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1章 奴隷

 バルカは牢獄にいた。  そこには陽の光は届かず、いくつかの蝋燭の炎が辺りを淡く照らしているだけだった。狭く、仄暗い石牢。剣闘士として過ごしてきた養成所の独房によく似た場所だ。  バルカの両手は鎖の枷で拘束され、両足は鉄球の錘に繋がれていた。  奴隷時代を思い起こさせるような状況に、思わず自嘲が漏れる。多くの犠牲を払いながらここまで戦ってきたというのに、また振り出しに戻ってしまった。  虚無感を伴うやるせなさがバルカの心を濁らせていく。 「――やっと目が覚めたか」  何者かが声を掛けてきた。  向かい側の牢獄の中に、ぼろ布のような服を身にまとった男がいる。長い前髪と髭に顔のほとんどが覆われているため、若いのか年寄りなのかすら判断がつかない。  その囚人は嗄れ声で「三日も眠りっぱなしだったから、死んでいるのかと思ったぞ」と告げた。  あれから三日も経ったのか。  この国に攻め入ろうとしたが、魔術師に妙な術を掛けられ、不覚にも気を失ってしまった。そこまでは記憶にある。  おそらくあの魔法は、オルグの活力を奪う類の術だったのだろう。あれほど広範囲にまで仕掛けられていては、躱しようがなかった。 「ずっと独りで退屈していたが、ようやく話し相手ができた」 「……独り?」  男の言葉が引っ掛かる。  バルカは尋ねた。 「他に囚人はいないのか?」 「ここにはお前と俺だけだよ」  だとすると、他のオルグたちはいったい何処へ連れていかれたのだろうか。  ――まさか、仲間はすでに処刑されてしまったのか?  嫌な予感がバルカの頭を過る。 「早く食わないと、鼠に盗られるぞ」  男がバルカの牢を指差した。  見れば、独房の端にパンと水が置かれている。  今にも齧りつこうとしている小汚い鼠を追い払い、バルカは食料に手を伸ばした。三日眠っていたということは、三日何も食べていないということだ。空腹には慣れているが、食べ物を見た瞬間に激しい飢餓が襲ってきた。  石のように硬いパンに無心で食らいついていると、 「お前、オルグ族だな?」  と、囚人の男が尋ねてきた。 「見りゃわかんだろ」  バルカは素っ気なく返した。  オルグの見てくれは人間とは大きく異なる。肌は暖炉に残った灰のような色をしており、耳はまるでエルフ賊やドワーフ族のように尖っている。髪は夜空に輝く月のような銀色で、往々にして背丈は人間よりも高く、体格は一回り大きい。筋骨隆々で頑丈な肉体をもつ種族である。  バルカはオルグの中でも特に屈強な体をしていた。 「オルグというのは、元々どういう意味だか知っているか? 古代ターラント語で『野蛮な獣』を意味する「orgobar(オルゴバル)」が語源でな、オルグ族はかつて魔物や巨人族と交わった人間の子孫であると云われているんだ」 「へえ、そうかい」  バルカは鼻で笑った。 「見かけによらず学があんだな、おっさん」  かつて人間は、その呪われし民であるオルグ族を忌み嫌い、そして同時に恐れを抱いた。  或る国は、彼らを武力で支配し、奴隷として使役する道を選んだ。  或る国は、彼らを研究対象として捕らえ、様々な魔術の実験を行った。  前者は軍事国家ドルガ帝国、後者は魔法都市レンハイム公国である。 「此処ベルシュタット王国は、不吉な存在としてオルグ族を忌避し、遠ざけることにした。だから、この国に奴隷制度はなく、オルグもいない」  お喋りな囚人は口を閉じる気がないようだ。  別段興味のない話だが、多少の暇潰しにはなる。バルカは相手をしてやることにした。「はあ、なるほど」と適当に相槌を打つ。 「それなのに、お前さんのようなオルグがどうしてこんな場所にいる? この牢に運び込まれたということは、余程の大罪を犯したんだろうが」 「あんた、オルグの奴隷戦争を知らねえのか?」 「かれこれ十年以上ここにいるからな。外のことはわからないんだ」  お世辞にも美味いとはいえないパンを水で喉に流し込み、「じゃあ教えてやる」とバルカは答えた。 「今から五年前に、剣闘士のオルグたちが反乱を起こしたんだ。人間に虐げられている奴隷を解放するため、ドルガ帝国各地を回りながら、何年も戦い続けた。