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第37話 5-4
ホリーは今日は遅番だったので、店に着くと既に仕込みが始まっていた。店内には食欲をそそるいい匂いが充満している。
「おはようございます、ホリーさん。」
「おはよう、ウィロー。」
「うん、それいい感じね。」
ホリーはウィローが今手にしている料理を確認する。
「おはよっ。」
澄んだ声、嫌なやつだけど一瞬でもこの声に救われた。そして今の環境を与えてくれたのは彼だった。
「おはよう。結構準備終わってる?」
ホリーはカツラに確認する。
「ああ。」
今夜も楽しい夜が始まる。仕事時間をこんなふうに思えることにホリーは自分は恵まれていると思った。
『desvío』で働く仲間もいい人達ばかりだ。店長の人柄も良く何の問題もなかった。カツラという強烈な存在がいるせいか、いつも人間関係で問題が起きるときは彼が関わっている。ドラマの世界のできごとのようなことが実際目の前で繰り広げられるのはある意味刺激的だった。ホリーはいつも外野で高見の見物だ。
以前の職場では意に反して渦中の中心人物になってしまった時は精神がボロボロだったが。それに比べこのカツラは自分を中心に次々と起きるできごとに全くの無関心でいつも飄々としている。その姿勢はある意味尊敬に値するとすら思った。
ホリーは自分が働き始めたときのことを思い出していた。
「あの…、私、彼氏がいるから。」
『desvío』で働き始めて間もないころ。ホリーを口説こうとかなりしつこい嫌な客がいた。ホリーは客の機嫌を損ねぬように遠まわしに対応するが、この客が全く引かない。先程からずっと同じようなやり取りで、ホリーも堪忍袋が限界に達しようとしていた。
「ホリー、本当にかわいいな。飴色の髪と瞳がとても綺麗だ。彼氏には内緒にしておけばいい。な、この後一緒に行こう?すごくいい店知っているから。」
「あー、もう無理。引っ叩いてやりたい。」ホリーは自分の無力感に涙が出そうになる。変なことをして店には迷惑をかけられない。
「お客さん、この酒飲んでみて。酒がわかっているようだから特別に。」
カツラが酒が入ったグラスを客に勧めた。高い酒にしか使わないこだわった形のグラスを使っている。
「ん?」
出された酒に客は意識を向ける。今夜はずっと厨房にいたカツラが今初めてカウンターに出てきたのだ。彼を見た瞬間、客の興味はホリーからカツラへと移ったようだ。
「この店は美人が多いなぁ。兄ちゃん、名前は?」
「カツラ。どうぞ。」
カツラは視線で先ほど客の目の前に置いたグラスを指し、飲むように促す。客はまるで催眠術でもかかったようにカツラが出した酒を一気にあおった。
「くぅ。これはうまいな。強烈な味わいだ。もう一杯もらおうか。」
カツラと客のやり取りを見て、酔いつぶすつもりなのだとホリーは気付いた。カツラがちらっとホリーに視線を移し、この場はいいとアイコンタクトをする。
カツラは自分の宣言通り助けにきてくれたのだ。戸惑いどうしようかと躊躇していると客はもう三杯目にいこうとしていた。カツラが同じ酒をグラスに注ぎ客に手渡す。その時、客がカツラの手をガシッと掴んだ。
「さっきから見とれてたんだけど、すごい綺麗な手をしている。」
そう言いながら客はカツラの手を自分のひげ面の顔に押し付けた。客は自分の標的が女から同性の男に変わったことで、行動が大胆になっていた。
ホリーは起こったできごとに目を奪われすぐにカツラの様子を確認した。カツラは静かな笑みを浮かべている。
「お客さん、かなり酔ってるね。手、放してくれないと仕事ができない。」
とても冷静な対応だ。しかし客はカツラの言葉を無視した。
「そんなこと言わないで。男同士仲良くしよう。カツラだっけ?あんたのこと気に入った。俺はけっこううまいんだぜ。」
いったい何が上手いのかとホリーが疑問に思っていたら、男はなんとカツラの細くて長い指を口に含みあの時にするように愛おしそうにしゃぶり始めたのだ。いやらしい音を立てながら一本、また一本とカツラの指が客に犯されていく。
異常な事態に金縛りにあっていたホリーはカツラの様子を慌てて確認した。彼は無表情で客を見ていた。自分のそばに残ったもう片方の手はどうすることもできない状況に力をなくしているように見える。
ホリーは急ぎカウンターを抜け、洗い場の作業をしているシュロに助けを求めた。
「シュロっ、来てっ。やばい客がいる!」
ホリーの慌てふためく様子にシュロはなにごとかとすぐに手を拭きカウンターに移動する。
「すみません。彼はあっちで仕事が残っているので。」
シュロはそう言ってちょうどカツラの小指をしゃぶっていた客の口から強い力でカツラの手を引き抜いた。
「ぷちゅっ...。」
なんとも嫌な音がした。ガタイのいい大柄の男の急な出現で、客は一変に酔いが醒めてしまったようだ。シュロを見、表情がこわばっている。
シュロはそのままカツラの腕を後ろ側に引っ張りホリーに引き継いだ。
「カツラ、大丈夫?」
厨房に移動したホリーはカツラに声をかけた。
「え?うん。ああいうのは慣れてるから。その内飽きるだろうと思って見てた。」
そう言いながら石鹸で念入りにしゃぶられた指を丁寧に洗っていく。
「あの、ありがとう。助けてくれて。」
カツラはホリーの言葉を聞き目を丸くした。
「どうしたんだ?やけに素直だな。」
「人が謝っているのにその言い草はなによっ。」
「あははっ。」といつものように笑いカツラが言った。
「やっとホリーらしくなった。あの客はシュロに任せて俺たちはここをやるか。シュロにはなんか奢ってやらないとな。」
「そうね。シュロはうちの用心棒みたいなものだし。」
「でもあいつ、俺の誘い全部断るんだ。今まで一度も出かけたことがない。」
「そうなんだ。」
おそらくシュロはカツラのことが苦手なのだ。カツラの存在は強烈だ。気にはなるけど、カツラとの距離の詰め方がシュロはわからないのだろう。自分と違いすぎるから。
「今度社員三人で飲みに行こう?」
ホリーは近いうちに計画を立てようと真剣に考え始めた。
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