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3章 ニコラス・ハーウェンベルクという男
城での生活は思いのほか気楽なものだった。奴隷の身であることを時折忘れてしまいそうになるほどに。
騎士の範疇を超えた雑用を命じられることはあれど、最低限の尊厳は守られていた。てっきり毎晩のように伽を命じられるものだと思っていたが、性奴隷としての仕事を強要されたのは、どういうわけかあの夜だけである。
元より一度味見するだけのつもりだったのろうか。理由はどうあれ、抱きたくもない男を抱かなくて済むのだから、バルカにとっては好都合だった。
日中は近衛騎士として、謁見や視察などといったニコラスの予定に付き従うことが多いが、彼が自室に籠って執務をこなしている間は特にすることもなく、バルカは好きなように過ごしていた。腕が鈍らないよう剣の訓練に励むこともあれば、暇潰しにロイの仕事を手伝うこともある。
今日は城下町の見回りに同行させてもらうことになった。
奴隷の身分で暢気に外出など、ニコラスには強く反対されるだろうと身構えていたのだが、意外にもあっさりと許可が出た。
「ちょうどいい機会だ、ロイに街を案内してもらえ。いろいろと学びがあるだろう」
と送り出す主に、バルカは面食らった。仲間を見捨てて逃げ出すことなどしないだろうと高をくくっているようだ。
ロイと連れ立って街へと繰り出すバルカの心は、少しばかり弾んでいた。手枷も足枷もなしにこうして街中を散策するのは生まれて初めてのことである。
とはいえ、愉快な時間とは言えなかった。
城門を出た先に待っていたのは、オルグに対する忌避や侮蔑の数々。
「……それにしても、嫌な目で見てきやがるぜ」
街の人間は皆、バルカの姿を見ると表情を変えた。露骨に眉を顰める者や睨み付けてくる者もいれば、珍しいものでも見るかのように遠巻きにじろじろと眺める者もいる。
不快な視線を浴びる度に舌打ちを零していると、ロイが苦笑した。
「まあ、仕方ないさ。この国ではオルグは不吉の象徴なんだ。野蛮で狂暴な種族だから近付いてはいけないって、子供の頃から教えられてる」
「教育が行き届いてんな」
次の瞬間、頭に何かが直撃し、バルカは「いてっ」と声を上げた。
振り返ると、みすぼらしい格好をした子供が立っていた。
「オルグの化け物め! 街から出ていけ!」
叫びながら、バルカに向かって小石を投げつけてくる。
「何しやがる、このクソガキ!」
一喝すると、子供は尻尾を巻いて逃げていった。
ロイは笑っている。
「――と、まあこんな風に、近衛騎士の制服を着ていても喧嘩を吹っ掛けてくる奴がいる。気をつけろよ」
「嫌な国だぜ、まったく」
中央広場、大通り、教会、市場、貧民街――何処へ行くにも街の人々の不躾な視線がバルカに絡みついてくる。この国のオルグへの偏見は相当根深いようだ。
城下町を一通り見て回ったところで、
「――次は、ここだ」
と、ロイが足を止めた。
最後に辿り着いたのは、街の東側にある大きな二階建ての店。
「って……ここ、酒場じゃねえか!」
「そうだ。仕事終わりに一杯やろうぜ」
という暢気なロイの提案に、思わず溜息が漏れる。
「あのなぁ、俺はこれでも奴隷の身なんだぜ? こんなとこで酒飲んでるのがバレたら、あのクソ王子にどんな仕打ちを受けるか……」
バルカの言葉を、ロイは軽く笑い飛ばした。
「大丈夫、大丈夫。あの御方はこんなことじゃ怒りゃしない」
「……適当なこと言いやがって」
「ほら、行くぞ」
ロイに連れられ、店へと足を踏み入れる。
まだ日も暮れていないというのに、酒場は大盛況だ。飲み比べの勝負をしている者もいれば、数人で賭け事に興じている者もいる。そんな男たちに声を掛ける娼婦の姿も見受けられる。
