275 / 961

泥船渡河2

「ああ、下田か」 その女性は巻いた髪の毛を一つにまとめ、スタイルの良い体にスーツをまとっていた。誰が見ても美しいと言うだろう人だ。 父の声や様子からして、仕事も出来る人なのだろう。今もちょうど資料を抱えてここを通るところだった。 「息子さん……ですか?」 「ああ。今日は中を案内している」 女性が俺を見て軽く笑む。その瞬間になぜか悪寒が走るが、俺も無難な笑みを返しておいた。 品のいい、そして優しげな女性のはずだが。見た目は。 初恋はたまたま男だが、おそらく女性に興味がないというわけではない。亜樹だから、好きになった。だから女だと嫌悪を抱いているわけではないと思う。 「こんな若いうちからすごいですね」 「まあ、一応だ。だが急用が入ってしまったから、今日は終いにするつもりだ」 そういえば亜樹、今は何しているだろう。明日会う予定だけど、今もすごく恋しい。 一瞬、亜樹を思い浮かべれば、すぐにそちらへ思考はいってしまう。明日はどこへ行こう、何を話そう。そう考えるだけで心が踊る。 「じゃあ私が案内しましょうか? 今日予定していたところだけでも」 「ああ、そうだな、下田なら……。悪いが、頼めるか」 「はい。もちろんです」 気をそらしているすきに、話が予想外の方向へ向かっている。気づいた時にはもう遅い。 父のいた場所に下田さんが立ち、下田さんのいた場所に父が立つ。そして父は案内する場所のリストらしきものを下田さんに手渡した。 「颯太、あとは下田に従ってくれ」 「あっ、はい」 「颯太くんって言うのね。よろしく」 「……よろしくお願いします」 父はこの頃浮かべることも増えた微笑を見せてから、黒服の二人と共に去っていく。 黒服を一人も残さないあたり、下田さんに結構な信頼を置いているらしい。 そんな下田さんと俺はその場に取り残された。 ヒールの分、下田さんの方が少し背が高く、整いすぎた笑みで顔を覗き込まれた。 きっと色々な人が惚れる笑顔だろう。 「じゃあ、行こうか」 「はい」 下田さんに並んで俺は歩き出した。 その時ふと下田さんの持つ資料に目がいった。 「仕事の最中じゃなかったんですか?」 「ああ、これ? 大丈夫よ。心配してくれるなんて、優しいのね」 「いえ……ただ少し気になっただけです」 今度は花が咲くようにふわりと笑う。女性らしい可愛らしさのある笑顔だ。 きっと先ほどの悪寒は気のせいだろう。色々な面を持つ人というだけで。きっと亜樹の手前、女性といるということに引け目を感じていただけだ。

ともだちにシェアしよう!