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第35話 5-2
噂は上司の耳にも入ることとなり、ホリーとアッシュはそれぞれ面談をすることになった。ホリーはそこで退職の意を告げたが、事実でないのなら続けるべきだと引きとめられた。自分が去って一人残されるアッシュのことも気になったのでとりあえず仕事は続けていたが、職場の仲間とは心の距離を感じてしまい、もう以前のように接することはできなくなっていた。あれだけ長い間一緒に出掛け共に時間を過ごしたのに、男をたらし込むような女に見られていたことがショックだった。
ホリーは休みの日、久しぶりに前に働いていた店舗の様子を見に行きたくなった。あそこは楽しい思い出しかない。そっと店内の様子を見てみるととても忙しそうだ。知らない顔の者もいる。もう自分の居場所はここにはないのだと感じ店から立ち去る。
トボトボと歩いていると華やかな雰囲気の路地に出た。まだ夕方前だから閉店している店が多い。ホリーは立ち並ぶ店を一軒ずつ観察しながら歩いていく。一軒、心惹かれる建物があった。「ここ、やっているのかしら?」店の様子からして今夜これから開店する気配は感じられなかった。数分、ホリーはぼーっとしたまま店の外観を眺めていた。
「なにか用ですか?」
背後から声をかけられびくっとなり慌てて振り返る。そこにはとても綺麗な男が立っていた。彼は両手に荷物を持っている。それを目にした瞬間この店の人なのではと思い当たった。
「あの、とても素敵な建物だから。営業しないのかなって。」
「まだオープンしていないから。お姉さん、飲める口?」
男は親しみのある感じで尋ねた。「声まで綺麗。」つらい思いをしている自分を救うために神様が遣わした御使 いのような、人間離れしたオーラをまとう彼の質問に遅れて答える。
「うん。」
「じゃ、ちょっと今から少しつき合ってくれない?俺、まだ勉強中なんだ。時間大丈夫ならだけど?」
もちろんホリーには断る理由はなく、彼に言われるままに店に入った。聞けば、一か月後にオープン予定らしい。酒の種類が多く、彼は今それを必死に覚えているのだとか。自分の説明が上手くできているか、客として感想を聞かせてほしいとのことだった。
ホリーはメニュー表に目を落とした。すごい数でなにを選べばいいのかわからない。彼にそのことを伝えると自分のオススメの酒を持ってきた。
グラスに注がれる酒は白みかかったうすいピンク色をしていた。わずかな店の照明を受け美しく揺らめきながらグラスを満たしていく酒を見ていると心が落ち着いた。
「これはにごりサクラ。酵母が出す自然の色合いを活かしているんだ。やや甘口で口当たりのよいまろやかな味わい。後味も爽やかな酸味で女性向きの酒だ。」
「すごい!」
彼の説明は滑らかで初心者だとは思えなかった。きっととても勉強したのだろう。
「いただきます。」
口の中に広がる味は彼が説明したままのものだった。とても美味しく一気に飲み干してしまう。
「すごいな。次はどうする?」
「じゃ、あれ!」
ホリーは適当に棚に並んだ膨大な数の酒の中から一つを指さした。
「これ?」
彼が酒を確認する。
「うん、そう。」
また酒がグラスに注がれ彼の説明を聞く。彼は難なくスラスラと説明をした。このやり取りは楽しかった。クイズのようであり、その後には答え合わせで美味しい酒が飲めるのだ。気づけばホリーはかなり酔っていた。
「私って軽い女に見える?男をたらし込むような。」
今まで誰にもこぼさなかったここ最近の愚痴が酒のせいで出てしまった。
「お姉さん、泣き上戸?」
「お姉さんお姉さんってうるさいわね。そんなに年ちがわないでしょ!」
「俺、21だけど?」
「えっ!」
彼はアッシュの年齢と同じだった。
「確かにお姉さんね。私、24だもの。」
「だったら名前教えて。そうしたら名前で呼べる。俺はカツラ。」
「御使いじゃないの?」酒のせいでホリーの頭は混乱していた。
「ホリー。」
「ホリー。酒の勉強につき合ってくれたお礼に話を聞くよ。言ってごらん。楽になるから。」
カツラは聞き上手だった。黙ってホリーの話を聞いてくれた。一通り話し終わってすっきりしたホリーは久々に安らいだ気持ちで眠りについた。こんなにゆっくりした気持ちは久しぶりだった。
なんだかとてもいい匂いがする。でもこれは彼の匂いじゃない。ホリーは自分が今どこでなにをしているのか記憶が飛んでおり、早く目覚めなければと思い意識を集中してようやくパチッと目を開ける。ホリーの前には黒髪が見えた。ホリーの彼の髪は明るいブラウンだ。
「えっ?」と思い自分の状態を確認する。裸だった。その瞬間昨日のことを思いだす。「そう、お酒飲んで、それで、それで...。」おそるおそる昨夜の情事の相手の顔を確認する。美しい横顔。彼の白い裸の肩がシーツから見えている。
「カツラ?」
朧げに覚えている彼の名前を口にした。
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