彼らのバルカに対する反応は、おおよそ街中と同じようなものだった。
「この国で普通に接してくれる人間はあんたくらいだな、ロイ」
思えば、彼は始めから親切だった。面倒を見るようにと王子に命じられていることを差し引いても、この男からは不思議とオルグへの差別意識が感じられない。
「あんた、オルグが嫌いじゃないのか?」
「ま、俺も育ちがいいわけじゃないからさ。どっちかと言えば、お前と同じで石を投げられる側だ」
「へえ、そうなのか」
「貧民街の生まれなんだよ、俺」
親もおらず、子供の頃から盗みを繰り返して飢えを凌いでいたのだと、ロイは自身について語った。この朗らかで気さくな青年にそんな過去があったとは。人は見かけによらないものである。
「ほら、乾杯」
隅の席に座り、ロイが杯を掲げた。バルカもそれに応じた。人々の視線は気になるものの、酒場のこの賑やかな雰囲気は嫌いじゃなかった。
オーク材のテーブルを囲んで葡萄酒を呷っていると、
「なあ、バルカ……王子とはマジでヤッたのか?」
と、ロイが小声で問いかけてきたので、バルカは思わず酒を噴き出しそうになった。
「……ったく、この国の騎士は醜聞好きばっかだな」
咳込みながら言葉を返す。
ギデオンといい、この男といい。口を開けばすぐに下世話な話が出てくる。
ロイは身を乗り出した。
「そりゃ気になるさ。なんせ、あのニコラス王子の近衛騎士なんだから」
「どういう意味だ」
「王族には必ず一人以上、専属の騎士がいる。だけどニコラス王子はな、これまでずっと近衛騎士を付けなかったんだ」
「何故だ?」
訊けば、ロイはさらに声を落とした。
「まあ、これは有名な話なんだが……ニコラス様は十七歳の時に、賊に攫われたんだ」
「賊……?」
そういえば、とバルカは思い出した。
前に、ニコラスの口からそんな話を聞いた。あの脚の傷――昔、賊に襲われたときのものだ、と。
「しかも、裏でその手引きをしたのが、当時のニコラス王子の近衛騎士だ。王家に忠誠を誓った騎士が裏切ったんだ。ニコラス様の紅茶に薬を混ぜて眠らせ、城から連れ去ったんだって」
「どうしてそんな真似を?」
「賭け事に手を出して借金が払えなくなって、賊の誘拐計画に乗ちまったって話だよ」
「……なるほどな」
つまり、王子を誘拐して国を強請り、大金をせしめようとしたわけか。
「けどな、それだけじゃ済まなかった。連中は監禁していた王子に手を出したんだ。今も美人だけど、若かりし頃のあの人はそりゃもうどこぞの令嬢のように美しかったらしい。捜索隊が見つけたときには、王子は三人の男に犯されてる最中だったって」
バルカは眉を顰めた。
「……それは、胸クソ悪い話だな」
あの男のことは嫌いだが、さすがに同情せざるを得ない。
ロイの話によれば、その後、捜索隊によって二人組の賊は切り捨てられ、手を貸した近衛騎士は投獄されたという。今も牢屋の中にいるそうだ。
「この事件のせいで、当時のニコラス様は人間不信に陥ってさ。何年もの間、自室から出られないほどだった。兄のダリアス王子が心配して、いろんな場所へ連れ出してやってたらしい」
知らなかった。あの男が過去にそんな目に遭っていたとは。
バルカは「だから性格があんなに捻くれてんのか」と嫌味を吐き、酒を一口呷った。
「この事件で、王様もショックを受けて、ニコラス様の周辺の守りを固めようとした」
大事な息子が攫われ、犯されたのだ。国王は心を痛め、二度とこのようなことが起きないよう、ニコラスに何人もの近衛騎士を付けようとしたという。
「だけど、ニコラス王子は頑なに断った。そのときにさ、王子が言ったんだ。『犯されてもいいと思える男しか傍に置きたくない。次に私が近衛騎士に任命する者は、私が体を許した男だ』って」
「ああ、そうか。それでみんな俺に興味津々ってワケか」
