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泥船渡河6

亜樹と一緒の学校生活を一週間過ごし、再び俺は九条の本社へやってきた。先週と同じく父の後ろを歩き、ロビーを渡っていった。 するとそこにはなぜか、見覚えのある人が立っている。 「一週間ぶりね、颯太くん」 「こんにちは……下田さん」 先週と変わらぬ笑顔で下田さんは立っている。 「今日も頼むぞ、下田」 「はい」 「颯太もしっかりな」 「あ、はい」 当たり前のように父はそう言って、黒服とともに去っていった。 父はいつも言葉が少なすぎる。 下田さんに案内させた方が俺にも父にもいいと思ったのだろうか。確かにあとから聞かれた時、よかったと答えはした。 「びっくりしちゃった。まさか今週も頼まれるなんて」 「俺もてっきり父が案内するとばかり……」 「まあでも社長は忙しいだろうし、この形の方がいいと思ったのかもしれないわね」 「そうですね」 「じゃあ行こう」 「はい」 これはまた亜樹に謝らなければいけない。 でも亜樹ならきっと許してくれる。それに悲しそうな亜樹を抱きしめて、優しくキスをして……そうしたらいつもより甘えてくれる。 こんな風に考えているのも申し訳ないことなのかもしれない。 「颯太くん?」 「……っ、すみません」 下田さんが俺を振り返って不思議そうな顔をする。慌てて開いた距離を詰めた。 「なぁに、考え事?」 「ああ、まあ、はい」 「も〜、なに考えてたのよ」 「色々と……」 苦笑する下田さんに曖昧に返せば、彼女は意味ありげに微笑んだ。 まさか恋人のことを考えていたなど言えるはずもない。しかもそれがいかがわしいものなのだから。 今日は上の方の階を案内してもらう。そういうわけでまずエレベーターに乗りこんだ。 すると下田さんは角に寄って、唇を引き結ぶ。 「大丈夫ですか?」 「え、何が?」 「顔、少し青いから」 「ああ……狭いところ苦手で」 やんわり笑う下田さん。 資料を抱える腕には力が入っているし、極力角に収まって広く見ようとしているし、相当苦手なんだと思う。 「でも少しくらい平気よ」 その言葉の直後、チンッと音が鳴って目的の階につく。俺を先に出そうとする下田さんを押し出して、俺もエレベーターから出た。 下田さんは軽く息を吐き出したあと俺を見る。 「ありがとう。颯太くん、気遣い屋さんね」 「そんなことないですよ」 俺が口角を上げると、下田さんも女の子のように可愛らしく笑った。

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