俺はその反乱軍を率いていたオルグだ。帝国軍に追われてここに流れ着いて、この国に攻め入ろうとした」 「こうして捕まったということは、戦に負けたんだな」 「あんなのは戦じゃねえ!」  バルカは苛立ち、水の入っていた器を床に叩きつけた。  ――すべて、あの魔術師のせいだ。  思い出し、憤りが沸き上がる。あの男は、オルグ族の戦士としての誇りを踏みにじったのだ。許しがたいことだった。  憎き魔術師の顔が頭を過ぎり、舌打ちを零す。 「……なあ、おっさん。ベルシュタットの魔術師を知ってるか?」 「魔術師? どんな奴だ?」 「金色の髪に、青い目をした男だ。何処ぞの貴族みたいな若い男だよ」  仮面みたいに無表情で、まるで人の心など持ち合わせていない、人形のような男だった。  あの冷血な視線を思い出すだけで、バルカの心に苛立ちが芽生えてくる。憎くて堪らなかった。名前と居場所さえ分かれば、ここから脱獄して真っ先に首を刎ねに行ってやるのだが、向かいの男は「知らんな」と首を振った。牢屋暮らしの長い囚人に情報を求めたところで、やはり大した手掛かりは得られそうにない。  バルカは肩を竦め、話題を変えた。 「あんた、さっき俺に言ったな? この牢に運び込まれたということは、余程の大罪を犯したんだろう――って。つまりここは普通の囚人じゃなくて、重罪人用の牢屋ってことか?」 「ああ、そうさ」  男は頷いた。 「普通の牢屋は街の西側にあるがな、ここは城の地下にある特別な牢獄なんだ」 「あんたはどんな大罪を犯したんだ?」  興味本位で尋ねると、男は黄色い歯を見せて笑った。寒気がするほど気味の悪い微笑みだった。 「王族の人間を裏切った」 「……そりゃあ、この上ない大罪だな。どんなことをした?」  尋ねたところで、不意に足音が聞こえてきた。  濃紺の隊服に身を包んだ二人の騎士が目の前に現れたため、バルカたちは会話を止め、息を潜めた。  騎士たちはバルカの牢の扉を開けると、「出ろ、オルグ」と強い口調で命じた。侮蔑の滲む声色だった。 「おっ、ついに処刑の時間か?」  おどけた調子で尋ねると、騎士は「いいから早くしろ」とバルカを睨んだ。  言われるがまま、バルカは動いた。鉄の錘を引きずりながら歩く。  囚人が牢屋から出される理由は二つしかない。  釈放か、処刑か、だ。  反乱軍のリーダーであるバルカが解放されることなどあり得ない。行き先は絞首台だろう。  己の死を覚悟しながら、バルカは重い足を引きずった。     ■ ■ ■  処刑台で縛り首になるか、街の広場で晒し者にされるか。二つ一つ。  ところが、バルカの予想に反し、たどり着いたのは城内の一室だった。  騎士が扉を叩き、声を掛ける。 「例のオルグを連れて参りました、ニコラス様」 「入れ」  ――ニコラス?  たしかこの国の王子の名前だ。  自分を呼びつけたのはニコラス王子なのか。  妙だと思った。王族が捕虜なんぞに何の用があるというのか。わざわざ檻から出してまで。 「ご苦労だった。仕事に戻ってくれ」 「はい」  訝しむバルカを余所に話は進んでいく。扉が開いたところで、バルカは背を押され、中へと押し込まれた。  部屋に足を踏み入れた直後、背後で独りでに扉が閉まった。 「何なんだよ、まったく……」  首を捻りながら、バルカは辺りを見回した。  そこは広々とした、豪勢な調度品に囲まれた一室だった。大きな寝台が部屋の中央を陣取っている。自分のような身分の者が入れるような場所ではないことは確かだ。  部屋の奥に人影が見えた。  窓際に男が立っている。この男がニコラス王子だろうか。  バルカは目を凝らした。  窓から月明かりが差し込み、男の顔を照らした瞬間、思わず息を呑む。  ――あの男だ。  意識が朦朧とする中で最後に見た顔が、そこにいた。  たった一人で五十人の反乱軍を足止めした、憎き魔術師。  それがまさか、この国の王子だったとは。 「てめぇ、よくも俺たちを……!」  感情を抑えきれず、バルカは怒鳴った。 「許さねえ、殺してやる!」  探す手間が省けた。今ここで息の根を止めてやる。  錘を引きずりながら距離を詰め、バルカは男の細い首を片手で掴んだ。