城の騎士たちが自分とニコラスの関係を邪推する理由はよくわかった。あの王子にとって、近衛騎士という肩書がそれなりに重い意味を持つということも。
ただ、一つだけ疑問が残る。
そんな過去がありながら、どうしてあの男は自分に抱かれることを望んだのだろうか。
思い返せば、あれは夜伽ではなく強姦だった。バルカが彼に与えようとしたのは苦痛であり、快楽ではなかった。
それなのに、あの男は少しも抵抗しなかった。
そして、バルカを罰するどころか、近衛騎士に任命し、傍に置いた。
不可解でならない。
いったいなにを考えているのか。あの男の胸の内が全く読めない。
「……まあ、それはさて置き」
ロイが話題を変えた。
「お前が羨ましいぜ、バルカ。王家近衛騎士の肩書きとその黒い制服は、俺たち騎士隊の憧れだからなぁ」
「あのクソ王子の護衛なんて、反吐が出るけどな」
バルカは顔を顰めた。
「お前もあいつの奴隷になってみろよ、どんだけ嫌な奴かわかるぜ。いつも偉そうに命令しやがって……あのいけ好かない澄まし顔、思い出すだけで腹が立つ」
紅茶を淹れろだの酒を持ってこいだの、まるで召使い扱いだ。
酒を呷りながら愚痴を零すと、ロイは苦笑を浮かべた。
「確かに、ニコラス様は少し取っつきにくいところもあるけどさ、本当は優しい人なんだよ。国民にも慕われてる」
「あいつがぁ? ありえねえ」
「頭も切れるし、この国の政治と軍事はあの人のおかげで成り立ってるようなもんだ。お前も今にわかるよ、あの人の凄さが」
「あのクソ王子が、優しい人、ねえ……」
百歩譲ってロイの言葉が事実だったとしても、それは人間に対してだけの話である。その優しさがオルグに向けられることはない。
少しでもオルグに対する恩情があれば、奴隷戦争はあんな結末を迎えなかったはずだ。
「……許せねえんだよ」
杯をテーブルに叩きつけ、バルカは舌打ちした。
「魔術なんて使いやがって、卑怯な奴め。あいつは俺達の戦士としての誇りを踏みにじりやがったんだ。絶対に許さねえ」
「そう言うなよ。あのまま攻め込んでいたら、お前ら反乱軍は無傷じゃいられなかった」
「そんなのは覚悟の上だ」
「お前らを捕まえた後、王子は魔力切れで丸一日寝込んでたらしいぞ。オルグを生かすためにそこまでしたんだ。少しは感謝したっていいんじゃないか?」
「余計なお世話だ。誰も生かしてくれなんて頼んでない。こうして捕虜にされるくらいなら、俺は戦って散りたかった」
それは自分だけでない。他の皆も同じ思いだっただろう。今も牢獄に幽閉されているだろう仲間たちに想いを馳せ、歯痒さに苛まれる。バルカは唇を噛んだ。
そのときだった。
突如、店の奥で歓声が上がった。
「くそぉ! また俺の負けかよ!」
と、嘆く男の声が聞こえてくる。
「ほら、早く寄越せ。五万デールだぞ」
賑やかな酒場の中に、一際騒がしい場所があった。
奥のテーブルだ。客が集まり、なにやら盛り上がっている。
バルカは席を立ち、遠巻きにその様子を眺めた。
二人の男が見える。カードを手に睨み合っている。どうやら賭け事の最中のようだ。その勝負の行方を、周囲の客たちが固唾を呑んで見守っている。
カードに興じている二人の男が言葉を交わす。
「あんたまさか、イカサマしてんじゃないだろうな? 魔法は禁止だぞ」
「失敬だな、ハーゲン。不敬罪で吊るし首してやろうか」
「しがない貧乏大工から五万デールも巻き上げやがって」
「なにが貧乏大工だ。私が大仕事を与えて稼がせてやっているだろう」
バルカは目を剥いた。
その二人のうちの片方は、あの王子だった。
「はぁ!?」
驚きのあまり、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
すると、ニコラスがこちらに気付いた。
「なんだ、バルカ。お前も来ていたのか」
「あんた何してんだよ、こんなところで!」
