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第52話 7-9
「カツラ、昨日はありがとう。」
仕込み時間にホリーがカツラに昨夜のことを言ってきた。
「え?何のこと?」
カツラはエプロンを腰に締めながら答えた。カツラは今日も厨房のはずだ。もう店内用のエプロンをつけ始めるカツラのことを不思議な目でホリーが見ているとカツラが気付いた。
「今日は俺がカウンターに出る。ホリーはここを回して。」
「え、でも...。」
カツラはにっこりと笑ってカウンタ―の方へ行ってしまった。「全く素直じゃないんだから。カツラ、ありがとう。」カツラと同じく素直でないホリーは心の中で礼を述べた。
「おはようございます。ホリーさん、今日はこっちですか。」
厨房でシュロと和気あいあいと作業をしているホリーを見、ナツメが声をかけてきた。
「ええ、そうなの。うちは当番制でやっているから。」
ホリーの言葉を聞き、「今日は誰が担当なのかしら?どっちにしろ大したやつじゃないわ。」と思いながらナツメは店内に入った。カウンターの奥、ここでは一番できる人間が担当する持ち場にはカツラがいた。
「おはよう。今日はよろしく。」
「おはようございます。よろしくお願いします。」
「この人、大丈夫なの?最近ここを担当していないみたいなことを昨日客に言われていたけど。」横目で開店準備を続けるカツラを見ながらナツメはトベラの店で仲良くなったバイトと昼間、電話で話した内容を思い出していた。
バイトの話によると、今夜トベラが閉店前に『desvío』に様子を見に来るということだった。こちらの店長とも話したいのだろう。そして、最後に彼女は気になることを言っていた。
「やっぱり恋人に会いたいんですね、社長も隅におけない。」
おそらく手伝いに来た臨時店長のことだろう。認めたくないナツメはこの店にそんな人がいるはずがないとバイトに話したが、彼女は絶対に恋人だと譲らなかった。店のみんなは全員知っているとさえ言われてしまったのだ。
ナツメは昨夜はひょんなことからホリーにダメージを与え切れなかったことが今さらながらに悔しかった。しかし、今夜ホリーはこの表側にはいない。「トベラさんには私の方が優秀だってところを見てもらえばいいだけだわ。」トベラに淡い思いを抱くナツメの闘志は燃えていた。
昨日とは異なる常連が奥へとやってくる。彼らはみな目新しい幼い少女のような雰囲気のナツメを見て興味を寄せる。カツラはお手並み拝見とナツメのやりたいようにやらせ、自分は一歩引いて様子を見ていた。ナツメは自分の持っている酒の知識をふんだんに使い気分よく接客をしていく。
「カツラ、なんか締めにいい酒ないかな?」
今夜最後の客がカツラの意見を求めた。
「そうだな。」
カツラは今夜この客が食べたもの、飲んだ酒を思いだしていた。彼には...。
そう思った瞬間ナツメの声がした。
「締めにはこちらの酒がいいですよ。ウイスキーですが、癖の強い香りがほとんどないので非常に飲みやすいです。蒸留を三回行なっているのでクリーンでライトな口当たりという特徴があります。」
ナツメから飛び切りの笑顔で勧められ客が少々困っている。
「えっと、カツラが勧めるのは?」
「やっぱりこれかな。白芭蕉。米のうまみを凝縮し米の表現の可能性に挑戦した酒。食後に会う酒をコンセプトに作られたものだから。口に含んだ瞬間フルーティな味わいが楽しめるのも魅力だ。」
その日初めてスラスラと酒の説明をするカツラにナツメは驚きを隠せない。そして肌で感じた。「この人、酒に詳しい。」
最終的には個人の好みの問題になってしまうということで、飲み比べをするために客は小さなグラスに入った二人が勧めた酒を一口ずつ飲んでみる。
「今回はカツラに軍配かな。ナツメちゃんごめんね。」
申し訳なさそうに客がナツメに謝った。
「いえ。」
初めて酒のことで負けた。ナツメはショックだった。
この客が満足して帰った頃、ちょうどトベラが来た。今カウンターにはナツメ一人だ。他のメンバーは裏方の片づけをしていた。ナツメは一人放心状態で、一点をぼーっと見つめたまま同じグラスをずっと磨いていた。
「ナツメ、どうだ?しごかれてるか?」
「トベラさん。」
トベラに会えて嬉しいが、つい先程の勝負のことが納得できずに暗い表情になってしまった。
ナツメの様子をトベラが気付かないはずがなかった。
「何かやらかしたのか?」
トベラがナツメに尋ねたときに、ちょうど厨房からカツラが店内に出てきた。
「トベラさん、こんばんは。店長なら事務所ですよ。」
カウンターに戻っカツラはナツメの様子を見てトベラを信じられないという目で見た。
「泣かしたんですか?」
「おい、滅多なこと言うな。俺が来る前からだ。」
「違います。すみません。でもどうしても納得がいかないんです。さっきのお客さん、どうして私のでなくて、カツラさんの酒を選んだのか。」
「さっきのあれ?」
カツラが何だそんなことかという感じで答えるのを見て、トベラが言う。
「お前、いい加減なやつだな。しっかり研修してくれと頼んだだろ。」
「そうでしたっけ?」
ナツメが仲睦まじい二人のやり取りを見てぽかんとしているとカツラが気付き説明を始めた。
「一般的には、さっき君が勧めた酒が正解だ。でも彼は今夜何を飲んでた?何を食べてた?彼は常連だから大体の好みも俺は知っている。それで彼は俺に酒の意見を求めたのさ。酒の知識は大切だ。あるに越したことはない。でも人それぞれには背景がある。そこを接客しながら探っていってその人だけの好みの酒が見つかる手伝いをするっていうのかな。」
カツラは細いあごに綺麗な指を置いて首を傾けて珍しく酒についての自分の考えを話した。
カツラの話を聞いてナツメは自分が恥ずかしくなった。頭でっかちになって、持っている酒の知識を見せびらかしていただけなのだ。特に相手は常連だったのに、客の背景なんて考えたこともなかった。
少し申し訳なく思い、ナツメはトベラの顔をちらっと見た。トベラはカツラのことを愛おしそうな眼差しで見ていた。
「その通りだ。さすが、俺が店長にと見込んだだけのことはある。」
「えっ!」
ナツメの驚きの声にトベラとカツラが同時に顔を向けた。
「店に手伝いに来ていたのは...カツラさん?」
「そうだ。」
「そうだけど。」
端的にトベラとカツラが答えた。ナツメはカツラを改めて見た。
とても綺麗な人、酒の知識が豊富、仕事ができる、トベラさんの恋人...。みんなの言う通りだとナツメは納得した。
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