このまま絞め殺してやるつもりだった。  しかし、それは叶わなかった。 「落ち着け。私を殺せば、大事な仲間が死ぬぞ」  男の脅しに、バルカは動きを止めた。 「……なんだと?」 「貴様の仲間は全員無事だ。……だが、貴様の行動次第では、城下町の大広場に仲間の首が並ぶことになる」 「クソ魔術師め」 「口に気をつけろ、これでも王族だ」 「クソ王子」  暴言を吐き捨て、バルカは渋々手を離した。  乱れた襟元を整えながら、ニコラスが「質問に答えろ」と告げる。 「どうして我が国に攻め入ろうとした? ここにはオルグを奴隷に使う風習はない。お前たちに恨まれる謂れはないはずだが」 「お前ら人間が、俺達を追い詰めるからだ」  以前は二百人いた仲間も、フォルン荒野で帝国軍の奇襲に遭い、半数が殺された。  バルカは何とか逃げ延びたが、反乱軍のリーダーだった親友は捕まった。磔にされ、生きたまま焼かれたと風の噂で聞いている。  バルカはその男に代わって、ここまで仲間を率いてきた。  しかしながら、それは過酷な行軍だった。この国に辿り着くまでに半数が飢えや病で命を落とした。 「この国を襲い、食料と土地を奪おうと?」 「それだけじゃない。お前ら王族を全員ぶっ殺して、この国を支配して、人間たちを奴隷として使ってやるつもりだった」 「なるほど、余程人間が憎いようだ」 「当然だろ」  憎いに決まっている。  鞭で叩かれ、棒で殴られ、犬の餌より酷い飯を与えられ、過酷な労働を強要され続けた。尊厳を踏みにじられてきた。  オルグという種族であるという、ただそれだけの理由で。  憎しみは潰えない。今まで受けてきた仕打ちを思えば、一生消えることはないだろう。 「そんなくだらねえことを訊くために、わざわざ俺を牢屋から出したのか?」 「……いや」  ニコラスは否定し、パチンと指を鳴らした。  次の瞬間、バルカの身体が突如、軽くなった。  驚いたことに、いつの間にか手足の拘束が解けていた。どうやらニコラスが魔術を使い、バルカの枷を外したようだ。 「お前に伽を命じるためだ」  唐突なその命令に、バルカは唖然となった。 「……あ?」 「わからないか? 私を抱け、という意味だ」  バルカはむっと眉を顰めた。 「ガキじゃねえんだ。言葉の意味はわかる」 「だろうな」 「反乱軍の頭に伽を命じるなんて、イカれてんのか、てめえ」  すると、ニコラスは嘲笑うような表情を浮かべた。 「そう驚くことはないだろう。お前は剣闘士だったのだから、こういうことには慣れているはずだ」  確かにこの男の言う通り、慣れてはいる。  剣闘奴隷の仕事は闘技場で戦うだけではない。試合後に開かれる夜宴において、貴族の相手をすることも、バルカら剣闘士の役目であった。  夜宴の参加者は全員仮面をつけて顔と身分を隠し、酒や馳走を楽しむ。そして、気に入った戦士を金で買い、一晩中、情事に耽る。それが貴族たちの嗜みだ。  つまるところ、剣闘士は性奴隷としての役割も担っていた。  所属する養成所の中でも、バルカは一、二を争う強さだった。戦いの強さはそのまま人気に直結する。夜宴の際には、バルカはいつも複数の貴族に声を掛けられていた。一晩で十人以上の女を相手しなければならないときもあった。 「……まさか、この国の王子サマが男色家だったとは」 「珍しいことでもあるまい。人は皆、何かしらの嗜好を抱えている」 「確かにな。貴族には変態が多い」 「性に奔放、と言うべきだ」  ニコラスの口元に微かな笑みが浮かんだ。 「オルグの一物はさぞ立派だと聞く。前から味わってみたいと思っていた」  このニコラスという男は、今ここでバルカに慰み者になれと要求している。  戦士として散ることを許されず、捕虜として処刑されることもなく、ただの性奴隷として飼い殺しにしようとしている。  バルカにとってこれ以上の屈辱はなかった。 「悪いが、俺は同性の相手はしない。興奮しねえんだよ。夜宴で男の客から声を掛けられることもあったが、相手にしたことは一度もない」 「この私を抱けないというか」 「ああ、無理だね。これで用済みだろ? さっさと俺を処刑してくれ」  この男の言いなりになるくらいなら、死を選ぶ。  そのつもりで盾突いたのだが、ニコラスは引かなかった。 