「見てわからないか? 酒を飲みながらカードで遊んでいる。お前も混ざるか?」
「混ざらねえよ!」
いったいどうして一国の王子が、こんな小汚い街の酒場にいるのか。
思い当たる理由はひとつしかない。
「あんたまさか、俺を尾行してたのか? くだらねえことしやがって……」
すると、ニコラスがむっとした表情になった。
「心外だな。私はこの店の常連だぞ」
「嘘だろ!」
「本当だぜ」
賭けの相手をしている男が口を挟んできた。
「この人、三日に一度はここにいる」
信じられない。
バルカは頭を抱えた。
お忍びならまだしも、ニコラスは顔を存分に晒している。それどころか、見るからに上等な衣裳を身にまとっている。これでは「自分はとてつもなく偉い身分である」と大声で触れ回っているかのようなものだ。いつ賊に身ぐるみ剥がされてもおかしくないというのに、当の本人は暢気に酒を呷っている。
「あんた自分の立場わかってんのか? 護衛も付けずに街に出る王族なんて聞いたことねえよ。おまけに酒場で賭け事って……」
呆れ返っていたところ、ロイが隣にやって来た。
笑いながらバルカの肩を軽く叩く。
「な? だから言っただろ? 王子はこんなことじゃ怒らないって」
「……たしかに誤解してた。こんな奴だとは思わなかった」
「酒と賭け事が趣味なんだよ、この人」
神経質で生真面目そうな見た目に反し、とんだ不良王子である。開いた口が塞がらない。
「おい、クソ王子」
強制されていることとはいえ、自分はこの男の護衛を務める立場だ。このまま夜遊びを見過ごすわけにはいかなかった。
「今すぐ城に戻るぞ」
連れ帰ろうとしたが、ニコラスは言うことを聞かない。
「嫌だ、まだ飲み足りない」
「じゃあせめて、俺の目の届くところで飲め」
「そう心配するな。私は魔術師だぞ? 自分の身くらい自分で守れる」
「だったら近衛騎士なんて必要ねえだろ。俺を解放しろよ」
尤もな反論をぶつけた、そのときだった。
「獣臭いと思ったら、オルグがいるじゃねえか!」
野太い声が店に響き渡った。
屈強な体付きの男がバルカたちに歩み寄ってくる。ずいぶんと酔っ払っているようで、男は赤ら顔だった。
「せっかくの酒が不味くなる。とっとと消えろ、奴隷」
面倒な輩に絡まれてしまったな、とバルカはうんざりした。こういった因縁をつけられるのは、オルグにとってよくあることだが。
「――そこまでにしておけ」
ニコラスが席を立ち、バルカと男の間に入った。
「酒場は楽しく酒を飲む場だ。これ以上の野暮はご遠慮いただこう」
「あ? なんだてめぇ」
男は悪態をつき、ニコラスの胸倉を掴んだ。
王子の顔を知らないということは、この男は国外から来たのだろう。これほどまでにオルグを毛嫌いしているということは、ドルガ地方の人間なのかもしれない。この酒場は宿屋も兼ねていて、二階には客室が並んでいる。酒を飲みに来る旅人も少なくなかった。
「何処の貴族サマか知らねえが、首突っ込んでくんじゃ――」
「おい」
今にもニコラスに殴りかかりそうな男の腕を、バルカはとっさに掴んだ。
「あんたの相手は俺だろうが」
「汚ねえ手を離せ、奴隷」
一触即発の雰囲気だ。空気が凍り、賑やかだった酒場がしんと静まり返った。
しばらく睨み合っていたところ、
「暴力はよくないな」
と、再びニコラスが口を挟んできた。
「そんなに腕力を誇示したいなら、ここは力比べで勝負しようではないか」
妙なことを言い出したニコラスに、旅人の男は眉を顰めている。
「あ? 力比べだと?」
「まさか、自信がないとは言うまいな?」
「ないように見えるか?」
男は乱雑に上着を脱ぎ捨て、得意げに胸を張った。人間の割に体が大きく、オルグであるバルカに引けを取らないほどの立派な体格をしている。両腕は丸太のように太い。
「貴殿が勝てば、バルカは店を出て行く。バルカが勝てば、このままここで酒を飲むことを許してくれ。いいな?」
