、口角を上げるとニヤリとイタズラな笑顔を浮かべた。普段とは違うその笑顔に、焦らされていたのだと気づいた。
「返せと言われても、お断りですよ。」
腹立たしいやら、愛おしいやら、複雑な気持ちだけれど。これで、蓮華のそばにいられる。俺の口角もまた、いつも間にか上がっていた。
「望むところだよ。」
目の前の信号はいつの間にか青に変わっていたようで、気がついた時にはチカチカと点滅していた。まさか渡り損ねるなんてと、顔を見合わせて二人で笑った。
翌日俺は、胸を弾ませながら教室に向かった。蓮華と思いが通じ合って、初めての朝だ。浮かれない方がどうかしている。蓮華の登校を今かいまかと待っていると、前の席の千葉が先に教室に入ってきた。
「冬木、おはよう。」
「おお!おはよう、千葉!」
「……なんかテンション高くね?」
「え、そうか?」
危ない危ない。こんな調子じゃ、蓮華と顔を合わせた瞬間勘付かれる。やはり男同士なわけだし、俺たちが付き合っていることは隠すべきだろう。あれ?そういえば、蓮華に付き合おうって言ったっけ?そもそも、好きだとは言っていない気がする……血の気がすうっと引いていくのがわかった。
「快くん?難しい顔して、どうかしましたか?」
「へ?!いや、別に?!」
考え事に夢中になっていると、いつの間にか蓮華が俺の隣の席に座っていた。チラリと隣を盗み見たが、蓮華は普段と全く変わらない様子だった。浮かれていたのは自分だけだったのだろうか。その前に、付き合っていると思っていたのは俺だけなのでは?昨日の会話を隅々まで思い出してみても、やはりお互い好きなどのセリフは言っていないし、付き合おうなんて話も出ていない。確かに昨日言ったことも、蓮華に伝えたかった大事な話ではある。けれどあれだけでは、告白に聞こえない可能性もあるのではないか。俺は一世一代の告白を、不発に終わらせてしまったのだろうか。昨日の会話で蓮華に俺の真意が伝わったのか、蓮華は俺と付き合っているつもりでいてくれているのか。気になっても、いざ聞く勇気はなくて。結局昼休みも、いつも通り変わらない時間を過ごしてしまった。二人きりになっても、蓮華は今までと全く変わらなくて、やはり伝わっていなかったのかと肩を落としそうになる。
「帰らないんですか?」
「え?あ、いや、帰る。」
あっという間にホームルームも終わっており、教室内はまだらになっていた。俺は急いで筆箱とノートを鞄に詰め込んだ。一瞬だけ鞄の中にある万華鏡に指が触れたが、音はしなかった。蓮華にぎこちなさを感じさせないように、努めていつも通り接する。俺の真意は伝わらなかったが、今蓮華とこうして一緒にいられるだけでも幸せだ。また改めて告白し直せばいい。そう思っていたのに、今日に限って赤信号に引っかかることもなく、あっという間に駅まで着いてしまった。
「あー!レン先輩!」
蓮華の家で晩御飯を食べてからにしようと、駅に足を向けた途端、蓮華を呼ぶ高く可愛らしい声が響いた。俺はこの声に聞き覚えがある。
「進藤くん、お久しぶりですね。」
「うん!って、あんたもいたの……」
「いたら悪いか。」
進藤凛太朗。蓮華の中学時代の後輩で、蓮華に随分と懐いているようだが、なぜか俺には敵意丸出しで非常に可愛くないやつだ。根に持って容赦しない俺も、大人気ないとは思うのだが。
「まあまあ、進藤くん。彼は僕の大事な人なので、あまりいじめないであげてください。」
蓮華が突然、そんなことを言った。驚きのあまり、俺も進藤も蓮華の顔を凝視してしまっている。言った本人は、なんでもないような顔をいているのだから本当にタチが悪い。大事な人って、どういう意味だ?
「レン先輩、なんか良いことあった?」
「そうですね。それより、せっかくですし今から3人でタピりませんか?」
「あのレン先輩が、若者言葉使ってる……」
進藤は先ほどの言葉より、蓮華のタピるに気を取られたらしく一人でわなわなと震えている。
「僕も一応若者なんですが……」
「あんたが吹き込んだの?!レン先輩に変な言葉教えないでよ!」
「俺じゃねえよ!」
進藤と言い合いをしつつ、俺たちは大通のタピオカ屋にたどり着いた。進藤がメニュー表に夢中になっている隙に、蓮華に耳打ちする。
「さっきの、どういう意味?」
「さっきのとは?」
「ほら、進藤に俺のこと説明してただろ。大事な、とかなんとか……」
自分で言っていて恥ずかしくなってきた。けれど、蓮華の言う大事な人というのが俺と同じ特別な意味だとしたら、昨日の俺の告白は伝わっているのではないか?
「はて、なんのことでしょう。」
俺が必死なことを知ってか知らずか、蓮華はそう言って惚けて見せた。口角は少しだけ上がっている。
「この小悪魔め……」
「ふふふ。」
「なんだよ。」
「いえ、わざわざ小悪魔と表現するのがおかしくて……僕のこと相当可愛いと思っているんですね。」
こいつ……ついこの間までかわいいって言われて顔真っ赤にしてたくせに。
「そういうとこだぞ。」
ニヤニヤと笑っている蓮華を、少しだけ小突いてやった。
「やっぱりこの新作は試さなきゃなあ。レン先輩は何にする?」
「僕は定番のミルクティーで。」
「相変わらず好きだね!……あんたは?」
「……俺もこの新作の、タピオカ抜きで。」
「真似しないでよね。って、タピオカ抜き?!」
「なんだよ。」
「快くん、それは邪道です。」
「なんでだよ!」
そんなこんなでわちゃわちゃと3人でタピオカを飲んだ。結局蓮華が俺との関係をどう思っているかは、わからずじまいだ。駅で渋々家路に着く進藤を見送っていると、蓮華が口を開いた。
「進藤くんは僕と雅くんのこと、薄々気がついていたんだと思います。快くんに必要以上に冷たく接するのは、僕を心配してのことだと思うので、悪く思わないであげてくださいね。」
そういえば進藤と初めて会った時、草薙雅に似ていると言われた。どこが似ているのか皆目見当もつかないが、雅が蓮華に何をしていたか知っていたのなら、その雅に似ているという俺を、蓮華に近づけたくないという進藤の気持ちは理解出来る。
「わかってるよ。けど蓮華も、進藤と一緒になって俺をおちょくってなかったっけ?」
「快くんを揶揄うのは面白いですから。」
「お前なぁ……」
「ふふふ。」
蓮華がまた、俺の顔を見て笑う。ビー玉のような瞳が夕日を吸い込んで、キラキラと輝いている。繊細で、綺麗で、何より楽しそうに笑う蓮華に目を奪われたまま、俺は動けずにいた。
「快くん?どうしました?」
「好きだなと思って。」
ポロリと、自然と口から溢れていた。その瞬間、俺はしまったと頭を抱えそうになった。告白のムードも、会話の順序も無い。ただ思ったことをそのまま口に出しただけの、なんの変哲もない告白。こんなつもりじゃなかった。伝えるならちゃんと、それなりのものを。なのに、蓮華は……
「僕も、好きですよ。」
そう言って、俺の大好きな笑顔で微笑んでくれたのだった。
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