「仲間の命が懸かっていても、か?」  命令に背けば、仲間を殺す。  ニコラスの脅しに、バルカはかっとなった。怒りのあまり言葉を返すことができなかった。  代わりに鋭い目つきで睨むと、ニコラスは「少しはやる気になったようだな」と勝ち誇ったような表情を浮かべた。  所詮、この男も他の人間と同じだ。  オルグをただの物としか思っていない、最低の部類の連中。  王族や貴族は皆そうだった。自分たちの欲を満たすための道具として奴隷を使い、飽きたら簡単に捨ててしまう。 「……ああ、あんたをヤり殺してやるよ」 「それは楽しみだ」  ニコラスが服を脱ぎ、裸になった。程よく筋肉のついた綺麗な体をしている。傷跡だらけの自分とは対照的な、まるでシルク生地のように美しく滑らかな肌だった。  とはいえ、いくら美しい身体であっても自身の雄が反応を示すことはない。同性相手にはどうしてもそそられない。それが毛嫌いしている相手なら猶更のこと。  バルカは腰巻きと下穿きを乱雑に脱ぎ捨てた。露になった男性器を自らの手で扱き、刺激を与えて興奮を呼び起こすしかなかった。  そんなバルカの姿を眺めながら、寝台の上でニコラスが薄く笑う。 「……ほう、噂に違わぬ大きさだな」 「黙れ、気が散る」  殺してやりたいほどに憎んでいるこの男を殺すことができないというのなら、せめて散々痛めつけて、辱めて、尊厳を傷つけてやろうじゃないか。  嗜虐的な感情に支配されるがまま、バルカは寝台に上がった。 「……覚悟しろよ」  うつ伏せになったニコラスの腰を両手で掴み、そそり立った一物をニコラスの尻の間に宛がう。  そして、後ろから一気に突き立てた。 「あ、っ」  強い衝撃に体を揺さぶられ、ニコラスが甲高い声を上げた。  中は濡れていた。香油でも使って用意していたのだろう。すんなりと自分を受け入れる身体がいっそう憎たらしく、バルカはニコラスの金色の髪を乱暴に掴むと、強く引っ張った。  ニコラスの喉が仰け反る。  そこに両手の指を絡め、首を軽く締めながら、バルカは前後に激しく腰を動かした。 「……後悔させてやる」  見たかったのは、このいけ好かない男が泣いて許しを乞う姿だ。 「んっ、あっ、あぁ……っ!」  それなのに、どんなに激しくしようと、どんなに乱暴に扱おうと、ニコラスは甘い声で喘ぐばかりだった。 「ああっ、いい……もっと、奥まで、きてくれ、っ」 「黙れ……っ」  バルカは舌打ちした。  気に食わない。  そんな声を出されると、まるで自分がこの男を悦ばせるために腰を振っているようではないか。 「……奴隷に強姦されて悦ぶなんて、相当な変態だな」 「んっ、はあ、……あぁ、あっ、いいっ」 「この、淫乱王子が……っ」 「ああっ、あっ、んぁ、……もっと、っ」 「このまま、テメェを嬲り殺せたら、いいのによ……っ!」  執拗に奥を攻め立てながら、バルカはニコラスの肩口に噛みつき、顎に力を込めた。  オルグの歯は人間よりも鋭い。白い肌に刻まれた傷から真っ赤な血の筋が垂れ、ニコラスの背中を伝っていく。 「ああ、ぁ……」  その直後、中が波打つように収縮し、ニコラスの体が痙攣した。腰を小刻みに震わせながら精を吐いている。 「……果てたか」  役目は終わりだ。これ以上付き合うつもりはなかった。  バルカが腰を引いたところ、 「待て、抜くな」  ニコラスが止めた。 「まだだ……一晩中、相手をしてもらうぞ」  誘うようにひくついている穴を自身の指で広げながら、媚びるような声で告げる。 「私の中を、お前の子種でいっぱいにしてくれ」  四つん這いの体勢のまま、腰を高く上げ、これ見よがしにバルカを誘う。 「……黙れって言ってんだろ」  どんなにこちらが痛めつけようと、この男は平気な顔をしている。  それどころか、むしろ、この情事を愉しんでいる。  バルカは腹立たしさを覚えた。思い通りにならないこの男に。  そして、そんな男に翻弄されつつある自分に。  自身の一物は反り上がったままだった。  王族でありながら娼婦のような色香を纏うこの男に、僅かながらも興奮を抱いてしまっている自分に、失望せざるを得なかった。    ■ ■ ■ 「――いつまで寝ている。