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2章 過去

 ニコラス・フォン・ハーウェンベルク。  レンバッハ大陸の東側に位置する小国・ベルシュタット王国の第三王子であり、年齢は三十二。バルカよりも三つほど年嵩のようだ。  ニコラスは二十二の時にレンハイム公国の魔法研究所に留学し、あらゆる魔術を習得したという。兄弟の中で最も政治学や軍事論に明るく、五年前に帰国して以降、高齢の国王に代わって為政の中心的役割を任されるようになった。おしゃべりな使用人たちの噂話を盗み聞きしてバルカが知り得た情報は、そんなところだった。  城の者から嫌われているわけではないが、親しみを抱かれているわけでもないようだ。それも当然だろうと思う。ニコラスは普段笑みを見せることが一切なく、まるで感情を持たない人形のような男であった。加えて、王族特有の不遜で横柄な態度や物言いが度々鼻につく。いけ好かない奴というバルカの彼に対する印象は、数日仕えても変わることはなかった。  此の日は城内の会議室にて定例の議会が開かれていた。  バルカも近衛騎士として同席するよう命じられたのだが、歓迎されている雰囲気はまるでなかった。バルカが部屋に入った途端、円卓を囲む役人たちはざわついていた。 「――ニコラス様、つかぬことを伺いますが」  口髭を生やした初老の男が最初に発言した。 「なんだ、大臣」 「どうしてこの場に野蛮人がいるのですか」  大臣と呼ばれたその男は、ニコラスの席の背後に立つバルカを指差し、あからさまに不愉快そうな表情を浮かべている。  野蛮人というのはオルグ族の蔑称のひとつだ。どうやらこの国の大臣も俺らがお嫌いのようだなと、バルカは心の中で嗤った。 「この男は私の騎士だ。私の傍にいて当然だろう」 「城に攻め入ろうとした反乱軍のリーダーを近衛騎士にするなんて、正気の沙汰とは思えませんな」 「俺もそう思う」  バルカが口を挟むと、大臣は眉間に皺を寄せた。 「お前に発言権はない。汚らわしい口を閉じろ、野蛮人め」  バルカは口を結び、肩を竦めてみせた。  こういった物言いには慣れている。それに、大臣がそう言いたくなる気持ちは理解できないこともない。バルカ自身だって不思議な感覚を抱いていた。普通の人間でも立ち入れないような場所に、オルグの自分がいる今の状況に。完全に場違いなのだ。 「このオルグは我が国を乗っ取るつもりだったのですよ。今もニコラス様の命を狙っているはずです」 「あんたの言うことは正しいぜ。いつかコイツの寝首をかいてやるつもりだ」  バルカの余計な一言によって大臣はさらに喧しくなったが、当のニコラスは平然としていた。「そんなことより、さっさと始めるぞ」と議会を仕切り始める。  小難しい話はバルカには理解できなかったが、どうやら本日の議題はこの国の税制についてらしい。様々な意見が飛び交っている。 「また今回のようなことがあっては困ります。さらに軍事費を徴収し、戦力を増やすべきでしょう」 「税金を増やせば国が荒れる。民の反発を抑えるために、余計に金がかかるぞ」 「とはいえ、いつまでもニコラス王子のお力に頼っているわけにもいきません」 「心配するな、私に考えがある。税収を増やしながら戦力を増やしてみせよう」  議論は白熱しているようだが、バルカにとっては暇な時間でしかなかった。この街の人間が重税に苦しもうと、この国の未来がどうなろうと、別段どうでもいいことだ。  バルカがつまらなそうに欠伸をする度に、大臣が咎めるような視線を寄越してきた。完全に目を付けられている。  議会が終了したのは昼過ぎだった。  従者らしく主の後に続いて部屋を出たところ、 「なかなか似合っているじゃないか」  と、ニコラスがこちらを一瞥した。 「それは嫌味か?」 「言葉通りの意味だ」  バルカは今日も近衛騎士用の黒い制服を身にまとっている。普段オルグの男は腰巻しか身に付けないため、詰襟のこの衣裳は酷く窮屈に感じた。 「堅苦しい服だぜ。今すぐ脱いでしまいてえ」 「その制服に恥じない行動をしろ。問題は起こすなよ」 「知るか」 「仲間の骸と再会したくはないだろう?」 