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第4話 2-1
フジキは参っていた。先ほど届いたメールをもう一度確認する。何度見てもその内容は変わるはずはないのだが、確認を繰り返し現実を何とか受け入れようとしていた。
フジキは社内でも優秀な男である。面倒見もよく後輩からは慕われ、上司からも頼りにされていた。外見も落ち着いたダークブラウンの髪色と瞳をしており、そこには知的さと親しみやすさが織り交ぜられていた。そんな雰囲気をもつフジキは女性からの人気も高かったが浮いた噂は一切なかった。彼には昔から心に決めた、ただ一人の女性がいた。
「予定が変わり、▼▼▼まで行くことになった。もうすぐ、夢が叶う。応援してね。」
届いたメールは女性にしては簡潔にこう綴られていた。本当は明日、彼女はフジキの元に帰ってくる予定だった。彼女が仕事を優先してフジキとの約束を反故にしたのはこれで何度目だろうか。深くため息をつきそのまま歩き続ける。なんだか急にどっと疲れを感じ、目の前のカフェに入り気持ちを落ち着けることにした。
店内は程よく込み合っており、テーブル席は埋まっていた。通りに面したガラス張りのカウンター席が数席空いていたので、頼んだ飲み物を手に席に着く。一口飲むと体に暖かさがしみわたる。何とか気持ちを切り替えようと何気なく外のほうに目をやると、いきなりフジキの正面に間近で手を振る者がいてドキッとした。風になびく黒いサラ髪からは今にも良い香りがしそうだ。強い風から守るように髪を押えながら美しい微笑みを湛えている。そこにはカツラがいた。
「フジキさん!」
こんな所でまさかカツラに会うと思ってもいなかったフジキは、一瞬彼にまた目を奪われてしまった。はっと我に返りカツラに手を振り返す。
「カツラ君。」
お互いの声がガラスごしにくぐもって遠くに聞こえる。
カツラはそのままカフェに入ってきて、あろうことかフジキの隣の席に腰を下ろした。さっと入って来た新しい客に何気なく視線を向けた者たちが彼を二度見する。カツラはそんなことを全く気にする風でもなく、気さくにフジキに話しかけてきた。
「お久しぶりです。しかもこんな所で会うなんて。休憩中ですか?」
カツラの存在は周りの注目を集める。そんな様子に一人あたふたしながらフジキが答える。
「うん、まぁそんなところ。カツラ君は?」
よく見るとカツラは『desvío』の制服を着ている。手にはどこかの店の袋を持っていた。
「買い出しです。今日はこっちの店にしか売っていない物が必要だったから。」
カツラが形の良い瞳でフジキをじっと見る。こんな至近距離で見つめられるのは初めてだ。同性であることも忘れ、彼の瞳に吸い込まれそうになる。フジキが背中に冷や汗を感じ始めたときにカツラが発言した。
「フジキさん、何かありました?すごい怖い顔していました。」
「え?そんな変な顔してたかな?」
カツラ君はやっぱりするどいな。フジキは笑ってごまかした。フジキは先ほどのメールの相手、恋人のカリンのことを考えていたのだ。
「変な顔じゃなくて怖い顔です。」
「いやぁ。参ったな。」
なんとか話を逸らそうと考えを巡らせるが答えが出る前にカツラから意外な一言を掛けられる。
「俺でよければ聞きますよ?フジキさんにはタイガがよく世話になっていますし。」
カツラはそう言って優しく微笑んだ。この微笑みはやばかった。何でも話してしまいそうになる。一瞬口を開きかけたフジキであったが、何とか耐えることに成功した。
「大丈夫。仕事でちょっとね。ありがとう。」
「そうですか。」
カツラはその後、しつこくこの件について絡むことはせず、2人他愛ない話をし店を後にした。思いがけない衝撃を受けたせいか、人と話したせいか、会社に着くころにはフジキの気持ちはいくらか良くなっていた。
この週末、フジキは自分の元に帰ってくるカリンのためにホテルを予約していた。そこで彼女にプロポーズをするべく計画を立てていたのだ。しかしカリンは仕事のためここには帰ってこない。プロポーズのために用意していたものはすべてキャンセルしなければならなくなった。「いったいカリンは自分のことをどう思っているのだろうか。」ここ最近ずっと独り相撲をしている自分が情けなくなってくる。フジキにとっては夢を思い描いていた週末は最悪の週末となってしまった。
月曜日、あれからカリンからは連絡はない。彼女はいつも必要最低限しか連絡はしてこない。気づくとまた以前カツラと偶然会ったカフェに入っていた。「やはり聞いてもらえばよかったか。」そんな風に思ったからかしばらくそこで時間を費やした。しかし、その日はカツラは現れなかった。「いったい何をやってるんだ、俺は。」
思春期に恋をした少年のように自分の胸の思いを誰かに聞いてほしいなんて。気持ちを切り替え店を出たところで会社の取引相手から連絡が入った。すぐにパソコンの内容を確認する必要がある。さっきまでは店にいたのにと悪態をつきながらなんとかパソコンを開ける所を見つけ内容を確認しながら作業をする。数分そうしていたが、拉致があかない。またどこか店に入って腰を落ち着けて取り掛かるしかないと思っていたら、声を掛けられた。
「あれ?フジキさん?」
振り返ると優しく微笑むカツラが立っていた。
「忙しそうですね。大丈夫ですか?」
数分後、フジキはカツラと一緒に『desvío』にいた。フジキの経緯を話したら、カツラが店を使っていいと言ってくれたのだ。今日はお決まりの臨時営業の日らしい。今いる場所は会社よりも『desvío』のほうがかなり近い。厚かましいとは思ったが、急ぎの件でもあったので、カツラの言葉に甘えさせてもらった。
店内にはフジキとカツラしかいない。カツラはフジキを気遣い厨房のほうで仕込みをしているようだ。僅かに聞こえる音が妙に落ち着く。
フジキは奥のテーブル席で気付けばかなりの時間、仕事に没頭してしまっていた。仕事にある程度目途が付くと不意に無性にカリンの顔が見たくなった。
普段は家でしか見ないパソコンに保存してある彼女の写真を画面に映す。こちらに向けて明るい笑顔を向けているカリン。1年ほど前に会ったときに撮ったものだ。写真の中のカリンは黒く長い髪を風になびかせて目を細めて笑っている。白い肌に彼女の黒髪と黒い瞳が映える。
「綺麗な人ですね。フジキさんの彼女ですか?」
声に驚きパソコンを思い切り閉じ後ろを振り返る。カツラが今しがたのフジキの反応に言葉を失っていた。
「ごめん。急に声を掛けられたから、びっくりしてしまって。」
「あの...。声は何度かかけたんです。フジキさん、大丈夫ですか?」
「え?」
声をかけられていたとは全く気付かなかった。このところ、フジキの仕事自体も忙しかった。しかし、カリンに会えることだけを楽しみになんとかやってこれたのだ。積もり積もった今までの精神的な疲れもあり、フジキはカツラに優しく声をかけられ自然と目頭が熱くなった。カツラの目にフジキの姿はどう映っていたのだろうか?
「フジキさん。」
カツラが歩み寄りそっと肩に手を置いた。服の上からも伝わる暖かい手だ。
「すまない、カツラ君。情けないところ見せてしまって。」
「そんなことないです。一人で抱える必要ないんです。」
フジキはその後、ポツリポツリとカツラに最近起きた出来事、主にカリンのことを話し始めた。
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