起きろ、バルカ」  寝心地の良い寝台のおかげで、ついぐっすり眠ってしまった。ここが敵地であることも忘れて。  バルカが目を覚ましたときには、すでに日が高く昇っていた。 「……ん、あぁ?」  目を擦りながら辺りを確認すると、すぐ傍にニコラスが立っていた。  バルカは未だに裸のままだったが、彼はきっちりと服を身に着けている。昨夜の乱れた姿が嘘のような澄まし顔をしているが、その首元にはバルカの指の痕がくっきりと残っていた。 「湯浴みを済ませたら、これに着替えろ」  と、ニコラスは真新しい服と靴をバルカに渡した。  見たことのある形の服だ。この国の騎士が着ているものとほぼ同じようだが、色だけが微かに違う。騎士たちが着ている隊服は濃紺だが、これは黒だ。 「なんだよ、これ」 「王家近衛騎士の制服だ」 「……近衛騎士?」 「王族に付き従い、護衛をする騎士だ。今日からお前には、この私の専属の騎士になってもらう」 「はぁ!?」  突拍子もないニコラスの発言に、一気に眠気が覚めてしまった。 「なに言ってんだ、お前」 「もちろん無償ではない。真面目に働けば、一日に一人ずつ、仲間を牢から解放してやる。つまり五十日後には、お前は晴れて自由の身になれるというわけだ。悪い話ではないだろう?」  悪い冗談にしか思えない話だ。  バルカは眉を顰めた。 「騎士ってのは、もっと育ちのいい奴がやる仕事だろ? オルグの騎士なんて聞いたことねえ」 「私が騎士に求めているのは育ちよりも強さだ。その点、剣闘士上がりのお前は腕が立つ」  どれだけ腕があったとしても、忠誠心がなければ務まらない職務だ。  バルカは反論した。 「俺はあんたを憎んでる。殺したいほどに。そんな奴を傍に置くつもりか? 正気じゃねえな」  すると、ニコラスは鼻で嗤った。 「……何がおかしいんだよ」 「昨夜、我々がしたことを忘れたか? 私は丸腰で、お前に背を向けていた。これ以上ないほど無防備な状態だったが、お前は私を殺さなかった。いつでも私の首をへし折って、ここから逃げ出せたはずなのに」 「出来るわけねえだろ。そんなことしたら、俺の仲間がどうなるか」 「そういうことだ」  ニコラスが頷き、バルカの顔を指差す。 「お前のその仲間への想いは、騎士の忠誠などという不確かなものより、余程信頼できる」  この男の言うことは尤もだ。たしかに仲間の命が懸かっている以上、こちらは逆らえない。昨夜の一件で自らそれを証明してしまっている。  だからといって、素直に要求を呑む気にはなれなかった。 「……あんたが俺を信頼できても、俺はあんたを信頼できねえ」  そう易々と人間の言葉を信じることはできない。約束が守られる保証はなく、無下にされる可能性の方が高いのだから。  人間とはそういうものだ。これまでだって何度も裏切られてきた。 「自身の立場は理解しているかと思ったが……説明が足りなかったか?」  有無を言わせぬ口調で告げたニコラスを、バルカはきつく睨みつけた。  相手に約束を守る気があろうとなかろうと、仲間を人質に取られている限り、選択肢はない。  癪だが、この男の言う通りにするしかなかった。 「案ずるな、私は約束を守る男だ」  ニコラスが淀みのない口調で断言する。  その蒼い瞳はあまりにも真っ直ぐで、こちらを謀ろうとしているようには見えなかった。  短く刈り上げた髪の毛を掻きながら、バルカは「何なんだよ、まったく」と溜息を吐いた。  夜伽の次は護衛。  いったい何を企んでいるのか。この男の考えが全く読めない。    とはいえ、たったの五十日だ。  バルカは十五の時に奴隷市場で売り飛ばされ、反乱を起こす二十四までの九年間、ずっと剣闘奴隷として虐げられてきた。  その年数に比べたら、五十日など辛抱できないものではない。ここは頷いておくことにした。 「わかった、その近衛騎士とやらになってやる。けどな、俺はあんたの奴隷になり下がる気はないぞ。いくら仲間を餌にしたって、何でも言うこと聞くとは思うなよ」  人間の言いなりになり、尊厳を蔑ろにされるのは、もう御免だ。  バルカの返事に対し、ニコラスは「それでいい」と満足げに頷いた。

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