「……クソ王子が」  バルカは舌打ちを零した。 「つーかよ、近衛騎士の仕事ってのは、つまんねえ会議を聞きながら突っ立ってるだけなのか? 退屈過ぎて死にそうだぜ」  欠伸と共に不平を漏らすと、ニコラスは足を止めた。 「そうか、退屈か」 「ああ」 「ならば、良い所に連れていってやろう」  僅かに口角を上げ、彼は踵を返した。     ■ ■ ■  城の東側には騎士隊の宿舎があり、そこには訓練所も併設されていた。敵兵を模した木製の人形を相手に剣を振るう騎士の姿が見受けられる。バルカが奴隷時代を過ごしたドルガ帝国の剣闘士養成所にも似た風景だった。 「昔を思い出すだろう? 暇なときは彼らの訓練に参加するといい」  と、ニコラスが提案した。  たしかに、会議室でただじっと立っているよりかは、体を動かす方が自分の性に合っている。  しかしながら、この国の騎士たちがオルグの存在を受け入れるとは思えなかった。どうせ大臣と同じような反応をされるに違いない。  そんなバルカの懸念を余所に、 「ロイ」  と、ニコラスは訓練中の騎士に声を掛けた。 「どうも、ニコラス王子」  ロイと呼ばれたその騎士は、まだ若い男だった。体格は立派だが、顔に少しあどけなさが残っている。自分よりも幾分か年下に見えるその青年に、ニコラスが命じる。 「この男はバルカ、私の近衛騎士だ。面倒を見てやってくれ」  汗ばんだ赤毛の短髪を服の袖で拭きながら、ロイは「えっ、俺がですか?」と目を丸くしている。 「ここではお前が一番腕が立つからな。逃げ出さないよう見張っていろ」 「……はあ、わかりました」 「頼んだぞ」  それだけ告げると、ニコラスは立ち去ってしまった。バルカをその場に残して。  ロイがこちらに視線を移した。「なんで俺が野蛮人の面倒見ないといけないんだ」といった不平不満や差別発言が飛んでくるだろうと思いきや、 「よろしくな、バルカ」  意外にも、彼は笑顔で手を差し出してきた。  稀な反応に驚きながらも、バルカは「ああ、よろしく」と握手を交わした。この青年はオルグ族に対しての差別意識が薄いのか。人間にしては珍しい。  いい奴そうだな、と安堵した、そのときだった。  宿舎から一人の騎士が出てきた。  見たところ、歳は自分より上だろうか。口の周りに濃い髭を蓄えたその男は、ロイとは打って変わって尊大な態度でバルカに絡んできた。 「おい、なんでオルグが騎士隊の制服を着てんだ」  いつものことだ。いちいち相手にしてはいられない。  バルカは男を無視したが、相手はそれが気に入らなかったようだ。こちらに詰め寄り、その騎士は「脱げよ」とバルカの胸倉を掴んだ。 「……まあ、こうなるよな」  バルカはぼそりと呟いた。  これが普通の反応だ。騎士の連中がオルグの捕虜を受け入れるはずがない。こんな場所に置き去りにしやがって、とバルカは内心ニコラスを呪った。 「よせ、ギデオン。彼は王子の近衛騎士だぞ」  ロイが慌てて間に入った。 「王子? どの王子だ」 「ニコラス様だよ」  ロイが答えると、ギデオンと呼ばれたその男はあからさまに下品な笑みを浮かべた。 「ああ、お前が例の性奴隷か」  どうやら自分の噂は城中に広まっているらしい。 「ただ傍に置いて可愛がるためにご立派な肩書きを与えたって話だが、どうやってニコラス王子に取り入ったんだ? ご自慢のブツで可愛がってやったのか?」 「その発言は、あんたの主も侮辱してることになるんじゃねえの?」 「図星か。どうだったよ、王族のケツの味は」  バルカは鼻で嗤った。 「騎士隊ってのは、もっとお上品な連中の集まりかと思ってたんだが……その辺の賊と大差ねえな」  別に、あの王子がどれだけ蔑まれようと構わなかった。  それでもバルカがこうして嫌味を返したのは、ただ単に、ニコラスと同じくらい、この男が気に食わなかったからだ。  対するギデオンは簡単に挑発に乗ってきた。 「男娼ごときが、生意気な口利きやがって」  彼は吐き捨てるようにそう言うと、訓練所の壁に立て掛けてある木製の剣を手に取った。そのうち一つをこちらに向かって放り投げ、「拾え」と低い声で命じる。剣術で勝負をしろ、ということだろう。 「先に膝を地面についた方が負けだ。