152 / 961

別離こそ6

男について歩いて、久方ぶりのドアの前に立つ。父の仕事部屋だ。 ノックをして、挨拶をし、中に入る。 父はちょうどパソコンを閉じるところだった。それでやり取りを見ていたのだろう。父は俺に気づいて椅子に深く座り直す。 その横には母が控えていた。 母はまるで父の影のような人で、一切父のやることに口を出さない。父に命令されたことに、ただ従うだけだ。 実の母のくせに俺は殆ど会話をしたことがない。 「あれが元恋人に対する言葉か」 「もう会わないので、何を言っても変わりませんね」 そう答えると父は可笑しそうにくつくつと笑った。 その下卑た表情に言いようのない怒りが込み上げる。だがこれも亜樹のためと思えば耐えられる。 「まあ、お前の決意の程は見れたな」 そう言って机のコーヒーを一口含む。 それからスッと俺を瞳で射った。 空気が変わる。 「さて、これからのお前のことだ。まず高校はもう行かなくていい。家で勉学は済ませる。他にやることは逃げ出す前と変わらん。ただし滞っていた分、量が多いと思え」 「はい」 「それから時々わたしと一緒に会社に顔を出してもらう。今から少しずつでも知っておけ」 「はい」 「以上だ」 「ありがとうございます」 仕事モードになった父は淡々と言葉を述べる。 この人は残酷で使えない者に容赦はないが、それでも腕はある。仕事は早く、的確で、冷静。九条のトップに立つだけのことはあるということだ。 俺もいずれはこうなる。 俺は一礼して父の仕事部屋を出た。男は俺のためにドアを開けたが、ついてこない。構わず歩き出した。自分の部屋の場所くらい流石に覚えている。 俺の部屋は二階の角部屋。階段にほど近い場所だ。 部屋の前に辿り着く。 これまた深い茶色のドア。取っ手にゆっくり手をかけ、下げる。そのまま腕を引いて、ドアを開けた。 久しぶりの自室。何一つ、変わっていなかった。それこそあの日から時が止まったかのように。 机もベッドも書棚も、そのまま。中に入ってクローゼットを開けると、その中だって同じだ。汚れも埃もないから、わざわざ毎日掃除していたらしい。ご苦労なことだ。 乱暴に戸を閉める。 電気もつけずベッドに寝転んだ。天井を向いて、腕で目を塞ぐ。 戻ってきてしまった。 きちんと理解する自分と、信じたくない自分が、同居している。だが柔らかく深いベッドの感触は数年前と同じ。もうやるしかないのだ。 ふと尻のあたりに違和感を覚えて、手を差し入れる。 紙、いや写真だ。今朝の盗撮写真。白い部屋を出る時、咄嗟にズボンの隙間に入れたのだった。 そこには大好きな人がいる。そっと顔のあたりを撫でる。 ……もう会えないんだ。亜樹とは。 先程、自分から、拒絶した。 突然バケツの底が抜けたように、亜樹との時間が頭を流れる。 初めて会った時の呆けた顔。額をくっつけてしまう天然なところ。次に会った時の表情や、毎夜会って話した時の声。一人は嫌だと泣き崩れる様子。両想いになってデートしたり、クラスとの対立で頑張ってくれたり…… 「奇跡だと思ったんだ、亜樹……」 そう、奇跡。まさに、そうだった。 必死に逃げていた時、急に窓が開いた。まるで、俺を呼び寄せるように。 そこから天使が落ちてきた。 何もかもが神秘的で、運命のようで。それくらい俺にとっては大きな出来事だったんだ。 ただやはり、輝く時間ってのは、光のように早く過ぎ去るみたいだ。俺の人生の中で一番楽しく、一番密度の高かった時間。 「現実逃避は終わり、か……」 全てから逃げ出したあの日。久志さんに拾われたあの日。真実を知ったあの日。奇跡に出会った、あの日。 数年の夢は終わって、やっとここに帰ってきた。 亜樹の写真にキスを落とす。それから机の引き出しを開け、奥のほうにしまった。

ともだちにシェアしよう!