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𝐷𝐴𝑌 𝟙𝟙 ⇨ 𝐷𝐴𝑌 𝟙𝟚 ⑦

 古い部屋は湿気が篭っていて礼は窓を開けて風を通す。建て付けのの悪い窓の開閉も大分慣れた手つきで軽々と開けた。 中に入り外観イメージ通りの部屋は特に驚きもなく、ただやはり礼には不釣り合いのアパートだと古びた壁や柱を見ながら麻比呂は思った。  『あ、、ホントに段ボールの机だ……物が全くないですね』  「面白味のない部屋でしょ」  『まぁー…だけどこの狭い部屋じゃ何も置けないから仕方ないんじゃないですか』  「それが意外と気に入ってるんだよね。ここから海はよく見えるし、他に誰も住んでないから静かだしね。それに麻比呂くんとこのカフェも坂を降りて歩いてすぐだから」    そう言いながら窓の外を見る礼の焦茶色の短い髪とじっとりと汗ばんだ首元を風が通り、部屋を少し涼しくした。 麻比呂はただじっと礼の後ろ姿を見つめる。だけどその背中は違う誰かを重い浮かばせるような、見たことも触れた事もある背中。  "お兄ちゃん"  麻比呂の脳裏に焼きついた子供の頃の記憶が呼び起こされて口が勝手にそう動いた。だけど声は出ていないのはどこかでブレーキがかかったから。  礼の焼けた肌が低い天井のライトに照らされ左手で持ったタオルで汗を拭き、そのまま首にかけたその仕草さえもフラッシュバックしてくる。  7歳年上の兄、樹未斗も左利きだった。  小学生の頃、学校から帰るとすぐに海岸へ走った。気が済むまで何時間も波に乗っている兄を浜辺から探してあとはただ座って見ている。 多くのサーファーがいても兄を探すのは容易かった。左利きは右利きとは逆の左足がサーフボードの前にくるグーフィースタンスで遠目からも分かりやすい。 ただそれ以上に他の人とは違うスキルの高さと華やかさが一目瞭然だった。  浜辺に戻ってくるとタオルを持って駆け寄って渡す。"サンキュ"と言って顔や髪の拭く兄の姿を見るのが楽しくて嬉しくて、そして憧れた。  麻比呂にとってヒーローのような兄が今まさに目の前で生き返ったように立っている。 礼の雰囲気や仕草や見た目までも樹未斗と重なって呆然と立ち尽くしてしまう。  「ん?どうしたの?」  『えっ!あっいやっ、何でもないです、、!あっこの机どこに置きます!?』  「あー適当にその辺置いてていいよ、後で移動させるから。ありがとね」  椅子を机の横に並べるように置いて汗でへばり付くTシャツの裾をパタパタと仰ぐ。それは暑さの汗か緊張の汗か、どちらにせよこの空間に平常心ではいられない。  「それと麻比呂くん嘘ついたね?」  『えっ、、何の事ですか?』  「初めて会った時、海が嫌いって言ってたよね」  『はい、言いましたけど』  「子供の頃、つばさくんと毎日のように海で遊んでたんでしょ?それなのに嫌いなんてわけないよね。もしかして麻比呂くんもサーフィンを?」  『……少し、、2年くらいだけ。学生の時で6年前ですかね。確かにその時は海は好きでした、だけど嘘はついてません。今は海が嫌いです』  「そう。その嫌いになったきっかけはー…サーフィン辞めた事と関係があるのかな?」  まるで樹未斗に質問されてるかのようで言葉も視線も苦しかった。あんなに生活の一部だった海とサーフィンを嫌いになるにはそれなりの理由はある。 ただそれを今ここで話したところで、きっと同情の目でありきたりな慰めや励ましの言葉を貰うだけ。そんなの虚しい思いを兄に似た人の前でしたくないと本音を閉ざした。  『ないです。ただ単につまんなくなっただけで意味なんてないですよ。あっ、それじゃ俺はこれで帰ります。おやすみなさい!』  そう言って逃げるように部屋を出て行った麻比呂。ゆっくり怖がりながら登っていた外の錆びた階段をカツカツと激しく降りていく音が中まで聞こえる。  一人になった礼は麻比呂が運んだ椅子に座って背もたれに寄り掛かる。なかなか座り心地の良い椅子に満足して天井を仰いで目を閉じた。  夏と言う短く限られた時間をあらゆる海岸で過ごしてきた礼が目の前で"海が嫌い"と言われたのは初めての事だった。  ライフセーバーの立場としてはやるせない言葉だがたった二ヶ月強の間に自分が彼に出来る事は無い。ひと夏の出会いなんてすぐに忘れてまた次の夏を迎えどこかの海岸の浜辺に立っている。  それでいい、誰かと深く関わる事はもうしない。それが礼が仕事する上での決め事でもあった。  

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