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傷つくほどに12
「久志さん」
「おう、颯太。遅かったな」
制服姿の颯太がリビングに入って来る。返事をしてすぐにやけに険しい顔をしていることがわかった。
テレビを止める。
颯太はリュックを床に落とし、まっすぐおれに向かってきた。
「どうし……」
「九条久志」
そしておれの言葉を遮って、呼ぶ。
懐かしい本名を。
「今まで一人暮らしだったのに、急に学生を養えるのかってずっと心配してた。だから悪いけど、通帳見たんだ」
そう言われて通帳をしまう場所を思い出す。
颯太が学費や生活費を気にしていることはわかっていたから、見つからないようにしていたはずだ。
だが時間さえあれば見つかってもおかしくないか。
「そしたら毎月大金が振り込まれていた。そう思って見れば、顔もどことなく似ている。ぬかったね。戸籍そのままだったよ」
「消されてなかったのか。意外だな」
「ふざけないで」
本心ではあったが、普段のせいでふざけたように聞こえてしまったのだろう。颯太がぴしゃりと言い放った。
おれを睨む瞳は怒りや敵意に満ちている。
それは仕方ないことだ。だが辛いものがある。
なんだかんだで、大切な存在に、とっくになっているのだから。
「あんた、九条の回し者だったんだ……」
地を這うような低い声。普段の穏やかな様子からは想像もつかない。
「そうやってずっと、俺を騙してたんだ!」
裏切られた憎しみ、怒り、哀しみ。それら全てが一つに固まって、叫びとなる。大声など出さない颯太はそれだけで大きく息を吐く。
「落ち着け、颯太……」
「落ち着いていられない!」
立ち上がって颯太の方に手を伸ばすが、思い切り振り払われる。それでも無理やり肩を掴んだ。
「落ち着け! 事情を話すから、聞け」
視線を合わせ、一言一言ゆっくり言うと、颯太は馬鹿ではないからーー寧ろ優秀すぎるがーー動きを止める。
流石にソファへの誘導には従わない。しょうがないので立って話すことにする。
「まずおれが九条の人間だってことも、金貰ってたことも事実だ。だが颯太を連れ帰ったのは本当に偶然だ」
颯太は何か言いたげにおれを見るが、結局は睨むにとどまる。
「昔の自分に重なって見えたんだよ。おれだって九条から逃げたんだから」
「……どうして」
「自由な生活ってのに憧れたわけ。幸いおれには弟がいたし、そっちのが優秀だったからこうやって生きてこれた。というか本来なら、九条が逃げたやつに構うはずはないんだよな……」
颯太は未だにおれを睨みつけているが、その目には冷静さが戻ってきている。相手の言葉から読み取れることをひたすら吸収しようとしていた。
「でもお前は違った。出来が良すぎたんだ。だから九条の奴らがおれのとこに来て、生活費や学費のことを提案してきた」
「それっていつのこと」
「お前が中三になったばかりの時」
「……ずっと隠してたんだ」
「お前の生活を壊したくなかった」
我ながら薄っぺらい言葉だ。しかし本心でもある。
颯太はおれの言葉を聞いてグッとおし黙る。
隠し事への怒りと引き換えに得た安楽。おれの選択は颯太を思ってのことだとわかるから、何も言えない。だがすんなり割り切れるわけでもない。
「それにあいつら、必ずしもお前を連れ戻す気はないんだとよ」
颯太の瞳が丸くなる。しかしそれは一瞬で、すぐに険しい表情になる。
颯太の中で何かが、切れたように見えた。
「たとえ九条が連れ戻しに来ても、俺は何度だって逃げ出してやる」
「お前それがどういうことかわかってるのか」
「わかってる。久志さんだってそうだろ。大事な人なんか作らず、一人で生きていく」
颯太の顔は決意で固まっていた。それも悲しい決意に。
その瞳は出会った頃以上に明るい色が消え、残るは冷たさだけだ。それこそおれさえも、もうこいつの中では何者でもない。
おれにはもう大事な人ができていて、颯太もきっとそうだった。
でも、今は、違う。
「想像以上に辛いぞ」
「構わない」
「おい、どこ行く」
静かに、かつ冷ややかに言って、颯太は身を翻す。
もう外は暗い。あとはますます暗く、寒くなる一方だ。
「久志さんの言うことはわかった。でもそれで怒りが収まるわけじゃない」
去って行く颯太を、寒い中に戻る彼を、止めることはできようもなかった。
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