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片影3

「やめてくださいっ……嫌です……!」 「とか言いつつこういうことして欲しいんでしょ?」 明らかに体格が違って、いくらもがいても抜け出せそうになかった。逆にさらに壁に押し付けられてしまう。 そして男の手は胸から下半身へと移る。 「やっ、あっ……ん」 「気持ちいい?」 服の上から擦られて、嫌でも快感を拾ってしまう。 唇を噛んで声を漏らすまいとしていると、カチャカチャという音が聞こえてきて震えが走る。それだけは嫌だと、どうにか逃げようとしても、もう片方の手でまた胸をいじられて力が抜けてしまう。 やだ。気持ち悪い。汚い。 また、また僕は、こうして、汚されてしまう。せっかく悪夢は終わったのに、今度は全く知らない人に、こうやって。 嫌だ。嫌だ。やめて。汚い。助けて。 颯太、助けて。 ぎゅっと目を瞑って、唇を噛んで。 ズボンを寛げられ、男の手が下着に触れる。指先がお尻側から内部に侵入してきて、もう終わりだと、思った。 だが、手が、止まる。 しばらく固まっていても何も起こらなくて、恐る恐る目を開ける。そしてゆっくり振り返ると、男の肩に手がかかっている。 ーー颯太だ。 真っ先にそう思った。 なんだかんだいつも助けてくれるんだ。こういう場面にちゃんと現れてくれる。 安堵してその人物の顔を見て、驚愕する。 視界に入ったのは、黒。 黒い瞳に、黒い髪。 吸い込まれてしまいそうな、そのまま存在を消されそうな、漆黒をたたえた人。 「ど……うして……」 掠れた声を出す僕に一瞥もくれず、見る者を凍りつかせる視線を男へ向けた。 「ひっ……」 男は引きつった声を上げると一目散に逃げていく。 その後ろ姿を追って視線を戻すと、彼は僕をじっと見つめていた。 「……っ」 唇が震えた。植えつけられた恐怖はなかなか消えない。 そもそも手を出してこない証拠は何もないのだ。僕らの関係が解消されたかどうかは、はっきり言葉にされていない。勝手な勘違いだった場合もある。 そしてその場合、今は好都合なわけで。 彼の手が伸びてきて、思わず目を瞑った。 だけど素肌には何も触れない。目を開けると、彼は黙って僕の乱れた服を元に戻していた。 行動の意図が掴めなくて僕が固まっているうちに服は元どおりになり、それから彼は僕の腕を掴む。この間、喋らないどころか僕を見ようともしなかった。 彼は驚く僕の腕を引いて歩き出した。掴み方は柔らかく、痛みはない。 呆けたようについていった僕は、いつのまにやら明るい通りに辿り着いていた。そこまで来ると彼は僕の腕を話して、やっぱり目線を合わせないで立ち去ろうとする。 「……九条会長っ」 不意に出た言葉に僕自身が一番驚く。 だって今、彼の名前を呼んだ。僕はあの人と出会ってから、一度だって名前を呼んだことはないのに。 それは微かな抵抗と恐怖の象徴だった。 それを僕自ら、壊した。 顔を上げると、彼の後ろ姿は大分小さくなっていた。どうやら僕の声など気にも留めなかったらしい。 彼の姿が見えなくなっても、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。

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