34 / 215
第34話 5-1
「久々に現れたんじゃないですか?」
厨房でホリーと一緒に仕込みをしながらウィローが話し出した。
「現れたって?」
「カツラさんのファンですよ。」
「ああ。」
最近カツラ目当てで店に来るあの子のことかとホリーは理解した。
「どうなのかしら?カツラの友達の友達なんでしょ?いつもの感じと違う気はするけど?」
「確かに。カツラさんが結構きつい言い方しているのを聞いたことありますが、彼女の方は全然こたえていないようで。」
「友達だからでしょ?それ、もう少し細かく切らないとだめよ。」
「あっ、すみません。」
他愛のない話をしながら仕事をてきぱきとこなしていく。「今日は平日なので店に出る人数が少ない。早くここでの作業を終わらせて店内の方の準備をしなければ。」ホリーは時計を確認した。
「ウィロー、ここの残り、お願いしていい?」
「了解です。」
ウィローは覚えが早い。仕込みの方はもうほぼ一人でできるようになっていた。あいつの指導が良かったとは認めたくないけど、やはりあらゆる面で優秀なのだ。あいつは今日は休みだから、例のあの子がもし来たらまたおなじみのセリフで帰るのだろうか?「あいつのせいで私まで噂好きになってしまった。」
ホリーは『desvío』で働き出したころは人間不信でボロボロだった。彼女はこの店で働く前はカフェで社員として働いていたのだ。世界的に展開している有名なカフェで、一緒に仕事をしているメンバ―達も自分たちの仕事に誇りを持っている者たちが多かった。
ある日、新店舗をオープンするため、その立ち上げメンバーの一人としてホリーは異動することになった。新店舗のホリーの直属の上司は同じ女性でやり手の人だったが、数字を気にするあまり会社で決まったマニュアルを無視して、いかに早く客に商品を提供できるか、その日いかに多く回転させ売り上げをとるかということに重きを置いていた。
オープニングンメンバーは圧倒的に女性が多かった。男性は数名。上司からのプレッシャーはみんな感じていたが、オープンから数か月は和気あいあいと仲良く仕事をし、楽しい職場になっていた。中には数人、仕事以外でも一緒に出かけランチや遠出などをして関係性を深めていった。
「ホリーって彼氏いるの?」
職場の仲間とお茶をしたときに尋ねられた。
「いるわよ。同棲してる。」
「そうなの?いいなぁ。彼氏、どんな人?」
「ずぅっと論文書いてる。大学に所属しているの。」
「そうなんだ?稼ぎってどうなの?」
彼女は悪い子ではないのだが噂好きなのだ。結構ずばずば聞いてくる。彼女の質問には適当に答え話を逸らす。うっかり話してしまって噂をたてられたらたまらない。
職場の仲間は彼女のようにおしゃべり好きな子が多いがみんな愛想がよくいい子たちだとホリーは思っていた。
数か月がたち新店舗が軌道に乗り出したころ、次へのステップアップのためにホリーは試験を受けることになった。そのための勉強を仕事の合間に狭い事務所でしなければいけない。この店で試験を受けるのは自分一人と思い事務所に入ると先客がいた。
「お疲れ様です。」
職場では数少ない男性スタッフのアッシュがいた。
「お疲れ様。君も試験受けるの?」
「はい。」
「頑張りましょうね。」
アッシュは職位はホリーと同じポジションだが、学生の頃からこのカフェで働いていたため、年齢は年下だった。何度か一緒に仕事をしたが彼との仕事はやりやすく、できる人間なのだと思っていた。また男性のせいか噂話には全く興味がなく、ホリーとしては他のメンバーといるより気が楽だった。
この頃になると、上司からの早く提供し早く回転させるというプレッシャーのせいか接客がギスギスし、スタッフたちもストレスのためくだらない話をする者が増えていた。
ホリーは試験のため事務所でアッシュと長時間共に過ごすことが多い。そのため、仕事をしているときも以前よりアッシュと会話をすることが増えたのは自然の成り行きであった。アッシュは感じがよく、話しやすい上に見た目も悪くはない。聞いてみるとやはり学生の頃からつきあっている彼女がいるとのことだ。お互いに恋愛感情がないので余計に二人の会話が弾む。そんな和気あいあいとしたやり取りを、まさか周りから色のある目で見られているとはホリーは露ほど思わなかった。
「ホリー、彼氏がいるのにアッシュと付き合うなんて最低。」
あるとき、職場の同僚からこんなメールが届いた。心当たりが一切ないホリーは彼女に連絡をしたが無視をされた。そのまま職場に行くと、みんなの自分を見る目が今までと違っていることに気付いた。そばにいる者に聞いても素っ気無い態度で返される。ホリーはその日、職場の仲間から総シカトを受けた。なんとなく耳に入ったのは、年上のホリーがアッシュを誘惑し、関係をもったという噂がスタッフの中でまわっているようだった。こういう時、標的にされるのは男性ではなく女性である。
どうして。事実じゃないのに。ホリーは自宅に帰り、一人思い悩む。
「どうした?」
ホリーの暗い表情に同棲中の彼氏が尋ねる。
「なんでもない。論文はいい感じに仕上がってるの?」
ホリーは職場で起こったことを彼氏に相談することができなかった。彼はとても嫉妬深い人なのだ。それになんの根拠もないことで彼を煩わせたくはなかった。ホリーは自分がしっかりしているからか、好きになる相手はいつもダメ男ばかりだった。そういう男に心を揺さぶられる。これはホリーの性 だった。
「おはよう。」
「おはよう。」
かつて一緒にでかけた職場仲間は挨拶はするが目も合わせずすぐにどこかに行ってしまう。他の仲間たちも素っ気無い態度で、ホリーの精神状態は徐々に追い詰められていった。アッシュだけは他のメンバーのような態度ではなかったが、こんな噂が流れてしまったので彼と接することも躊躇われた。仕事でどうしても関わらなければいけない時も不自然な感じになってしまい、彼にも申し訳なかった。一月ほどそんな状況が続いた時にアッシュからこう言われた。
「ホリーさん、普通にしませんか?俺たちなんにもないんですから。」
「うん、そうなんだけど。」
今やホリーらしさは失われていた。
一月ほどそんな状況が続いた時のできごとだ。ホリーは店内作業をしていると、常連の女性に声をかけられた。「店内で会うのは久しぶり。しばらく顔を見なかったけど元気だった?」と。みんなから無視をされているホリーにとって、その日初めて普通の人間らしい会話だった。ホリーの目からは勝手に涙がこぼれた。「どうしたの?大丈夫?」と女性が気遣ってくれたが、ホリーは目にゴミが入ったからと事務所に駆け込んだ。
もうとても仕事ができる状態ではなかった。その日は上司に無理を言って早退させてもらった。
ともだちにシェアしよう!