165 / 961

傷つくほどに12

「久志さん」 「おう、颯太。遅かったな」 制服姿の颯太がリビングに入って来る。返事をしてすぐにやけに険しい顔をしていることがわかった。 テレビを止める。 颯太はリュックを床に落とし、まっすぐおれに向かってきた。 「どうし……」 「九条久志」 そしておれの言葉を遮って、呼ぶ。 懐かしい本名を。 「今まで一人暮らしだったのに、急に学生を養えるのかってずっと心配してた。だから悪いけど、通帳見たんだ」 そう言われて通帳をしまう場所を思い出す。 颯太が学費や生活費を気にしていることはわかっていたから、見つからないようにしていたはずだ。 だが時間さえあれば見つかってもおかしくないか。 「そしたら毎月大金が振り込まれていた。そう思って見れば、顔もどことなく似ている。ぬかったね。戸籍そのままだったよ」 「消されてなかったのか。意外だな」 「ふざけないで」 本心ではあったが、普段のせいでふざけたように聞こえてしまったのだろう。颯太がぴしゃりと言い放った。 おれを睨む瞳は怒りや敵意に満ちている。 それは仕方ないことだ。だが辛いものがある。 なんだかんだで、大切な存在に、とっくになっているのだから。 「あんた、九条の回し者だったんだ……」 地を這うような低い声。普段の穏やかな様子からは想像もつかない。 「そうやってずっと、俺を騙してたんだ!」 裏切られた憎しみ、怒り、哀しみ。それら全てが一つに固まって、叫びとなる。大声など出さない颯太はそれだけで大きく息を吐く。 「落ち着け、颯太……」 「落ち着いていられない!」 立ち上がって颯太の方に手を伸ばすが、思い切り振り払われる。それでも無理やり肩を掴んだ。 「落ち着け! 事情を話すから、聞け」 視線を合わせ、一言一言ゆっくり言うと、颯太は馬鹿ではないからーー寧ろ優秀すぎるがーー動きを止める。 流石にソファへの誘導には従わない。しょうがないので立って話すことにする。 「まずおれが九条の人間だってことも、金貰ってたことも事実だ。だが颯太を連れ帰ったのは本当に偶然だ」 颯太は何か言いたげにおれを見るが、結局は睨むにとどまる。 「昔の自分に重なって見えたんだよ。おれだって九条から逃げたんだから」 「……どうして」 「自由な生活ってのに憧れたわけ。幸いおれには弟がいたし、そっちのが優秀だったからこうやって生きてこれた。というか本来なら、九条が逃げたやつに構うはずはないんだよな……」 颯太は未だにおれを睨みつけているが、その目には冷静さが戻ってきている。相手の言葉から読み取れることをひたすら吸収しようとしていた。 「でもお前は違った。出来が良すぎたんだ。だから九条の奴らがおれのとこに来て、生活費や学費のことを提案してきた」 「それっていつのこと」 「お前が中三になったばかりの時」 「……ずっと隠してたんだ」 「お前の生活を壊したくなかった」 我ながら薄っぺらい言葉だ。しかし本心でもある。 颯太はおれの言葉を聞いてグッとおし黙る。 隠し事への怒りと引き換えに得た安楽。おれの選択は颯太を思ってのことだとわかるから、何も言えない。だがすんなり割り切れるわけでもない。 「それにあいつら、必ずしもお前を連れ戻す気はないんだとよ」 颯太の瞳が丸くなる。しかしそれは一瞬で、すぐに険しい表情になる。 颯太の中で何かが、切れたように見えた。 「たとえ九条が連れ戻しに来ても、俺は何度だって逃げ出してやる」 「お前それがどういうことかわかってるのか」 「わかってる。久志さんだってそうだろ。大事な人なんか作らず、一人で生きていく」 颯太の顔は決意で固まっていた。それも悲しい決意に。 その瞳は出会った頃以上に明るい色が消え、残るは冷たさだけだ。それこそおれさえも、もうこいつの中では何者でもない。 おれにはもう大事な人ができていて、颯太もきっとそうだった。 でも、今は、違う。 「想像以上に辛いぞ」 「構わない」 「おい、どこ行く」 静かに、かつ冷ややかに言って、颯太は身を翻す。 もう外は暗い。あとはますます暗く、寒くなる一方だ。 「久志さんの言うことはわかった。でもそれで怒りが収まるわけじゃない」 去って行く颯太を、寒い中に戻る彼を、止めることはできようもなかった。

ともだちにシェアしよう!