「ああ、いいぜ。やってやろうじゃねえか」
いつの間にか店の真ん中に大きな酒樽が用意され、客がバルカたちを取り囲んでいた。皆、楽しい余興に目を輝かせ、酒瓶を片手に勝負の行方を見守っている。
なんでこんなことに、とバルカはため息をついた。
とはいえ、こうなってしまった以上、勝負を放棄するわけにもいかない。渋々、酒樽越しに男と向かい合う。
お互い樽の上に肘をつき、がっしりと手を握る。
「それでは、用意――始めっ!」
ニコラスの合図によって勝負が始まった。
いくら相手が筋骨隆々な大男だろうと、所詮は人間だ。オルグの怪力には敵わない。バルカは一気に腕に力を込めた。
歓声が上がった。勝負は一瞬だった。
「バルカの勝ちだな」
男の手の甲が酒樽に触れたところで、ニコラスが宣言した。
負けた男は悔しげに顔を顰めている。
これで静かに酒が飲めそうだ、とバルカは息を吐いた。
ところが、余興はそれだけでは終わらなかった。
ニコラスは酒場の観衆に向かって声を張り上げた。
「他に挑戦者はいないか? 参加料は一人一回、千デール! バルカに勝った者には賞金を与えよう!」
その瞬間、店の中が一気に騒がしくなった。
千デール札を握りしめた男たちが、酒樽の前にぞろぞろと行列を作り始める。
「馬鹿かあんた! なに煽ってんだよ!」
「命令だ、バルカ。絶対に負けるなよ」
「クソ王子が!」
そんな次第で、バルカはその後、三十人の力自慢たちと戦い続ける破目になってしまった。
もちろん誰一人としてバルカを負かすことはできず、いつの間にか酒樽の上は千デール札で溢れ返っていた。
さらにニコラスは、かき集めたその札を見せびらかすように掲げると、
「皆の者、聞いてくれ! 今夜はバルカの驕りだそうだ! 好きなだけ飲んでくれたまえ!」
と、再び酒場の客に向かって叫んだ。
その瞬間、店の中に歓声が響き渡った。
「おいクソ王子! ふざけんなよ!」
「ありがとよ、バルカ!」
「恩に着るぜ!」
「オルグの兄ちゃん、太っ腹だな!」
バルカの文句は客たちの喝采にかき消されてしまった。
こうなってはもう止めることはできない。店にいる客全員に葡萄酒が振舞われていく光景を、バルカは苦々しく眺めるほかなかった。
ニコラスがテーブルの上に立ち、高く杯を掲げる。
「バルカに乾杯!」
店の客たちも「乾杯!」と復唱し、酒を呷った。遠慮など一切なく、次から次へと酒樽を空にしていく。この調子では自分の稼ぎは1デールも残らないだろう。
頭を抱えていると、
「――バルカ」
不意に男が声を掛けてきた。
先程までニコラスとカードに興じていた、あの男だった。
「俺は大工のハーゲンだ、よろしく」
「ああ、よろしく」
「乾杯」
挨拶代わりにグラスをぶつけ合うと、また別の男が声をかけてきた。
「なあ、あんた、元剣闘士だったんだって?」
「まあな」
「俺はフーゴ、街で鍛冶屋をやってる。武器が必要なときは、是非うちの店に来てくれよ」
「ああ、わかった。今度行ってみるよ」
「俺はザルーハ、行商人さ。余所の特産品を仕入れて市場で売ってるんだ。よろしくな」
「どうも」
酒代を奢られて気をよくした男たちが、入れ替わり立ち代わりに声を掛けてくる。先刻バルカに喧嘩を吹っ掛けてきたあの余所者の男までもが、「さっきは悪かったな。遠慮なくご馳走になるぜ」とご機嫌になっていた。
酒の力は偉大だな、とバルカは思った。
一通り酒場の客たちと挨拶を交わしたところで、
「はあ……」
バルカは溜息を吐き、端の席に座った。
「お疲れさん」
二杯の葡萄酒を手にしたロイが寄ってきた。バルカの隣に座りながら、「ほら、お前の分も持って来たぜ」と酒を手渡す。
それを受け取ると、バルカは自棄になって中身を一気に飲み干した。
「俺が稼いだ金なのによ……」