俺が勝ったらその制服を脱げ。素っ裸のままこの城から追い出してやる」 「訓練用の剣を使うのか? 俺は本物でも構わねえぜ」 「……口の減らねえ野蛮人だな!」  次の瞬間、ギデオンが剣を振り上げた。  勢いよく攻め込んできたが、たいした一撃ではなかった。バルカはその攻撃を軽く受け流すと、隙を突いて相手の脛を思い切り蹴り上げた。  ギデオンが呻き声を上げた。痛みに耐えきれず、その場に片膝をつく。 「俺の勝ちだよな?」  バルカがにやりと笑うと、 「お、お前! 今のは何だ! 卑怯だぞ!」  ギデオンは歯を剥き出して怒鳴り散らした。  吠える男を見下ろし、バルカは鼻で笑い飛ばす。 「卑怯? おいおい、何言ってんだお前。戦場で敵兵が正々堂々と勝負してくれるとでも思ってんのか?」 「なっ……」 「俺たち剣闘士はな、毎日毎日、生きるか死ぬかの戦いを強いられてきたんだ。お行儀よく木で出来た玩具振り回してるだけのお前らとは違うんだよ、この腰抜け野郎が」 「なんだと、てめえ――」  ギデオンがバルカに掴み掛かろうとした、そのときだった。  不意に、どこからか乾いた音が聞こえてきた。  手を叩く音だった。  二階のバルコニーからだ。こちらを見下ろし、拍手をしている者がいる。  上階を見上げ、バルカはふと思い出した。  前にもこんなことがあったな、と。  あれはたしか、オルグが反乱を起こす数年前。  バルカがまだ、一介の剣闘士だった頃のことだ。       ■ ■ ■  その日の闘技場は平時以上の盛り上がりを見せていた。貴族や豪商を招待しての御前試合が開かれていたからだ。  バルカの出番は第五試合目。対戦相手は余所の養成所に所属するオルグの戦士で、勝負は勿論こちらの勝ちに終わった。  相手の剣闘士が気絶してその場に倒れたところで、バルカは剣を収めた。  しかし、興奮と熱狂に包まれた会場はそれを良しとしなかった。  闘技場においては死こそが娯楽であり、観客は皆、血が流れる様を見たがった。バルカが相手の息の根を止めることを期待していた。 『殺せ! 殺せ!』 『敗者は死あるのみ!』  観衆の大合唱が沸き起こる。  だが、バルカは断固として動かなかった。  くだらない、と思った。  こんな悪趣味な興行に熱を上げる人間たちが、愚かしいと。  そんな連中の言うことを聞くなんて、反吐が出る。 『なにやってんだ!』 『早く殺せ!』  観客たちはバルカに向かって罵詈雑言を放ち、中には石を投げ入れる者までいた。  闘技場の主人も顔を真っ赤にして、『今すぐそいつを殺せ。さもないとお前も処刑するぞ』とバルカを脅した。  それでも、バルカは命令を聞かなかった。  殺したきゃ殺せばいい。  お前らの思い通りには、ならない。  闘技場を取り囲む大観衆をぐるりと見渡しながら、バルカは高く剣を振り上げ、喉が枯れるほどの声量で叫んだ。 『もう勝負はついた! 俺は無抵抗の相手に剣を向ける気はない! 文句がある奴は今すぐここに降りてきやがれ! 俺が相手してやる!』  御前試合であるまじき狼藉だった。  一瞬にして闘技場は静まり返った。 『そんなに血が見たいなら見せてやるよ! ほら、かかってきやがれ! 俺らに石を投げていいのは、命を懸けて戦う度胸のある奴だけだ!』  命令に背いた自分は、闘技場を囲む弓兵によってこの場で即刻処刑されることだろう。  バルカは死を覚悟し、ゆっくりと両目を閉じた。  ――そのときだった。  音が聞こえてきた。  ゆっくりと、力強く、手を叩く音が。  バルカは観客席を見上げ、音の出所に視線を向けた。  闘技場の最上階――来賓席で観戦していた客の一人が立ち上がり、拍手をしている。  誰もが驚き、言葉を失っていた。バルカも、闘技場の主人も、観衆たちも。  予想外の出来事に唖然としたまま、バルカは来賓席を見つめた。目を凝らしたが、ここからではあまりに遠く、男の顔はよく見えなかった。  しんと静まり返った闘技場に、彼の拍手の音だけが響き渡る。  その人間は、ただただ無言のまま手を叩き続け、バルカを讃えていた。  その招待客らしき男の行動によって風向きが変わった。バルカへの罵声は止まり、いつしか闘技場は大きな拍手と歓声に包まれた。  