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第296話 19-5

仕事を終え、自宅にかえる。いつもならタイガは起きているだろうか、今夜は一緒に汗を流せるだろうかなどと甘い妄想に囚われ浮き立つ気持ちで家路につくのだが、今夜ばかりは気持ちが沈んだままだった。 それもこれもあのベラとかいう女のせいだ。 冷静になって考えてみると、今になってベラにはめられたのだと気づいた。一般的な意見などはなから聞くつもりはなく、人工授精についてタイガの精子提供をカツラに認めさせたかったのだ。 カツラが何よりもショックだったのは、誰よりも一番信頼していたタイガが、カツラぬきでこんな大切な話を進めていたことだった。詳細はタイガに確認しないとわからない。 仕事なのだから仕方ないのないことであるが、ベラと二人で何度も会い、その間にベラとロゼールと三人で示しあわせていたことがこたえた。 ノロノロと階段をあがる。 「おかり、カツラ。遅かったんだな。店、忙しかった?」 今夜はタイガに先に休んでいてほしかった。こういうとき、どうすればいいのかわからない。そもそもこのような気持ちになることさえなかった。面倒だと感じた瞬間、関係はあっさり切ってきたのだから。 「うん。少し疲れたから…。タイガは先に休んで」 「カツラ」 タイガの隣を素通りし、カツラはバスルームに向かった。 タイガに嫌われたくない。しかし、この問題は避けて通れそうにない。タイガと話さなければいけないが、そのことを考えると気が沈んだ。 服を脱いだカツラは気持ちを落ち着かせるために頭から冷水を浴びた。 「カツラ…。なにがあったんだ?なにかあったんだろう?」 シャワーを浴びた後、カツラはすぐに寝室に行かなかった。そもそも眠気はなかったし、いまの気持ちのままではタイガのとなりではなおさら眠れそうになかったからだ。 タイガはカツラをずっとまっていたのか、様子をみにきたようだ。 「いや、別に」 カツラはタイガを一瞥しただけでおし黙った。カツラはグラスにアルコール度数が強い酒を入れていた。しかし今の状態で口にしても全く酔わなかった。カツラはグラスに視線を落としたまま再びタイガのほうを見ようとはしなかった。 タイガはカツラの普段とは違う態度にことの深刻さを感じとり、カツラにあゆみより背後から抱きしめた。 「カツラ、カツラ…なにがあったか話して。力になりたい」 タイガの逞しい腕に抱かれカツラは決してこの腕を離したくないと思った。黙って振り返りタイガを見上げる。 「カツラ…」 タイガはカツラの顔を包み込みそっと唇を重ねた。優しく触れたのは最初だけですぐに舌を絡めあいお互いの口腔内をまさぐるキスにかわる。 「好きだ、タイガ…。お前が…」 「わかっているよ。俺も同じ気持ち」 タイガは今度は正面からカツラを抱きしめ、体を離しカツラの両手をにぎった。 「どうしたんだ?」 タイガの瞳は優しい薄いブルーの色だ。カツラは視線を下に向けた。 「あのレストランは反対だ。そもそもコンセプトが違う。オーナーに関するニュースを読んだけど、かなりワンマンらしい。きっとうまくいかない」 「え?」 タイガはきっと店でなにかあったのだろうと思っていた。カツラの予想外の話に戸惑う。 「えーっと…」 タイガはなんと言っていいのか分からず話の意図を掴もうとした。 カツラからすれば話の核心はこれではない。カツラはタイガの反応を探っていた。 「あのさ…」 カツラは話しにくそうに再び視線を逸らすが、意を決してタイガと視線を合わせた。 「今日、レストラン提携のことは一切ベラとは話さなかったんだ。お前が帰ったあと、ロゼールがきたんだ」 「え?」 「顔見知りなんだよな?人口受精のことを相談されたよ。タイガの精子を使う予定だって」 「え?ちょっ、ちょっと待って。いったいどういう…」 「お互いの卵子、精子を提供し合う方向で話が進んでるんだろう?俺は…。俺は知らなかった」

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