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第86話 10-7

 フジキが帰りの送迎バスの時間を確認するために一階へと降りて行った。タイガもレストルームに向かった。 今一番気まずい二人が席に残されている。今夜、カエデとカツラはまだ直接二人で話をしていない。沈黙の時間が数分流れる。 カエデはカツラの視線を感じ続けていた。不快な思いもそろそろ限界に達しようとしていた。今日はいろいろありすぎて、これ以上耐えることは不可能だった。 「あの...。なんですか?さっきから。言いたいことがあるのなら言ってください。」 カエデはカツラをしっかり視界に(とら)えてはっきりと言った。優しい琥珀色の瞳は強く輝いている。カツラの美しい翠の瞳は動じることなく、冷めた眼差しだ。 「カエデはタイガが惚れたやつだから興味がある。」 カエデはカツラの返答に言葉を失った。カツラのタイガに対する執着心に触れ背筋がゾクリとした。何か言わなければと思ったが、カツラの何を考えているのかわからない瞳に絡み取られカエデの頭は真っ白になった。 「カエデ。おまえ、見ていたんだろ?」 カツラからのこの思いがけない問いかけにカエデは返す言葉が思い浮かばなかった。「見ていた」それはタイガとカツラの情事に違いなかった。「彼は僕が見ていたことに気付いていたのか?気付いていながらあんなことを...?」 「なんのことですか?」 カエデは視線を逸らし咄嗟にしらを切った。しかし普段から嘘をつくことをしないカエデの嘘は誰が見ても嘘とわかるほどひどかった。 「本当に見ていたのか...。その様子だとショックだったのか?」 カツラは心底驚いた様子で言った。カツラのこの言葉を聞いてカエデははめられたのだと気づいた。しかしもう手遅れである。「この人...。すごくやりにくい。僕は苦手だ。」カエデはカツラに対して負の感情を抱いた。 「なんでショックなんだ?カエデには新しい恋人がいるんだろ?」 カエデのそんな気持ちなんてお構いなしにカツラが言葉を続ける。 「タイガは...。もうつき合ってはいないけれど僕にとっては大切な友人なんです。そんな人に自分の知らない一面があるのだと気付いたら多少動揺してしまうのは普通でしょう?」 カエデは自分の心の奥底にあるタイガへの思いを隠すために、世間一般的な正論を言った。  カエデは彼らの行為を見た後すぐに恋人のリョウブに連絡をした。しかし、勝手気ままリョウブはカエデを冷たくあしらった。リョウブのこんな対応は日常茶飯時であったが、今夜はカエデにかなりのダメージを与えた。  リョウブは野生的であるがどこかしら寂し気な男である。そんな彼をカエデは放っておけなかった。そばにいて支えたい、力になりたいと思った。こんな思いを抱いたのは彼が初めてだった。自分かタイガ、どちらかを選ぶようリョウブに迫られ、あの時カエデはリョウブを選んだ。それは間違っていなかったと思いたかったが、リョウブは野生的であるが故に難しい男だ。カエデはリョウブに振り回されっぱなしで、最近彼との関係に疲れていた。  そんな時にタイガと再会し、ゆっくり話すとやはり癒された。タイガは変わらず暖かく優しいままだ。年上のカツラに振り回されているように見えるタイガはやはり自分と似ていると不思議と安心感があった。もしかしたら、お互い異なる相手との付き合いに疲れ、二人の関係が元に戻るのではという考えが今夜何度も頭をよぎっていた。  しかし...。タイガとカツラが激しく愛し合う行為はそんなカエデの淡い期待を覆した。タイガはカツラから離れられない。淫魔(いんま)のようなカツラの美貌にタイガは夢中だ。まるで野獣のようにカツラを貪りつくしていた。タイガはカツラの求めるままに行動し、そうあり続ける。タイガ自身もそれを強く望んでいる。  カエデはこの時初めてタイガと別れたことを後悔した。よりによって相手がカツラであるがためにタイガがカエデとヨリを戻すことは不可能のように思えた。 「カエデ。タイガは返してやらない。もう俺のものだからな。」 カツラはゆっくりとそしてはっきりとした口調でカエデに伝えた。カエデは信じられないという目で再び視線をカツラに向けた。カツラにはカエデの気持ちなどお見通しなのだ。カツラの眼差しは強く、意志の強さを感じさせた。タイガは誰にも渡さないと。 「僕はそんなつもりは...。」 カエデは完全に言い負かされ視線を下に落とした。 「フジキさんはまだ?」 なにも知らないタイガが呑気に席に戻って来た。 「ああ、確認にまだかかっているみたいだ。」 カツラがさらっと答えた。 「そうか...。カエデ?どうしたんだ?」 カエデは涙を流していた。 「カエデっ?」 タイガは驚き再びカエデに声をかけた。 「タイガ、ごめん。僕、具合が悪いから先に帰るね。タクシーで帰るから。」 カエデはそう言って席を立ち、タイガが引きとめる間もなくその場から立ち去っていった。

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