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盗み見

 屋上と校舎を繋ぐ唯一の扉が、軋んだ鈍い音を立てる。まさかこんな時間に誰かやってくるとは思わず、省吾は息をひそめた。死角で省吾の姿は見えないだろうが、少しでも面倒は避けたい。  足音は二つだった。ぺたぺたと擦るように歩く弱気な音と、革靴の踵が力強く響く、自信に満ち溢れた靴音。  省吾はこっそり覗き見る。逆光になっておりはっきりと顔は見えなかったが、一人は誰なのか分かる。あの身長の高さと堂々とした佇まいは間違いなく錦公太郎だった。  何故こんなところで錦に出くわすのだと、省吾は心の中で悪態を吐く。昼休みの会話と、午後の授業をさぼってしまった罪悪感で、今一番顔を合わせたくない人物だ。  出ていくにも出て行けず、ただ二人がいなくなるのをジッと待つしかない。 「ここなら誰もいないから、言いにくいことでも話せるだろ」  錦が相手に向かってそう言った。人のいなくなった学校は静かで錦の低い声がよく通る。そんなつもりはなくても盗み聞きしているようで居心地が悪い。 「話ってなんだ?」  穏やかな声だった。相手を尊重し、自分は味方だと思わせる包容力に満ちた声。悩み事を抱えた青少年にとって、それは大いに救いになるだろう。  錦の前に立つ人影は、それでももじもじするだけで中々話そうとしない。錦は相手を急かさず待ちの姿勢を続けているが、省吾のほうが焦れったくなってしまう。早くこの場から去りたいのに、これではいつまで経っても帰れない。  誰か分からない人影に、省吾はさっさとしろと念を送る。自分から話を持ち掛けておいて、今更になって言い渋るとは何事だ。  小刻みに揺れる人影を穴が開くのではと思うほど見続け、省吾はようやく悟った。  これはまさか、あれではないだろうか。  日暮れの屋上。辺りには誰もおらず二人きり。相談があると話を持ち掛け、いざその時になると勇気が出せず言い淀んでしまう現象。こんなシチュエーションは青春恋愛ドラマにド直球だった。  どうやら間の悪いことに、よりにもよって愛の告白シーンに遭遇してしまったらしい。  そのことに気付くと省吾まで妙に緊張してきてしまう。テレビや漫画で見たことはあるが、実際に告白シーンなど目の当たりにしたことがない。相手が錦という、見知った人物なのも妙に生々しかった。  盗み聞きも覗き見もしてはいけないと思うのに、意識はどうしてもそちらに向いてしまう。  省吾は固唾を飲んで二人を見守った。 「あのっ、先生……!」  ようやくもう一人が動きを見せる。錦を先生と呼ぶからには、相手は生徒で間違いない。女子生徒にしては声がハスキーだが、緊張で声が上擦っているのだろうか。 「こんなこと言うの、おかしいかもしれませんが、僕……先生のことが好きなんです!」  一人称が僕というのは今時珍しくないかもしれないが、それでも少し新鮮だった。少なくとも省吾は学校内で一人称が僕という女子生徒に出会ったことがない。 「別になにもおかしくないよ」  錦は優しくそう声をかける。生徒からの告白など、受け入れることはできないに決まっているのに、その優しさは逆に相手を苦しめるのではないか。省吾はそう思ってしまう。 「……本当にそう思いますか?」 「思うよ。俺は人を好きになることに境界線はないと思っているから」 「先生……!」  感極まったのか、生徒が錦の胸に飛び込む。錦は両手をスラックスのサイドポケットに入れたまま、動かそうとはしなかった。 「ずっと不安だったんです。僕、先生を見るとドキドキして、先生は男の人なのにこんなのおかしいって……。男の先生に恋愛感情を持つなんて、気持ち悪がられて当然だと思ってた」 「気持ち悪いなんて思わないよ。好きになってくれてありがとう」  でも、と錦は前置きを入れる。 「俺は教師で君は生徒だ。だから今の俺には君の気持ちに応えることは出来ない」  だろうな、と省吾は思う。悩む間もない目に見えた返答だ。相手もそれを最初から覚悟していたのだろう。悲しむ素振りは見せなかった。 「分かっています。僕は、先生が僕の気持ちを気持ち悪いって言わなかっただけで嬉しいです。それに先生、今言いましたよね。今の俺にはって……。それってつまり、教師と生徒の関係がなくなったら、可能性はあるかもしれないってことですよね」 「未来のことは誰にも分からない。俺が君を好きになる未来があっても不思議じゃないさ」 「なら僕は、卒業するまで待ちます。待って卒業式の日に、もう一度告白します。それまでに先生に好きになってもらえるように、頑張りますから……!」  錦の胸の中にいた生徒がグッと背伸びをして顔を近付け、二人の唇が重なる。まさかいきなりキスシーンになるとは思わず、省吾は驚きのあまり息をすることを忘れた。  二人の影が重なり逆光の眩しさが軽減される。朧げに浮き上がった生徒の姿に、省吾は更に度肝を抜かれた。

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