おかげでバルカは何のお咎めもなかった。  人間に命を救われたのは、後にも先にもその一度だけである。    ■ ■ ■  遠い昔の記憶だ。  あの日から多くの月日が流れたが、今でも自分は奴隷のままである。  そして、あの日と同じように、高みの見物をする上流階級の人間を、こうして見上げることしかできないでいる。  今のこの状況が、バルカは酷く歯痒かった。 「いい腕だな、バルカ」  二階のバルコニーに立っていたのはニコラスだった。 「……見てやがったのか」  バルカは呟き、舌打ちした。  ニコラスは拍手を止めると、 「お前の負けだ、ギデオン」  と、冷ややかな声色で告げた。  ギデオンは震え上がっていた。慌てて地面に片膝を着き、頭を伏せる。 「私への侮辱は聞かなかったことにしてやろう。その代わり、バルカをこれ以上虐めないでやってくれ」 「も、申し訳ございません、ニコラス様」  すっかり縮こまってしまった情けない姿に、バルカは胸がすく思いだった。  いい気味だとにやついていると、 「バルカ、私は問題を起こすなと言ったはずだが?」  と、今度はこちらに咎めるような声が飛んできた。 「問題なんて起こしてねえ。ちょっと訓練してただけだろ」  剣先を二階のニコラスへと向け、バルカは挑発的な笑みを浮かべた。 「次はあんたが相手してくれてもいいんだぜ? 高みの見物してねえで降りてこいよ、王子サマ」  うっかり殺しちまうかもしれねえが、と心の中で呟く。  しかし、ニコラスは挑発に乗らなかった。 「遠慮しておく。私も多少は剣術の心得があるが、お前には到底敵うまい」 「そうかい、そりゃ残念」 「魔法を使ってもいいなら、話は別だが」 「いいわけねえだろ、卑怯者」 「卑怯? 戦場で敵兵が正々堂々と勝負してくれると思っているのか?」 「……本当にいけ好かない奴だな」  吐き捨て、バルカはニコラスに背を向けた。    ■ ■ ■  他の騎士たちのバルカに対する反応も、ギデオンとそう変わらなかった。ロイのように親切にしてくれる人間はごく稀な存在だ。  今日のギデオンとの一件のように、このまま城で暮らしていれば今後も何らかの嫌がらせを受けることになるだろう。覚悟はしている。それがオルグという存在だ。人間社会に受け入れられることはない。  心も体も傷付けられ、ぼろ布のように捨てられるだけ。だから、多くを望まない方がいい。  この日の職務を終え、バルカは自室へと戻った。  途端に気疲れが押し寄せてきた。着替えもせず、力なく寝台の上に横たわる。  ここは近衛騎士のために用意された部屋だ。廊下を挟んだ向かい側にニコラスの自室がある。そこに比べると三分の一以下の広さだが、それでも一人で過ごすには十分ほどの場所を与えられている。  長年狭い牢屋で暮らしてきたバルカにとってみれば、なんだか落ち着かない気分だった。自分だけの部屋で、手枷も足枷もなく生活できるこの環境が、どうにもしっくりとこない。  まるで、中途半端に飼い殺しにされている気分だ。  ふと思う。  いつになったら、オルグは自由を手に入れられるのだろうかと。  今なお捕縛されている仲間たちに思いを馳せながら、バルカは目を閉じた。  瞼の裏に、過去の記憶が浮かび上がる。  奴隷市場で売り飛ばされた日のこと。  鎖で繋がれ、鞭で叩かれながら、まるで見世物のように街中を歩かされた。  剣闘士の養成所に買われてからのこと。  不衛生な石牢に閉じ込められ、昼間は炭鉱で働かされ、夜は剣の訓練を強いられた。休む暇はほとんどなかった。  初めて同胞を殺めた試合のこと。  剣を握る手が震えた。  相手の男は、血を吐きながら生き別れた家族の名を呼び続けていた。  彼が事切れる瞬間を、直視することはできなかった。  そして、反乱を起こした日のこと。  皆で牢獄から抜け出し、館に火をつけた。燃え上がる建物から逃げ出す最中、養成所の主人を手にかけたのは、自分だった。  積年の恨みを晴らすかのように、滅多刺しにした。  ドルガ帝国軍との決戦のこと。  次々と首を刎ねられる仲間たちを尻目に、涙を流しながら、唇を噛みしめながら、双剣を振るい続けた。  