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邂逅と厭忌は紙一重8

○ ● ○ 壁に背を預け、ずるずるとその場にしゃがむ。 本当はすぐ行かないとおかしいと思われる。下田さんはどうせうまい言い訳をするだろうけど。 だが情けないことに脚が震えているのだ。本当に怖かった。涙が一粒だけ零れ落ちる。 なぜこんなことを言われなければいけないのだろう。どうしてこんなことをされなければいけないのだろう。 僕はただ颯太が好きなだけなのに。人を愛しているだけなのに、気持ち悪いなんて、どうして。 悔しくて、悲しくて、どうしようもない。 そして下田さんの言葉がぐるぐる回る。 地味。臆病。綺麗じゃない。 やっぱり僕は颯太と釣り合っていないんだろうな。だからって別れるとはならない、いやなれないけれど、こんな地味な人間、颯太に釣り合ってはいないんだ。 僕といるから颯太も気持ち悪いと思われて、趣味が悪いとも思われて。 「……違うよ、そんなの」 頭を抱えたまま、ぽつりと、呟く。 それこそ一番颯太に失礼なことだ。颯太の大きな愛をわかりきっているはずなのに、こんなことを考えてしまった。 それほどに下田さんは怖かったのだろう。少なくとも迫力は凄まじかった。 僕は目をごしごし擦って立ち上がる。備え付けの洗面台まで行って鏡を覗く。 大丈夫だ。頬は赤くない。ぶたれたことはわからない。 念のため顔を洗って、僕はトイレを出た。 再びカフェに戻ると、ちゃんと三人は席に収まっていた。 「亜樹くん、やっと来た!」 「長いわねぇ、トイレ」 まず杏ちゃんが気づいて嬉しそうに笑う。それから下田さんが流し目で振り返った。 さっきのことなんてまるで何もなかったかのようだ。本当に演技が上手。普段から二段階、猫を被っているんだから。 颯太が僕の顔を見て心配そうな顔をする。今この場で何か言えるわけない。 でも大丈夫。颯太のその顔を見れば、勇気が出る。 僕が二人に気づかれないよう笑むと、颯太は少し安心したようだ。 「渡来くんに杏ちゃん、今日は楽しかったわ。ありがとうね」 僕が席に戻る前に下田さんは立ち上がった。そして伝票を掴む。 「ここは最年長の私が払うわね」 「ありがとうございます、下田さん」 「お姉さん、ありがと!」 「どういたしまして。じゃあ、ばいばい」 付いてくるなとばかりに指をひらひら動かし、颯太と腕を組んで下田さんは会計に向かった。 たぶん下田さんは颯太を落とすために体を使うのだろう。ないとは思うけど、狙い目は今日の夜か。下田さんの力の強さや有無を言わせない感じはすごいから、颯太が負けないか心配だ。 いや、僕より全然力が強い颯太だから大丈夫だろうけれど。 「亜樹くん、あたしたちも行こう」 「ああ、うん。行こう」 杏ちゃんが立ち上がって僕の手を取る。 下田さんのせいで荒れた今の心には、子供の純粋な好意が沁みる。なんて平和なんだろう。健気なんだろう。そう思ってしまう。 今度、僕と杏ちゃんは手を繋いだ。そしてカフェを出ていく。

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