酒場は大盛り上がりだった。まるで宴だ。飲み比べに興じている連中の姿も見受けられる。
人の金だと思って遠慮なく飲みやがって、と不貞腐れるバルカに、ロイが笑う。
「でもさ、すごいことだと思わねえか? たった一夜で、オルグが酒場の人気者になっちまった」
その一言に、バルカははっとした。
ロイの言う通りだ。
さっきからひっきりなしに、酒場の客が自分の元にやって来る。酒を片手に笑顔で礼を言い、自分と乾杯をしている。握手を求めてくる者もいれば、力比べの再戦を挑んでくる者もいる。
オルグ族であり、奴隷である自分と。
「オルグの手を握るのも、オルグに酒を奢られるのも、この街の人たちにとっては初めてのことだろうな」
「……たしかに、俺も初めてだよ」
こんな風に、人間と賑やかに酒を酌み交わすのは。
奇跡のような時間だった。
ぼんやりと辺りを眺めるバルカに、ロイが小さく笑う。
「これが、ニコラス・ハーウェンベルクの力だ」
■ ■ ■
お前も今にわかるよ、あの人の凄さが――。
ロイのあの言葉の意味が、少しだけ理解できたような気がした。
今夜の出来事がすべて計算の上だとしたら、確かにこのニコラスという男はとんでもない切れ者である。政治の中心的役割を任されていることにも納得がいく。
「うえっ、飲み過ぎた……」
城へと帰る途中、草むらに蹲った王子の背中を見つめながら、バルカはため息をついた。
「……ったく、品のない王子サマだぜ」
ふらつきながら歩くニコラスを引き連れ、城門へと向かう。
「この国の近衛騎士って言葉は、“酔っ払いの介抱役”って意味なのか?」
「お前は平気そうだな。あれだけ皆に飲まされていたのに」
あの後、力比べで勝てなかった男たちが、今度は飲み比べで勝負しようとバルカに挑んできた。もちろん全員を返り討ちにしてやったが。
「あれくらいじゃ酔わねえよ。オルグの体は人間とは作りが違うからな」
「ペニスもデカいしな」
「……マジで品がないな」
少しでも見直した自分が馬鹿だった。
まったくこの王子は、と開いた口が塞がらない。高貴な身分と小綺麗な顔を持ち合わせておいて、中身はその辺のごろつきと変わらないじゃないか。
「勝ったからいいけどよ、もし俺があの勝負に負けてたら、どうするつもりだったんだよ」
「そのときは――」
ニコラスはパチンと指を鳴らしてみせた。彼が魔術を使うときの仕草だ。
「私が手伝うつもりだった」
「……イカサマじゃねえか」
やはり不良王子である。バルカはさらに呆れた。
寝静まった城に戻り、自室まで送り届けたところ、
「バルカ、これを返しておく」
と、ニコラスが何かを押し付けてきた。
それは、千デール札の束だった。
「この金、まさか――」
「ああ。店の客からお前が巻き上げた金だ」
ざっと見たところ、全部で二十万デール以上はあるだろう。
「今夜の酒代に消えたんじゃなかったのか?」
「店には私が払っておいた」
バルカは驚き、目を見開いた。
「なんで――」
「お前の右腕が稼いだんだ。お前の好きなことに使え」
それだけ言い残し、ニコラスは部屋に戻っていく。
戸惑いを覚え、バルカはその場から動けずにいた。
こんなこと、初めてだ。
何かをした代わりに報酬をもらうことは、オルグの世界では当たり前ではなかった。
無償で働き、剣闘士として命を懸けて戦う。どれだけ勝利を重ねようと、金貨の一枚ももらえない。それが常だった。
薄っぺらい紙の束が、やけに重く感じる。あの頃は、こうして紙幣に触れることすら許されなかった。
「……何なんだよ、あいつ」
血も涙もない男だと思っていた。それなのに。
急にこんなことをされると調子が狂ってしまう。
両手に札束を抱えたまま、しばらくの間、バルカはその場に立ち尽くした。
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