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泥船渡河1

○ ● ○ 「あの……困るんですが」 「あら? どうして?」 「いや、恋人がいるので……」 「じゃあ恋人さんには黙っておきましょう」 なぜ俺はこうなっているのだろう。 スタイルのいい美人な女性にのしかかられ、卑猥な動きで体をまさぐられ。 なぜ、こんな状態に。 思えばそれは一週間前にまで遡る。 --- 父について九条の本社に入る。広々したロビーはまさに大企業といったところか。 「わたしもここに入るのは久しぶりかもしれん」 「そうなんですね」 父が俺を少し振り返り、そう言ってくる。確かに父が入ってきた途端、社員の人たちが目を丸くしている。 ロビーを進んでいくと社員の人たちは父や、俺にまで挨拶をしてくれた。 ちなみに今日母はいない。まるで陰のように常に母をついて歩かせていた父だったが、俺と和解したあたりからやめたようだ。 代わりに今日は黒服の男二人がついてきている。 父と俺はロビーを抜け、オフィスに入った。 めいめいパソコンに向かっており、こういう風景はどの会社も変わらないみたいだ。 そこで父は普段どういうことをしているのか教えてくれる。 こういうことも上に立つ者は知っておけばより良いだろうと言い出したことがきっかけで、今回は九条を訪れることになった。今日と来週の二回に分けて訪問する。 父は時に社員に話しかけたりしていて、意外な姿だと思う。 いや、話しかけられた方も驚いているから、改心した結果なのだろう。 そうしてそのまま進んでいって、会議の様子を少し覗かせてもらったりもした。 父ではなく九条のトップとしての背は、不思議と頼もしく見えた。 そして見学の最中で黒服の一人が父に耳打ちをする。父の顔は聞いているうちに険しくなっていった。 「……すまない、颯太。急用が入った」 「いえ。来週もあるので」 「ああ……」 父は元々多忙な人だ。それは当たり前のこと。それなのにわざわざ俺に時間を割いてくれただけありがたい。 それでも申し訳なさそうな顔をする父。 「こんにちは」 その時、澄んだ声が俺たちにかかる。

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