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第171話 14-11

カツラはタイガから受け取った婚姻届けを手に『desvío』に向かっていた。 空を見上げると珍しく星々が見え空気も澄んでいた。記憶を失くし、取り戻したカツラはまるで生まれ変わったような感覚だった。なにもかもがきらめいて見える。そしていま自分の置かれている状況も。他人に興味のなかった自分のそばに愛する人がいるのだ。 店は営業中だがピークの時間は過ぎている。カツラは裏口ドアから店に入り、そのまま厨房に向かう。 「おつかれ」 「カツラさんっ。おつかれさまです。今日は休みですよね?」 ウィローが私服で厨房に来たカツラに声をかけた。そしてそのまましばらく時間が止まったようにカツラを見る。 今夜のカツラは美しかった。今までとどこがどう違うと言われたら即答はできないが、不思議と人を惹きつける魅力があふれ出ていた。しいて言えば幸せオーラというものなのだろうか? なにか吹っ切れたような鮮やかな表情は見る者を魅了した。 「ウィロー?」 反応のないウィローにカツラが声をかける。 「あ、えっとっ...」 つい見とれあからさまに動きが止まってしまったウィローが動揺する。カツラが不思議に思っているともう一つの視線を感じそちらに目を向ける。 「フヨウ?おつかれ。なにやってんだ?手、止まってんぞ」 「カツラさんっ!今、俺に話しかけました?!」 カツラが記憶を失くしてから一言も口をきいてもらえていなかったフヨウが一瞬の間を置き衝撃を受け確認する。 「はあ?なに言ってんだ。店長は?今夜はカウンターだよな?」 「そうです。俺、呼んできましょうか?」 「そうだな、頼む」 ウィローが店長を呼びに店内に向かう。時計を見ながら待つカツラにフヨウも見とれていた。「カツラさん、なにがあったんだ?いつも綺麗だけど、今日はすごく綺麗だ...。エロい...」カツラに完全に振られたフヨウであったが性懲りもなくまだカツラに欲情していた。 フヨウから舐めまわすような目で見られているカツラだったがそんなことには全く気付く様子もなく、とても機嫌がいいのか店内の方に視線を向け店長が来るのを待っている。  「カツラ?どうした?今日は(せわ)しないな」 午前中にカツラと顔を合わせていた店長がやってきた。 「ちょっと話があって。今、いいかな?」 カツラが店長に事務所の方で話せるか尋ねた。 「ちょうど落ち着いてきたところだから。いこうか」 店長はカツラの前に立ち、事務所へと向かった。 厨房に残されたウィローとフヨウは茫然と二人を見送る。カツラが去った跡にはほのかに石鹸の香が残っていた。 「で、なんだ?話とは?」 事務所の椅子に腰を掛け店長が尋ねた。 「実は。これに署名してほしくて」 カツラは言いながら婚姻届けを店長に差し出した。 「これは...。カツラ、記憶が戻ったのか?」 店長が立ったままのカツラを見上げながら言った。 「うん。店長のおかげだ。朱色の酒を見て全て思い出した」 「そうかそうか。それはよかったな。タイガ君、喜んでるだろ?」 店長はまるで自分のことのようにふふふと微笑みながら言った。 「でもこれを僕が書くのはな」 「最初は俺の祖父に署名してもらう予定だったんだ。でも俺は記憶を失くしてしまったから。祖父は遠出に出かける人でタイミングを逃してしまった。次に会えるのはいつになるかわからない。一月以上は先になると思う」 カツラの話を店長はふむふむと頷きながら聞いていた。 「店長は俺の親みたいなもんだ。ずっと世話になってる。記憶を失くして今また戻った。俺にとってタイガは本当に大切なやつなんだ。もう先延ばしにしたくない」 真っすぐに店長を見据えて話すカツラの瞳はすんでいた。迷いが全くない瞳だ。 「そうか。そこまで気持ちが固まっているのなら。おじいさんにもきちんと説明するんだぞ」 「心配ない。署名してもらう約束はつけていたから」 「なるほどな」 店長は胸ポケットからペンを取りだし婚姻届けのカツラの証人の欄に署名をした。そしてカツラに手渡す。 「カツラ、おめでとう。今度またタイガ君を連れてこい。旨い酒、奢ってやるから」 「ありがとう、店長」 カツラは婚姻届けを受け取り確認する。 ようやく完成した。カツラは大切にそれを手に持ち店をあとにした。

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