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別離こそ6
男について歩いて、久方ぶりのドアの前に立つ。父の仕事部屋だ。
ノックをして、挨拶をし、中に入る。
父はちょうどパソコンを閉じるところだった。それでやり取りを見ていたのだろう。父は俺に気づいて椅子に深く座り直す。
その横には母が控えていた。
母はまるで父の影のような人で、一切父のやることに口を出さない。父に命令されたことに、ただ従うだけだ。
実の母のくせに俺は殆ど会話をしたことがない。
「あれが元恋人に対する言葉か」
「もう会わないので、何を言っても変わりませんね」
そう答えると父は可笑しそうにくつくつと笑った。
その下卑た表情に言いようのない怒りが込み上げる。だがこれも亜樹のためと思えば耐えられる。
「まあ、お前の決意の程は見れたな」
そう言って机のコーヒーを一口含む。
それからスッと俺を瞳で射った。
空気が変わる。
「さて、これからのお前のことだ。まず高校はもう行かなくていい。家で勉学は済ませる。他にやることは逃げ出す前と変わらん。ただし滞っていた分、量が多いと思え」
「はい」
「それから時々わたしと一緒に会社に顔を出してもらう。今から少しずつでも知っておけ」
「はい」
「以上だ」
「ありがとうございます」
仕事モードになった父は淡々と言葉を述べる。
この人は残酷で使えない者に容赦はないが、それでも腕はある。仕事は早く、的確で、冷静。九条のトップに立つだけのことはあるということだ。
俺もいずれはこうなる。
俺は一礼して父の仕事部屋を出た。男は俺のためにドアを開けたが、ついてこない。構わず歩き出した。自分の部屋の場所くらい流石に覚えている。
俺の部屋は二階の角部屋。階段にほど近い場所だ。
部屋の前に辿り着く。
これまた深い茶色のドア。取っ手にゆっくり手をかけ、下げる。そのまま腕を引いて、ドアを開けた。
久しぶりの自室。何一つ、変わっていなかった。それこそあの日から時が止まったかのように。
机もベッドも書棚も、そのまま。中に入ってクローゼットを開けると、その中だって同じだ。汚れも埃もないから、わざわざ毎日掃除していたらしい。ご苦労なことだ。
乱暴に戸を閉める。
電気もつけずベッドに寝転んだ。天井を向いて、腕で目を塞ぐ。
戻ってきてしまった。
きちんと理解する自分と、信じたくない自分が、同居している。だが柔らかく深いベッドの感触は数年前と同じ。もうやるしかないのだ。
ふと尻のあたりに違和感を覚えて、手を差し入れる。
紙、いや写真だ。今朝の盗撮写真。白い部屋を出る時、咄嗟にズボンの隙間に入れたのだった。
そこには大好きな人がいる。そっと顔のあたりを撫でる。
……もう会えないんだ。亜樹とは。
先程、自分から、拒絶した。
突然バケツの底が抜けたように、亜樹との時間が頭を流れる。
初めて会った時の呆けた顔。額をくっつけてしまう天然なところ。次に会った時の表情や、毎夜会って話した時の声。一人は嫌だと泣き崩れる様子。両想いになってデートしたり、クラスとの対立で頑張ってくれたり……
「奇跡だと思ったんだ、亜樹……」
そう、奇跡。まさに、そうだった。
必死に逃げていた時、急に窓が開いた。まるで、俺を呼び寄せるように。
そこから天使が落ちてきた。
何もかもが神秘的で、運命のようで。それくらい俺にとっては大きな出来事だったんだ。
ただやはり、輝く時間ってのは、光のように早く過ぎ去るみたいだ。俺の人生の中で一番楽しく、一番密度の高かった時間。
「現実逃避は終わり、か……」
全てから逃げ出したあの日。久志さんに拾われたあの日。真実を知ったあの日。奇跡に出会った、あの日。
数年の夢は終わって、やっとここに帰ってきた。
亜樹の写真にキスを落とす。それから机の引き出しを開け、奥のほうにしまった。
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