振り返れば、厳しい道のりだった。  戦っても戦っても、自由は遠い。オルグは一生奴隷の身分から抜け出せない運命なのだろうかと、考えるだけで憂鬱になってしまう。  なんだか眠れなくなってきた。  いつもこうだ。この城に来てから、ずっと。夜になると余計なことを考えてしまい、寝付けなくなる。そのせいで、昼間は欠伸が止まらない。  広すぎる寝台の上で寝返りをうったところ、不意に、扉を叩く音が聞こえてきた。 「……誰だ?」 「私だ」  ニコラスの声がする。  バルカは起き上がり、寝台を抜け出した。  扉が開き、寝巻きの羽織りを纏ったニコラスが現れた。湯浴みを済ませたばかりなのか、金色の髪が少し濡れている。  その無防備な姿に、ふと、最初の夜の出来事がバルカの頭を過った。  こんな時間にそんな格好で部屋を訪ねてくるなんて、目的はひとつしか考えられない。  この男は、また自分に性奴隷としての役目を強要する気なのだろう。  身構えたバルカだったが、 「喉が渇いた」  という彼の一言に、拍子抜けしてしまった。 「はあ?」 「紅茶が飲みたい。そこに道具があるだろう。暖炉で湯を沸かして、その器の中に入れればいい」 「そんなの、城の召使いに頼めよ」 「わざわざ呼びにいくのが面倒だ。お前の部屋がいちばん近い」 「……ったく、偉そうに」  バルカは渋々従った。言われた通り紅茶を淹れてから、「ほらよ」と乱雑に器を差し出す。  ニコラスは向かい側の椅子に腰を下ろし、それに口をつけた。 「不味い」  「文句言うな」 「仕方ない、私が手本を見せてやろう」  ニコラスがパチンと指を鳴らした。  次の瞬間、テーブルの上に二つのカップが現れた。どちらの中にも紅茶が入っていて、湯気を立てている。  むかつく男だな、とバルカは舌打ちした。 「魔法が使えるなら最初から自分でやれよ。夜中に起こしやがって。迷惑な奴だ」 「起きていたくせに」  図星を突かれ、バルカは押し黙った。 「この茶葉には、鎮静効果のある薬草が調合されている。よく眠れるぞ」  そう言って、ニコラスが片方のカップを差し出してきた。  渋々受け取り、口をつける。舌に広がる味には、確かに少し薬草の風味が感じられた。 「うえ、まず……その辺の雑草を絞ったような味だ」 「文句を言うな」  妙な気分だった。  この男と自分は、こうして顔を突き合わせて紅茶を飲むような仲ではない。何とも言えない居心地の悪さを感じながら、バルカは器の中身を一気に飲み干した。  ふと視線を上げると、向かい側に座るニコラスの脚が目に入った。足を組んだ拍子に羽織りの合わせが乱れ、そこから白い太腿が剥き出しになっている。  その太腿には、古い傷痕が刻まれていた。  かなり目立つ傷だが、伽の最中には気付かなかった。あのときは彼の背中しか見えなかったから。 「……その傷、どうした?」    ふと気になり、バルカが尋ねたところ、 「ああ、これか。昔、賊に襲われたときにな」  と、ニコラスは曖昧に答えた。 「賊ねえ。……ま、敵が多そうだもんな、あんた」 「否定はしない」  バルカの嫌味を、ニコラスは涼しい顔で受け流した。可愛げの欠片もない男だな、と心の中で悪態をつく。  紅茶を飲み干したところで、 「邪魔したな」  と、ニコラスは腰を上げた。 「……は? そんだけ?」  本当に紅茶を飲みに来ただけなのか。  驚くバルカに、ニコラスが「なんだ」と眉を顰める。 「いや、なんでもねえ。早く帰れ」  身構えていた自分が馬鹿らしく思えてきた。  ニコラスが退室したところで、 「なにしに来たんだ、あいつ……」  独り残され、バルカは首を傾げた。ただお喋りしに来たとは思えなかった。  ふと、ひとつの答えが頭を過る。  もしかして、あいつ、俺が眠れていないことを知って――? 「……いや、まさかな」  寝台に横になりながら、バルカは軽く首を振った。  そんなはずはない。そんな温情を、奴のような人間が持ち合わせているわけがない。  浮かんだ答えをすぐに打ち消し、バルカは目を閉じた。紅茶のおかげか、今度はすぐに眠りについた。

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